誹謗中傷だけでなく、人が何かの被害に遭った後、再び傷つけられる瞬間があります。
それは、被害者が声を挙げた時に返ってくる世間からの反応です。
様々な反応がある中で、被害者に対し「もっと出来ることがあったのではないか」「そんなことはスルーしてしまえばよかった」「自分には関係ない」などの言葉は、被害者を暴力的に追い詰めます。
確かに、被害者にもっと上手いやりようはあったかもしれません。「関係ない」と思うのも個人の勝手です。しかし、その意見が声を挙げた本人の目に触れることは、被害者の心に追い打ちをかけることも事実です。助けを求めた相手に、面倒事を持ち込んだかのように扱われたり、対応できないと返されるのも被害者に同じ辛さを味合わせるでしょう。
「助けてほしい」「傷つけられた」と声を挙げたことで「冷静な採点」に晒され、または「事なかれ主義」によってその声を無かったことにされた被害者は、周囲に絶望してその場を去るしかなくなります。
Twitterは自由な発言の場です。何を書き込むのも自己責任でしょう。では、そのように声を挙げ、追い打ちを受けることになった被害者も、自己責任なのでしょうか?追い打ちを受けるくらいなら、黙って去るのが賢い選択だったのでしょうか?ムルムルは、それは違うと思います。
被害者の声は、その集団内に他者に加害する者が居るのだと周囲に知らせる警笛です。その警笛を無視する集団の未来は、良い方向に進まないでしょう。
そして発言の自由と自己責任という名の元に、無視されがちな「場の空気」というものがあります。
例えば上記のように、「ここには問題がある、傷つけられた者がいる」と声を挙げたが為により辛い思いをして界隈を去った人を見て、他の方はどう思うでしょうか。「声を挙げたら、自分もあの人のように余計に辛い思いをするのだ」と不安になるのではないでしょうか。そして「何かあったら黙って去るか、我慢して口をつぐむしかないのだ」と怯えるようになります。そのような怯えが集団内に広がり、その場の空気が作られます。
「その場の空気」の力は絶大です。それのせいで、誰も「ここに問題がある」と言わなくなる。ただ、自分が次のターゲットにならないように怯え、時たま次の不幸な「被害者」が現れて去っての繰り返し。そんな空間、安心して楽しく居られる場所ではないとムルムルは思います。
「その場の空気」が恐ろしいのは分かります。しかし、個人が何となく発信した「事なかれ主義」と「冷静な採点」が被害者に追い打ちをかけ、「場の空気」を形成します。ここまでくると、もはや「安心できないその場の空気」の形成に加担しているのは「加害者」のみとは言えないでしょう。「その場の人々」が作っているのです。
しかし逆に言うと、「その場の人々」が「その場の空気」を作ったならば、「その場の空気」を変えるのも「その場の人々」なのだと思います。
だから、現状が嫌だというなら行動しましょう。別にいいならそれでもいいです。ムルムルは部外者だし。
以上、終わります。