まず断っておくが、私は決して宗教学者ではない。これから書かせていただくことに異論などあるかもしれないが、中立の一般人として客観的に見た視点で述べてみたい。
ただ、キリスト教は学校がミッション系でもあったし自分の名前もそこから来ているから、聖書はよく読んだ。今は英語との対訳本も出ているから、英語の勉強もかねて愛読書の一つとしている。
仏教については、これは心もとないのであるが、手塚治虫の「ブッダ」を取っ掛かりとして、般若心経の解説本や釈迦の生涯を簡単に綴った入門本でしか知識がない。
宗教問題は軽々しく語っていいものではないのはよく分かっている。しかし、世界に出てみると日本人の無宗教ぶり、ごちゃ混ぜぶりがよく分かる。例を挙げれば、12月25日にはクリスマスを祝ったと思ったら、その数日後には神社仏閣に初詣に行く。
私は浅草で生まれ育ったが、意外にも「浅草寺」と「浅草神社」の違いを知る人は少ない。ちなみに、三社祭とは浅草神社でのお祭りであって、決して浅草寺のものではない。ただ、同じ敷地内にあるから素人には分かりづらいのである。
話を元に戻そう。
私は聖書(この場合は新約聖書)と釈迦の教えに関する本を読んだ上で気づいたこと、分析したことがある。
まず、どちらも「本人が書物として教えを残していない」点は注目すべきだろう。ことに新約聖書では明らかに使徒の経験の伝承でしかない。また、どちらも偶像崇拝を禁じており、正しい教えを自分のものに取得し、その自分自身を心の拠り所にせよ、と言う点でも一致している。
また、ごく単純に見てみると、どちらも「如何に生きるべきか」と言うことに対する教えであり、決して「死んでから天国に行くには」と言うことに主眼を置いていない。それはあくまで教えの中では「結果論」にすぎないのではないだろうか。
改めて言うが、私は専門家ではない。だからこそ主観に縛られず、誰からの強制も受けず、客観的に話が進められていると思う。どちらが優れているかを断ずるつもりは毛頭ない。
ただ、イエスと釈迦の生涯を見るときに、大きな違いはその教えた期間の長さである。
イエスはヨハネから洗礼を受けたあと、早速伝道活動に入る。しかし、その行動はあまりにセンセイショナルで、例えば病人を治した後に口止めしたにもかかわらず、あっという間に世間に広まっていく。また、当時はユダヤ教(旧約聖書)の天下であり、それに反するのは神への反逆だとされていた。その中で「私は神の子」と公言していたのだから、当然反発もあったろう。結局、布教開始から僅か3年程度で十字架に上ることになる。
一方釈迦は元はシャカ族の王子であり、王の座を捨てて修行への道に入る。ここでポイントなのは「布教」ではなく「修行」であるところに大きな違いが見えると思う。
その後、あらゆる修行を通して、特に当時流行っていた「苦行」では何も得られない、という結論に7年かけて達し、独自の修行を始める。その後、ついに「悟り」を開くのだが、彼は思い悩む。自分でさえここまでかかったこの悟りを、果たして人に伝えることなど出来るのだろうか?という疑問に突き当たる。その後、約50年に渡り布教活動を続けていくのだが、面白いことに「悟った」はずの釈迦の教えは知られているだけでも5段階に分別できる。つまり、彼は悟ってからも常に真実に向けて答えを、伝え方を最後の瞬間まで模索していたことになる。
この話は日本人にとって非常に重要な話なので、もっともっと語っていきたいが、どうやらまた長くなりすぎたようだ。この続きは、またの機会に。
くれぐれも、誤解していただきたくないのだが、宗教の優劣や正邪を論じているのではない。しかしながら、つたない知識の上での話しなので、間違っていること、誤解を生む表現などあるかもしれない。そのあたりは、ご理解いただきたい。
ただ、キリスト教は学校がミッション系でもあったし自分の名前もそこから来ているから、聖書はよく読んだ。今は英語との対訳本も出ているから、英語の勉強もかねて愛読書の一つとしている。
仏教については、これは心もとないのであるが、手塚治虫の「ブッダ」を取っ掛かりとして、般若心経の解説本や釈迦の生涯を簡単に綴った入門本でしか知識がない。
宗教問題は軽々しく語っていいものではないのはよく分かっている。しかし、世界に出てみると日本人の無宗教ぶり、ごちゃ混ぜぶりがよく分かる。例を挙げれば、12月25日にはクリスマスを祝ったと思ったら、その数日後には神社仏閣に初詣に行く。
私は浅草で生まれ育ったが、意外にも「浅草寺」と「浅草神社」の違いを知る人は少ない。ちなみに、三社祭とは浅草神社でのお祭りであって、決して浅草寺のものではない。ただ、同じ敷地内にあるから素人には分かりづらいのである。
話を元に戻そう。
私は聖書(この場合は新約聖書)と釈迦の教えに関する本を読んだ上で気づいたこと、分析したことがある。
まず、どちらも「本人が書物として教えを残していない」点は注目すべきだろう。ことに新約聖書では明らかに使徒の経験の伝承でしかない。また、どちらも偶像崇拝を禁じており、正しい教えを自分のものに取得し、その自分自身を心の拠り所にせよ、と言う点でも一致している。
また、ごく単純に見てみると、どちらも「如何に生きるべきか」と言うことに対する教えであり、決して「死んでから天国に行くには」と言うことに主眼を置いていない。それはあくまで教えの中では「結果論」にすぎないのではないだろうか。
改めて言うが、私は専門家ではない。だからこそ主観に縛られず、誰からの強制も受けず、客観的に話が進められていると思う。どちらが優れているかを断ずるつもりは毛頭ない。
ただ、イエスと釈迦の生涯を見るときに、大きな違いはその教えた期間の長さである。
イエスはヨハネから洗礼を受けたあと、早速伝道活動に入る。しかし、その行動はあまりにセンセイショナルで、例えば病人を治した後に口止めしたにもかかわらず、あっという間に世間に広まっていく。また、当時はユダヤ教(旧約聖書)の天下であり、それに反するのは神への反逆だとされていた。その中で「私は神の子」と公言していたのだから、当然反発もあったろう。結局、布教開始から僅か3年程度で十字架に上ることになる。
一方釈迦は元はシャカ族の王子であり、王の座を捨てて修行への道に入る。ここでポイントなのは「布教」ではなく「修行」であるところに大きな違いが見えると思う。
その後、あらゆる修行を通して、特に当時流行っていた「苦行」では何も得られない、という結論に7年かけて達し、独自の修行を始める。その後、ついに「悟り」を開くのだが、彼は思い悩む。自分でさえここまでかかったこの悟りを、果たして人に伝えることなど出来るのだろうか?という疑問に突き当たる。その後、約50年に渡り布教活動を続けていくのだが、面白いことに「悟った」はずの釈迦の教えは知られているだけでも5段階に分別できる。つまり、彼は悟ってからも常に真実に向けて答えを、伝え方を最後の瞬間まで模索していたことになる。
この話は日本人にとって非常に重要な話なので、もっともっと語っていきたいが、どうやらまた長くなりすぎたようだ。この続きは、またの機会に。
くれぐれも、誤解していただきたくないのだが、宗教の優劣や正邪を論じているのではない。しかしながら、つたない知識の上での話しなので、間違っていること、誤解を生む表現などあるかもしれない。そのあたりは、ご理解いただきたい。