誰もいない、ひしゃげた校舎の前に、石碑がぽつんと置かれている。そこには、こう刻まれている。
初陣高田高の/夢にまで見た甲子園は/ユニホームを重くする雨と/足にからみつく泥と/白く煙るスコアボードと/そして/あと一回を残した無念と/挫(くじ)けなかった心の自負と/でも やっぱり/甲子園はそこにあったという思いと/多くのものをしみこませて終(おわ)った/高田高の諸君/きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある/そして/青空と太陽の貸しもある
23年前の夏、作詞家の阿久悠(あく・ゆう)がスポーツニッポン新聞に「コールドゲーム」と題して寄せた詩の一部だ。岩手県陸前高田市に立つ県立高田高校の校舎3階までをのみこんだ大津波に、石碑は耐えた。
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1988年8月10日、甲子園初出場の高田高校の選手たちは、兵庫代表の滝川第二高校との初戦に臨んだ。帽子とアンダーシャツのスカイブルーが目を引いた。
1回表。先頭打者の捕手・佐々木秀樹(ささき・ひでき)がいきなり三塁打を放ち、続く中堅手・尾形良一(おがた・りょういち)が投手の足元を抜く適時打で先取点を挙げる。が、すぐに追いつかれ、逆転された。
試合前から時折落ちていた雨が中盤から激しくなる。マウンドにも水が浮き、ユニホームは泥だらけになった。
8回裏。ファウルを打った相手打者のバットがすっぽ抜けて一塁線に飛んだ。審判は試合の中断を告げる。雨脚は強くなる一方だった。
11分後。グラウンドに主審が出てきて、右手を高々と上げた。
9対3。56年ぶりの降雨コールドだった。試合終了のサイレンは鳴らず、滝川第二高校の校歌斉唱もなかった。
盛岡第一高校校長の高橋和雄(たかはし・かずお)(59)は当時、高田高校の野球部副部長だった。下着までびしょぬれになりながらスタンドで応援した。「こんな終わり方なのか」と思った。宿泊先の神戸市内のホテルに戻ると、昼間の雨はうそのように晴れ、夕食は屋外でとった。下を向く選手たちの横で、今は亡き監督の三浦宗(みうら・たかし)と黙って空を見つめた。美しい夕日が目にしみた。
以来、高田高校は甲子園の土を踏んでいない。
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今年の元日夜、陸前高田市内の居酒屋に当時の野球部の3年生16人のうち、11人が集まった。
千葉県在住の会社員で、主将だった及川重幸(おいかわ・しげゆき)(41)が集まろうと言い出した。陸前高田市役所に勤める尾形(41)と村上知幸(むらかみ・ともゆき)(41)がみんなに連絡した。全員が地元出身だが、地元に残ったのは8人。県内に1人、県外に7人が出ていた。
みな40歳を迎え、社会の中堅どころになった。こんなに集まったのは、卒業以来初めてのことだった。
酒が入ると、甲子園の試合の日に戻った。「1回はいけると思った」と村上が言えば、「俺たちの守りのときの方がいつも雨脚が強かったよなあ」と尾形。建設会社に勤める当時の4番打者・熊谷勉(くまがい・つとむ)(41)も「もっと早い回で俺たちがバットをぶん投げてれば、試合は成立しなかったな」と、試合を止めた相手の攻撃の場面を冗談にした。
消防士の佐々木(41)は「バカ話だが、久しぶりにすごく楽しかった。野球部の同期は特別」。みなが笑顔だった。毎年、元日と夏に集まろうと言い合って散会した。
このときは誰も、あの日が来るとは思いもしなかった。
(このシリーズは文を編集委員・大久保真紀、写真をフリー・八重樫信之が担当します。文中敬称略)