広島電鉄の設立と戦時下の状況(昭和17年~昭和20年)
電車の状況
太平洋戦争によってあらゆる物資の入手が困難になると、広島瓦斯電軌は、産業別に経済統制を行うという政府の方針に沿って昭和17年4月10日に当社、広島電鉄(株)を設立し、電車・バス部門を分離しました。当社は軍需工場の工員、産業戦士を輸送するという使命を負い、利用者が急激に増加しました。しかし資材の不足に加え、従業員の多くが出征していく中で人手不足も深刻な状態となっていきました。これを補うため、昭和18年4月には家政女学校を新設しました。この女学校の生徒は学業とともに電車・バスの車掌や運転士までこなしました。翌年からは女子挺身隊の女性も車掌の業務を行い、動員学徒は電車の工場で補修作業に従事しました。
こういった情勢の中、軍需工場への輸送力を更に強化するため、軍部の要請により昭和19年に比治山線、江波線を相次いで開業しました。
バスの状況
これまで小規模経営の会社が林立していたバス業界でも、国の方針に従って統合することとなり、広島県西部エリアでは当社が8つのバス会社を合併しました。これまで市内線だけを運行していた当社は、これによって郊外線も、ほぼ今日の幹線網を形成しました。しかし輸送の効率化を図るため鉄道との競合区間を休止し、特に市内線は所有車両の半分程度が稼動している状況でした。
原爆投下
昭和20年8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下されました。当社も社員や家政女学校の生徒など185名が殉職し、266名が負傷しました。市内電車は車両123両中108両が被災し、支柱の倒壊によって架線が甚大な被害を受けました。バスも市内バス車両のほとんどが被害を受けました。
しかし、なお決戦下であり、当社は市・軍当局と協働して復旧作業を行いました。3日後には己斐~天満町間で電車が復旧し、多くの市民を勇気づけました。