1945年も7月になると、連合軍兵士の士気は目立って低下しました。
当然といえば当然で、兵士たちにとっては、戦争はもう5月8日に終わっていて、新聞記事は、通りを埋め尽くす紙吹雪のなかの凱旋パレードや連日の祝勝パーティのことばかりになっている。
故国のひとびとは、ナチという中世の巨大な龍のような敵と戦って、ついに勝って、
これでヨーロッパに平和がやってくる、と毎日シャンパンに酔いしれては、杯を交わしていた。
19歳で、遊びたい盛りのElizabeth Alexandra Mary、後のエリザベス女王なども、こっそり、お忍びで、城外に出て、ロンドンッ子たちのバカ騒ぎに夜通し加わって、朝帰りで、家宰や執事たちを、心配させたりしていたようです。
一方で、当然、これで帰国できると考えていた英国艦隊は、ひとつにまとめられて、「東洋艦隊」という不吉な名前のもとで、海のうえで、陰鬱な作戦行動を取り続けていた。
全体の構図としては、単純に、火事場泥棒よろしく、欧州の戦乱に物資も最新兵器も人間も集中した結果、軍事的な真空が出来た東南アジアに進攻して、戦意もなく旧式兵器ばかりな上に、戦闘に際しては素人以下の文官あがりの将校に率いられた植民地軍を相手に「破竹の快進撃」を続けていた日本軍が、正面に登場しはじめた正規軍の登場によって、あっというまに押し返されていった、という、よくあるサブ戦線の模式図になっているが、日本軍はそのうえに、やるべきでないことばかりやっていて、事態をやむえをないレベルは遙かに超えて悪化させていた。
失敗の始まりは、占領地経済政策のデタラメさで、なかには軍人に「それでは、うまくいかない」と現地を調査したうえで進言した勇気のある人もいたようだが、利権を通じて軍部に取り入った、一発屋ぞろいの「南洋利権」に群がった御用「ビジネスマン」たちに、あっというまに排斥されてしまいます。
自分たちの利権だけを考えて、ほんとうはフィリピンやインドネシアの市場など、どうでもよかった彼らが立てた経済計画によって、インフレーションは、物価が一年で百倍になるという、2%のインフレを達成するのに国を亡ぼす基礎を築いた日銀の黒田総裁が聞いたら大喜びしそうな高率になってゆく。
次には、満洲作戦以来の日本軍の、いわば「癖」で、若い女をみれば物陰に連れ込んで班員全員で強姦し、生かしておくと行政府に訴えられたりすると面倒なので、殺してしまう。
戦後ながく、というよりも、いまでも、日本の男のひとたちの基本的なイメージが、綺麗事ばかり述べて、現実には女とみれば強姦することしか考えない卑劣な人間になっているのは、このことの兵士たちの姿が原像になっている。
来客相手に、そんな話をするわけがない、と、日本では表面を取り繕うだけの付き合いが多いのか、おめでたい人が現れて閉口したことがあったが、
多文化社会のニュージーランドに住んでいると、いろいろな国から移民してきた人たちの家に招かれて話をする機会があるが、わしとモニが日本に滞在していたことを知ると、奥の部屋から、「家族の歴史のアルバム」を取りだしてきて、
この叔父は日本軍に処刑された、この美しい叔母は、結婚式の前日に日本兵達の集団強姦にあって殺されました、と述べる人がおおくて、モニとふたりで驚いたことがある。
アジアの人に限らなかったようで、オランダの人で、豪華な製本の自家製本で自分たちの家族史をつくっていた人は、大叔母にあたるひとたちが姉妹でオランダの日本施政下で兵士たちに強姦されて殺害されたと述べて、いまでも日本人は好きになれないと言いながら、まだ子供の面影を残した、ふたりの若い女の人の肖像を指し示して、モニさんが涙ぐんでいたことがあった。
この経済政策の判で捺したような失敗と、食料を強奪に出かけて、ついでのように若い女たちを強姦してあるく日本軍兵士の姿は、やがて、まるで神の怒りのような鉄槌となって、日本軍自身に返ってきます。
フィリピンのレイテ島で作戦行動する日本軍は、なぜ最後まで、なにもランドマークがないジャングルのなかの行軍で、アメリカ空軍が隊列にむかって精確に爆撃と機銃射撃を加えてくるのか、理解できなかった。
なにしろ、まるで闇夜でも目が見える人のように、どんなに欺瞞行動を繰り返しても、精確な位置に爆撃や艦砲射撃を加えてくる。
読んでいて、あれだけのことをやっておきながら、自分たちの行動が、地域地域の住民達の自発的通報によって米軍に常に把握されていたのだと気が付かなかったところが、強姦や殺人くらいでは罪の意識を持たない日本の人らしくて、笑っていい話ではないが、やはり可笑しさがこみ上げてくる。
自分がどれほど狂った考えに取り憑かれているか、自覚はなくて、オオマジメにとんでもないことをツイートしたりしている、ある種の日本のネット人を彷彿とさせます。
日本の兵士たちは、追いつめられていった。
サイパン失陥後に戦死者の6割が集中する、という戦史に類例のない惨めな負け方は、
基本的にはサイパンが陥落すれば、そこで敗北は確定なのだから、そこで降伏すべきだった、という「負け方を知らない」日本軍の性格に起因するが、もうひとつには、
「戦争を遂行するのには補給は要らないはずだ」という帝国陸軍の作戦上の信念にも理由があるようでした。
読んでいて、「フランス軍制模倣時代にナポレオンの話でも読んだのかな?」と、あらぬことを考える。
大山巌や上原元帥は、たしかフランス軍を範としていたよね、と思って見たりする。
日本軍はドイツ式ということになっているが、実はドイツ軍は、カエサルと激しく戦闘を繰り返したガリア族の昔から、補給が上手なので有名な軍隊です。
一種独特の職人技ではあっても、最も典型的には、ロンメルのアフリカ軍団の作戦の立て方を観れば判る、「補給量によって作戦計画を立てる」伝統に、どの将軍も忠実でした。
日本は補給軽視によって戦争に負けた、と海軍の大井篤が、本を書いたり、熱弁を揮ったりして
「補給がわからない日本軍」ということになってしまったが、その実、
補給が理解できなかったというよりも、どうやら、日本軍は「補給というものは要らないものだ」というナポレオン式の軍事思想を持っていたようです。
常に攻勢に出て「敵の国土で戦う」軍隊として、割と単簡明快な理論で、「勝っていれば敵の糧食や燃料を使えばよく、負けた場合は、当該戦場の兵士をまるごと放置して見殺しにするほうが戦争経済的には有利である」という、数字的には、まことに正しい理屈に拠っている。
そこで、攻勢限界点を超えた戦闘を行ってしまった、という当時の参謀たちも自分たちで認めて、反省したガダルカナル島、ニューギニアのブナ、アリューシャン列島のアッツ、キスカに関しては戦略上の錯誤を認めて、ただちに物資を送るのをやめて、まだ使える兵士は「転進」させて、他の戦場に転用することにした。
ブナやアッツのように戦争経済上、助けることによる出費のほうが、まるごと見捨てるよりも高くつく場合には、あっさり見殺しにしたが、このころ(1943年初~中盤)までは、キスカ島撤収に典型的に観られるように「陸軍との関係上よろしくない。助けられるのだったら、助けよう」という気持ちが、特に攻勢限界を越えているのを承知のうえで「艦隊作戦上有利になる」という理由で、陸軍に無理強いして占領してもらった海軍側には残っていたようです。
それがサイパン陥落後には、打算と「冷徹な」計算だけで、作戦を進める日本軍の性格が露骨に表れるようになる。
補給はやらずに、「とにかく一日でもいいから敵の本土上陸を遅らせろ」一辺倒になってゆく。
敗軍と見なされれば補給も援軍もいっさい断たれて、計画さえ立ててもらえなくなった現地軍に与えられたのは、ちょうど、いまの「アベノミクス」に似てるかな?
広告代理店業が請け負ってつくった「玉砕」というフレーズで装飾された「軍隊ごと自殺する権利」でした。
四面楚歌どころか、自分たちの非人間的な行動によって、四周360度、すべて敵になっていた各地の日本軍は、本国からは「もう要らなくなった道具」として打ち捨てられて、土地土地で、ただ必死に食料を強奪して飢えをしのぐ、盗賊団となって生きていこうとして、たいていの場合は地元民の山狩りにあって殺された経緯は、後の横井庄一や小野田寛郎の証言によって、詳細までわかっている。
沖縄戦の大義名分は、ブナ、ガダルカナル、サイパン、レイテ、と続いた一連の「敗残兵放置」の最後として、「ここでは絶対に本土決戦準備が整うまでの時間を勝ち取る」ということでした。
このころになると、薄々、戦地諜報においての日本軍の圧倒的に不利な状況は、どうやら現地人に憎まれた結果らしい、と気付いた日本軍は、
「沖縄弁で話す人間は全員米軍のスパイとみなせ」という命令をまず発効します。
標準語を話さない人間は、即座に殺してよい、というルールをつくった。
その次には直前の硫黄島の戦いで、水際作戦よりも有効だと証明された戦訓に倣って、生活可能な条件(おおきさ、湿度、水源)を備えた「生活壕」ガマから住民を追い出して、軍用に転換します。
そのあとは、よく知られているとおりで、硫黄島の戦いの戦訓からM4戦車に大型火炎放射器を搭載して壕内の日本兵を酸欠によって死亡させたり、黄燐弾やガソリンを洞窟直上に開けた穴から放り込んで殺したりで、この日本軍の策源地ガマ(鍾乳洞)は一気に蹂躙されていく。
米軍からみると、日本軍は擲弾筒や狙撃兵を使って巧く戦ったという評価だったが、当の日本軍のほうは、予想よりもかなり呆気なく陥落した、という印象を大本営は持ったようでした。
「腰抜け」という言葉で吐き捨てた人までいたようです。
連合軍のほうは、なにしろ、「戦争はもう終わっているのに、こんなところで死にたくない」の一心で、19歳や20歳の若者の集まりなのだが、あたりまえだが、及び腰で、アメリカ人名物のバーサークも、沖縄の戦場では、ほとんど見られませんでした。
特に後半戦は悪夢そのもので、住民が投降してくるのを丘の下で待っていると、住民の服に着替えて避難の群に混ざっていた日本兵たちが、突然、銃を乱射しはじめる。
日本兵たちが逃走した方向にある村落の人影を狙撃して、殺して、村落に踏み込んでみると、女の子供や、その母親、いがぐり頭の子供が屍体になって転がっている。
そのころ、民間人を盾にした日本軍の攻撃に業を煮やした米軍司令部は、「誤射」によって起きた兵士の民間人殺害を、あまり咎めなくなっていきます。
その前例が、ベトナムでは検討されない習慣になって、後で、大勢の戦闘に参加する意志のないベトナム人が殺されることになる。
やがて、琉球人が呆れてものも言えない気持ちにさせられたことには、撃ちてし止まん、一億総玉砕、沖縄県民も皇国総突撃の栄誉に連なるべき、と勇ましく述べて、自分たちを範にせよ、と述べていた「本土人」たちが、いざ沖縄が落ちて、米軍の本土上陸が目の前の現実になると、手のひらを返したように、
あっさり手をあげて、無条件降伏してしまう。
しかも、ちゃんと本土人らしいオマケがついていて、聞いてみると、沖縄だけは、天皇陛下の提案によって、米軍の基地として、島、まるごとアメリカ軍に献上されることになっていました。
沖縄戦後、60年が過ぎた2006年に、ぼくが沖縄を訪ねたときでさえ、二階の居酒屋で、芸術家や政治家の沖縄人が集まって、久米仙をガブガブ飲みながら、「日本人は、許せない」という意味のことを言い合っていたようでした。
考えが足りない質問が得意なぼくが、「アメリカのほうがよかったですか?」とバカなことを訊くと、怒りもせずに、「いや、アメリカは、もっとひどい。日本のほうがまだマシです。アメリカは地獄だよ」と、やや日本語として用法が正しくないことを述べていたのをおぼえている。
もちろん、「アメリカの占領時代の沖縄は地獄だよ」というのを久米仙パワーで端折ったのでしょう。
その何度も何度も「おにーさん、アメリカ人じゃないんだよね?
よかった、アメリカ人じゃなくて、ほんとうに、よかった」と、代わる代わるやってきては、みなで祈祷文のように繰り返された夜は、一生、忘れられないものになりました。
沖縄の人にとってのアメリカ人のイメージは、日本軍に対するアジアのひとたちのものには遠く及ばないにしても、やはり強姦と、相手の人間性など認めない殺傷で、ヘンテコリンないい方をすると、人間の最大の敵は兵士であることがよく判ります。
ここは、ぼくが立っている場所は、日本から物理的にも心理的にも、たいへんに遠い場所で、
ここから見ると、日本全体が沖縄にしかみえない。
伊江島について、いみじくも言われた通り、アメリカにとっては、もともと日本全体が、
アメリカ軍の「不沈空母」で、修理や、比較的簡単に工作できる部品(例:増槽タンク)が出来る程度の工業力があって、本国から援助をしなくても自活して、自律的に機能できる基地として、アメリカ軍は日本全体を軍事基地化しようという構想を持っていた。
日本を「民主化」する方法も、驚くべし、ホワイトハウスには何の相談もなく、日本駐留軍が、勝手に策定してしまったのも、日本は米軍基地である、という暗黙の了解が両者にあったからでしょう。
沖縄を自分の問題として考えることは、だから、日本にとっては、日本とアメリカの関係、ひいては「日本の未来」を考えるための、最も頼りになる、しかも最短の経路であるように思えます。
上皇夫妻は、若いときに昭和天皇と深刻な家庭争議をもったことがある。
そんなことを言うなら天皇になどならない、とまで上皇に言わせたのは、沖縄二紙の購読についてでした。
若い上皇は、帝王家の人間の勘で、沖縄こそが日本なのだと、知っていたのかも知れません。
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