元就が当主に就いていたことの毛利氏は大江広元の血を引く、古き良き鎌倉武士の家風を持った大名でした。夫を支えた正室・妙玖に元就や家臣団は深く感謝しており、元就の手紙には「妙玖には御家滅亡の危機を何度も助けられた」と妻を偲ぶ様子が残されています。
鎌倉時代の武家は男子だけでなく娘にも領地分配が行われました。しかし、世代を経るごとに受け継ぐ領地が減っていったため、次第に嫡男のみが領地を引き継ぐシステムになっていきます。毛利元就は妙玖のような女性を毛利家から輩出するためにこれを応用し、評定の際には女性も男と同等の意見を言える立場として重用しました。例えば、家督を譲っていた長男・隆元が病死した際、孫の輝元にすぐ家督を譲るのではなく、しばらくの間は元就と隆元の正室・尾崎局の両名が毛利家の最終決定権を持ち、統括する立場にありました。元就も何か大きな軍事行動や領国経営を行う際には手紙にて尾崎局の了承をとっており、元就の女性参画を進めようとする意志が見て取れます。
仲には、一族の女性同士が言い争いになることもありました。今回はそんな毛利家の2人のお話。
毛利家のプリンセス、五龍局
毛利元就と妙玖の間には5人の子がいました。男子は三兄弟ですが、女子は夭逝した長女と次女・五龍局がいました。長女は毛利元就が若いころに生まれた子供でしたが、当時弱小国衆だった時代に人質として他家に差し出し、そのいざこざで殺害されたという悲しい過去があります。その反動からか、元就は五龍局を溺愛し、彼女はじゃじゃ馬な性格に育ちました。
1534年、元就は隣の国衆である宍戸家と和解し、17歳の若き当主・宍戸隆家に嫁ぎます。隆家は後に毛利家一門筆頭として迎えられ、伊予出兵などで活躍します。隆家の活躍もあるのですが、やはり正室が元就の娘ということも大きかったのではないでしょうか?
陪臣の娘から正室になった新庄局
元就の次男、吉川元春の正室、新庄局は馴れ初めが少し特殊です。彼女は熊谷信直という武将の娘でした。元々安芸武田家の家臣だった信直ですが、主君に冷遇されたことから対立し、何年にも渡り武力衝突に発展しました。信直勢300に対して武田軍は1000と3倍以上の兵力でしたが、毛利家が信直を支援したため次第に優勢になり、安芸武田氏は逆に滅亡します。こうして毛利家臣となった熊谷家ですが、この一連の戦いによって新庄局は婚期を逃してしまいました。新庄局の年齢は分かっていませんが、信直が40歳であることを考えると、2X歳。当時としては行き遅れギリギリの瀬戸際です。
そうした中、元春は自分の正室に彼女を指名し、側室を置かなかったことから信直は非常に元春に感謝し、忠誠を誓ったとされます。また夫婦仲もよく、2人連名で息子に宛てた手紙がいくつも残っています。
嫁・小姑戦争勃発
ここからが本題。五龍局は元春の姉で、元就に溺愛されており、元春は逆に弟で吉川家に養子入りした身でした。実家の姓を捨てているので、評定の場では例え家族であっても家臣として振舞わなければなりません。そのため、五龍は何かと元春を家族会議評定の場でいじめたようです。
これに黙っていなかったのが元春の妻でした。「うちの夫に何するのよ!」と評定の場でも五龍局に唯一直接抗議する性格だったため、元春を巡る2人の女性の戦いは白熱化します。
これを知ったのか元就は手紙を残しています。
「新庄殿が正しい、五のじ(五龍局のこと)は謝りなさい」
毛利元就が「三本の矢」で有名な三子訓戒状を説いたのはこの頃の話だといいます。一族力を併せよという、有名なエピソードですがこの三本の矢は元就の三兄弟、隆元・元春・隆景ではなく、五龍・元春・新庄局の3人の仲を思って書き記したのかもしれません。
醜女説?
江戸時代、吉川家の家伝には「新庄局」が醜女であるという記述が見受けられます。逸話によると、元春が嫁候補を決める際元春自身が熊谷信直の娘を指名したといいます。
理由は「信直の娘はブスで知られているが、私が嫁に貰ってやれば信直は私の計らいに感謝して忠誠を誓ってくれるのでは」だそう・・・
史実ならばなかなかひどい話ですが、有能な武将を味方につけるため政略結婚を行うのは日常茶飯事。娘のために戦う父ちゃんとあれば、毛利家にとっても頼もしい存在になります。しかし、ブスだという記述が出てくるのは江戸時代に入ってから、戦国時代の毛利家の資料には新庄局の容姿については記されていません。むしろ安芸武田に嫁いだ、信直の妹は美人で有名だったと伝わっているので、新庄局も美人なのでは?と思ってしまいます。
彼女の容姿についての言及は、江戸時代吉川家の家老・香川正矩が著した「陰徳記」によるものです。香川氏はかつて熊谷氏と同じく安芸武田氏に仕えており、両者はライバル関係にありました。前々から熊谷氏のことをよく思ってなかった正矩ですが、江戸時代に入り熊谷氏はキリスト教を巡って主家と対立し一族のほとんどを処刑されてしまっていました。だから正矩は死人に口無しとばかりに、新庄局のことを悪く書いても咎められなかったのではないでしょうか?
いずれにせよ、元春を巡って2人の女性が対立しその仲介に家族が苦労したようです。
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