日本兵の日記を読んでみた
米軍は戦場に遺棄された日本兵の日記を捕獲して解読、彼らの士気を探ってはIBで自軍将兵に報じていた。対米戦下の日本兵の士気、意識とはいかなるものだったのだろうか。
IB1943年2月号「日記からの引用」には、おそらくガダルカナル島で捕獲した日本兵の日記が引用されている。
この兵士は「九月二九日──この日を待っていたかのように、敵機が円を描いて機銃掃射の的を探し始めた。とても恐ろしく、将兵は何もできなかった。機銃掃射は一日に六、七回やって来て我々は明らかに怯えていた。我々は二九日の夕暮れを待っていた。この日が最後の総攻撃である。最初こそ、奇襲により敵の駐機所まで接近できたが、反撃は猛烈であった」と優勢な敵機に叩かれて士気の下がった現状を悔しく思うとともに、「擲弾筒(てきだんとう)は敵を震駭させるのにもっとも有効である。しかし、射程がわずか二五〇メートル〔約二七五ヤード〕に過ぎず、使う機会がほとんどないという欠点がある」と書いていた。この兵士は銃剣でも小銃でもなく擲弾筒こそをもっとも有効な〝対米戦用兵器〟と見なしていたのである。
また、「敵〔米軍〕の偽装は実に有効である。敵を発見するのは困難で予想だにしない犠牲が出た。五〇〇メートル〔約五五〇ヤード〕以上では偽装は判別できないので細心の注意が必要だ。偽装に対する訓練も必要だ」とあり、日本軍もまた米軍陣地の偽装を見抜けず苦戦していたこと、つまり偽装は日本軍の専売特許ではなかったことが読みとれる。
先に米軍が日本兵を〝l〟と〝r〟の発音で識別しようとした話を紹介したが、彼らは近づく日本兵に日本語で話しかけることでも敵味方を区別していた。日記には「斥候は敵〔米軍〕の射撃に引き返してはならない。斥候の中には敵の話し声が聞こえるまで陣地に潜入し、結局誰何(すいか)され撃たれても自分を保ち任務を遂行した者もある。敵には日本語を解する者もいる。「ダレカ?(そこを行くのは誰だ?)」の声に騙されてはならない」とある。