捕虜との会話
これとは別に、米軍が日本兵捕虜に行った尋問からも、彼らの戦争観や戦いの行く末についての考えを知ることができる。
IB1943年5月号「日本兵捕虜から得た情報」は「数人の捕虜が、アメリカ合衆国、イギリスとの戦争に行くのは嫌だったと述べている。一人の捕虜は、日本の兵士や水兵たちが戦争に負けるのではないかとの見通しを語っていたと述べた。彼はロシアが日本に向かってきてウラジオストクを爆撃基地として使うのではないかとひどく恐れていたと述べた」と報じている。
米英との戦争だけでも負けそうなのに、ソ連までが攻めてくるのではないかという恐怖心が兵士たちの間に存在し、その士気を押し下げていたのだろう。
同記事によると、少なくとも二人の日本兵捕虜が、上官からの扱いを恨んで脱走したという。「うち一人はマラリアでニューギニアの休養所(rest camp)に入れられ、上官から〝怠け者〟と責められて〝蹴られ、小突かれ、殴られた〟。彼はこの扱いに絶望的となり、オーストラリア軍の戦線にたどり着くまで3日間ジャングルをさまよった」という。
もう一人は「ガダルカナルで割り当てよりも多くの米を要求したら将校に叱られたのでジャングルに入りこみ、米軍の戦線にたどり着いた」という。数は少数かもしれないが、日本陸軍にも上官の振る舞いや待遇に不満を持ち脱走、敵軍を頼った者がいたのだ。
軍上層部はこれを「奔敵(ほんてき)」と呼び、すでに日中戦争の時から問題視していた。その件数は確認されただけで1937~43年度までに152件にのぼっている(陸軍省『陸密第二五五号別冊第八号 軍紀風紀上等要注意事例集』1943年1月28日)。
これらの日本兵捕虜たちは自分の行く末に関する米軍の尋問に対し、先に示した友軍兵士たちの「万一捕虜になったら国には絶対帰れない」という認識(本書62頁参照)とはいささか異なる趣旨の答えをしていた。
捕虜の多くは、捕まったのは終生の恥(life-time disgrace)であると語った。最近尋問されたある捕虜は、祖国に帰ったら全員殺される、父母さえも自分を受け入れないだろうと言った。しかし、何らかの手心が加えられるかもしれないとも述べた。別の捕虜は、生まれ故郷でなければ、帰国して普通の生活ができると思っていた。(前掲「日本兵捕虜から得た情報」)
捕虜たちにとっては皮肉にも「生まれ故郷」の人びとこそが最大の足かせとなっていた。逆に言うと、「生まれ故郷」以外なら元捕虜の汚名を背負っても何とか生きていけるだろうという打算をはたらかせる者もいたのである。皆が皆、『戦陣訓』的な「恥」イデオロギーを内面化させ、その影響下で日々の生活を送っていたのではない。
なお、ある捕虜は「惨敗した連隊長は「面子(メンツ)を保つ(saving face)」ため部隊の編成地に戻されて厳重に処罰され自殺すると述べた」という。確かに1939年のノモンハン事件で複数の日本軍連隊長が敗北の責任をとらされて自決に追い込まれた事実があり、こうした噂の伝播が将校をして部下もろとも絶望的な抵抗に駆り立てさせたとも考えられる。
日本軍の兵士に対する待遇に関しては、ほかにもいろいろなことが捕虜たちの談話から読みとれる。たとえば、「日本の下士官兵は給料を家族に仕送りするのを禁じられていた。彼〔捕虜〕はこれに関して、下士官兵は給料の全額で必要な品物を買うべきだというのが陸軍の考えだと説明した」(IB「日本兵捕虜から得た情報」)という。日用品を買う程度の給料しか与えられない徴兵兵士たちは、故郷に残してきた家族の生活を案じていたのだ。