会社を経営し、現在も中国でビジネスチャンスを狙っているという村西とおる監督。
強気に攻めるその姿勢は昔から変わらないご様子です。
監督自身「あの頃はムチャクチャしてたね」という時代のエピソードから、死生観、自分らしさとは何かまで、赤裸々に語っていただきました。
インタビュー第一回目から驚きの話を聞かせていただきました。
村西監督は二〇一〇年に『村西とおるの閻魔帳』を執筆し、あらゆる業界のあんなコトこんなコトを筆にしたためていますね。
「ここまで書いて大丈夫なの?」と思わせる内容もありますが……。
バーニングやジャニーズなどの大手芸能事務所の影響力は絶大です。
しかし私は忖度いたしません。私が言葉にするのは真実のみですから、裁判も辞さず、自分で証明できることだけしか書きません。
ジャニーズ事務所を相手取ったことがございました。
メリー喜多川と娘のジュリーと対峙したのです。
発端は、当時大人気アイドルであった田原俊彦さまと、私の会社の女優のスキャンダル。
ある時撮影現場で、女優が「アタシ、トシちゃんのコンサートに行って、その後シちゃったの」と漏らしたんです。
早速それを作品の中で語ってもらい「ありがとう!トシちゃん」というAV作品として発売した。
単純に面白いと思ったからです。
各誌がそのことを記事にする中、週刊ポストの記事に対し、メリー喜多川が発行元の小学館に抗議したのです。
小学館では青少年少女向け雑誌の表紙にジャニーズ事務所のタレントを起用していたため、自らの発言力を行使する際に強い立場になれると考えたのでしょう。
小学館の幹部からメリー喜多川社長と直接話し合ってくれないか、との連絡があり、話し合いの場に行くことを応諾いたしました。
指定された日に、当事者である女優と一緒に小学館に到着すると、会議室にはメリーにジュリー、当事者の田原俊彦さま、そして事務所の広報担当者、そして小学館の出版、雑誌の責任者が揃って席についていました。
全面対決というわけですね。
そこから、ヤった、ヤらない、の罵り合いが繰り広げられました。
私はトシちゃんに
「あなたも大変だよね、こんな席に引きずり出されて。
たとえヤったとしてもヤッたなんて言えるワケがないよね、同情するよ」
と申し上げました。
しばらくやり合いが続いたでしょうか、
メリーがジュリーに目配せをしたのです。
途端にジュリーが席を立ち部屋の扉を開け「みんな、入りな!」と声を上げた。
それを合図に、六~八人の二十代とおぼしギャルたちが乱入して参りました。
彼女たちは、私の隣にいる女優に詰め寄ってきます。
「アンタ!あのときあのコンサート会場にいなかったじゃない!嘘つき女!!」私は驚きました。
なぜ彼女たちにそんなことが言えるのか。
そもそも彼女たちは何者なのだ。
小学館のお偉いさんに「メリーさん、困りますよ」と窘められても尚、メリー、ジュリーは不貞腐れたまま。
「これ以上話しても埒が明かない」と、私は席を立ったのです。
その翌週の「フォーカス」には会議室での一部始終が写真とともに掲載されました。
前もって新潮社に話をして、「フォーカス」のカメラマンを小学館の四カ所の出入り口全てに配置させたのです。
この一件は『村西とおるVS ジャニーズ事務所の対決』として大騒ぎとなりました。
時代の裏に村西監督の存在あり、ですね。
二〇一七年発行の著書『裸の資本論』にあるように、黎明期の任天堂社長とのアポイント、北海道の大規模居酒屋チェーン店・つぼ八の裏話など、大きなビジネスが芽吹く様子を肌で感じていらっしゃった。
監督は昨今の日本のビジネスシーンをどのように見ていますか?
「もはやこれまで」という風な、ある種の閉塞感が流れておりますが、それは至極日本的なものです。
私は月に一回は中国に行きますが、流れる空気に圧倒的な差があります。
日本は食えなくなったら生活保護があり、病気になったら高額医療保障制度があるでしょう。
何があっても野垂れ死ぬことがない。
成熟した社会で人間がヤル気を抱くのは難しいものです。
一方、中国は違います。
自分のことは自分でする。
自助努力をしないと明日には野垂れ死ぬかもしれないのです。
社会保障制度も高額医療制度もない。
皆が必死に生きています。
日本人とは放つパワーが違います。
また、中国と日本では「他者の捉え方」も異なります。
競争社会・中国では、自分以外はみんな敵。
他人に冷たく、仲間以外は相手にしない。
中国では他人に騙されれば、
「騙される方も悪い。
騙されるということは、人間のことをよくわかっていないからだ」
と考えられております。
だからこそ中国人には
「ヨシ、自分の力でのし上がっていこう!豊かさを手に入れよう!」
というパワーが漲っているのです。
日本のみならず世界にとって中国の存在感は増していますが、実際に目で見て肌で感じていると、差し迫ったものがあるのですね。
現地に行かなくとも、経済成長を考慮してみるとわかることもあるでしょう。
ここ二十五年で日本のGDPはほぼ変わっていませんが、中国では所得もGDPも十倍近く伸びていますね。
所得もGDPも横ばいというような状況が中国で起きたとしたら、あちらの国では革命が起きているでしょう。
そのくらいの大きなパワー、豊かさへの欲、ハングリー精神を中国人は抱いているのです。
中国は実に目まぐるしく動いている。
彼らが見据えているのは今日より明日、明日より明後日。豊かさを日々実感し、皆が生き生きとして表情は明るい。
日本はというと……リスクを負いたくない人々が、五十代六十代に突入し、あとの人生は年金生活でゆっくり過ごすつもり、することといえば孫の面倒、石磨き、庭いじくり、ゲートボール…。
△〇◇☆の使い道はションべンを出すだけ。
そんな状態で「生きている!」と言えるのでしょうか?
人間が社会のお邪魔虫になってしまったら、人生百年時代の未来をどうやって生きていくのでしょう?
どうやって社会に貢献するのでしょう?
自らの存在意義とは?
村西監督は情熱を胸に抱き、近年は中国でビジネスチャンスを窺っているとのこと。
「言葉の力」を説いていますが、異国の地で言葉の壁を感じることは?
中国人であっても立ち居振る舞いや目の力、話しぶりでどういった人間かがわかります。
相手が中国人だからといって私はたじろぎません。
アメリカでさえ、中国に今後の二、三年で追い抜かれる可能性があります。
中国崩壊論を唱える方がいらっしゃいますが、そんなことを吹聴してどう責任をとるつもりでございましょう。
今のままでは日本が先に崩壊してしまいますのに。
中国の発展は凄まじい。
もはや言い古されてきた崩壊論のイメージの国ではありません。
あと五年、十年経ったら、日本人が小間使いとして中国へ出稼ぎに行かなければいけなくなるかもしれません。
……いいえ、すでに中国人は日本人を下に見ているのにお気付きですか。
中国崩壊論を平気で唱えていられるのは、日本にいるからです。
中国の姿が見えていないのでしょう。
今こそ中国に進出し、そこで日本人にしかできないビジネスを構築していきたいのでございます。
人生のあらゆる局面で踏ん張ってきた村西監督だからこそ、ビジネスにおいて勝機を得ることに大きな価値を置いている?
ええ。
アリババ(阿里巴巴)の創始者であり中国一の大富豪ジャック・マー氏(本名:馬雲。一九六四年生まれ。浙江省出身)を御覧なさい。
若かりし彼は起業のため、資金集めに奔走します。
しかし、たった一億五千万円程の資金をなかなか集められなかった。
最後に行き着いた上海の地で出会ったのが、ソフトバンクグループの創業者・孫正義氏でした。
あちこちで出資の話を断られてきたジャック・マー氏ですが、彼が頭の中で描くビジネスに孫氏は興味を示しました。
彼らが交わした商談は、「伝説の六分間」として語り継がれています。
孫正義 「あなたの話、面白いね。で、いくら必要なの?」
ジャック「一億です」(つい弱気になって)
孫正義 「あなたのビジネス、一億じゃすまないよ。
私が三十億出しましょう」
この間たったの六分です。
会社の登記簿を見せなさいだとかそういった要求はゼロ。
当然、ジャック・マー氏は驚きました。
しかし彼は呆気にとられているばかりではなかった。
三十億も出資してもらったら、やがて孫正義氏に会社を乗っ取られるであろうことに気付いたのです。
そして「出資額を減らしてください」と提案をしました。
最終的に出資額は二十億円程に落ち着きましたが、今やそのお金が何兆円にも膨らんでいます。
ジャック・マー氏は決して若い頃から順風満帆な人生を歩んでいたわけではないそうですね。
もし彼が出資相手を探し出すことを諦めていたら、巨大企業アリババの今日の姿はなかった。
中国では十一月十一日は「独身の日」とされています。
アリババはこの日をネットショッピングイベントに仕立て上げました。
当日はショッピングセールを開催するのですが、たった一日で二兆円(二〇一七年は二、九兆円)の売り上げをあげる。
日本の企業が一年かけてあげる売り上げを、たった一日であげるのがアリババです。中国のマーケットの規模がいかに大きいかがわかります。
自動車業界だってそうでしょう。
中国は年間、数千万台の自動車を売る。
日本は数百万台。
ハングリー精神を燃やす中国人、これでいいやの日本人。
このままでは日本は中国に膝まづくことになりますよ。
リスクを恐れて行動した先に辿り着くのは、そんな未来かもしれません。
だから私は、日本人でなければ成し得ないという分野を、中国の内部に構築していきたいのです。
私が毎月中国に行っている理由はそこにあります。
リスクから目を背けるあまり、日常が変化していくことに気が付かない。
そのまま置いてけぼりを喰らうかもしれない……。
ですがやっぱりピンチや不幸は恐いです!
私は素っ裸の人生を生きてきました。
前科七犯、借金五十億、アメリカでは懲役三百七十年の求刑。
女房とのセックスが無修正で世間様に流通しているような人生です。
ある中高年の男性とお話する機会がございました。
「俺の人生もはやこれまで……」と切羽詰まったご様子。
どうしたのですかと尋ねてみますと、借金七千万を抱えてしまったというのです。
そうですか、そんなの片腹痛いということでございます。
私は五十億です。
「前科はございますか?」と聞けば「滅相もない!」と首を振る。
私は前科七犯でございます。
悍ましいのでございますよ。
「ご自分の奥方とイタしているところを世間の皆さまに御開帳したことは?」と聞けば「そんな犬畜生みたいなことはしたことがありません!」。
前科もない、御開帳もない、借金はたった七千万。
そのくらいのことで自分の人生もう駄目だなんて、どうして絶望することがありますか。
枝ぶりのいい木にロープをかけてオサラバしたいだなんてちゃんちゃらおかしいというのです。
私の話を聞き終えると、彼はまるで高倉健さんの映画を観終わったかのように晴れ晴れと胸を張り、しかと道を踏みしめて去っていかれました。
皆さま、知らなければいけません。
下には下がいるということを。
そのずーっと下に私がいる、ということを。
成熟した社会に生きていると豊かさや与えられることに慣れてしまい、無意識に上を見てしまうのでしょうか。
いいえ。下には下がいて、もっとさらに下がいるということを知らないのでしょう。
いかに自分が恵まれているかということに気づかない。
そのことがわかれば「こんなところでモタモタしていることはない。
俺にだってもっとやれる可能性がある」と目が覚めるのです。
今の時代、叱咤激励が必要とされているのでしょう。
特に団塊の世代に対して、です。
金ばかり持っちゃって「年金を寄越せ、退職金を出せ」と手を伸ばす。
私は彼らにこう申し上げたいのです。
心配するな。挑戦してどんどんやってみなさい。
たとえ何かあったとしても、日本には生活保護があるんだから、野垂れ死ぬことはない。
起業してみるのもいい。
アナタたち、ご自分の奥様からどんなふうに思われているのかご存知ですか?
亭主元気で留守がいい。
「日中はず~っと家にいやがって!お茶持ってこい、爪楊枝持ってこいだなんてどの口が言うのかしら」。
わがまま放題で欲しがってばかりいたら、熟年離婚を言い渡されるのも当然でございます。
もうひとつ、安定した老後や退職金に頼って年金暮らし、といったものを世間が持てはやし過ぎていますね。
そんなものを頭に置かないで、いつも裸一貫で勝負する気概を忘れてはいけません。
労働寿命が延び、年金支給は引き上げられ、人生百年時代の到来となりました。
生涯現役で人生を謳歌するためにはどんなエネルギーが必要なのでしょう。
欲を持つことです。
自分自身の五年後、十年後を考えてみてください。
まずは三年後、あなたはどうなっていたいですか?三年後の自分が後悔しない生き方を”今”しなければいけないのです。
私はこれまで悔しさを噛み締めることが少なくありませんでした。
『なんであの時俺は……。
俺はあの時どうしてもっと意欲的に燃えなかったんだ!』
と過去の自分の至らなさに憤ることが多かったのです。
だから、苦い後悔をしないように、「ヨシ!もっとこれからの人生、頑張って生きていこう」と、“今”を精一杯生きることを心掛けています。
数年後の自分を考えると、つい不幸なことや失敗を想定してしまいがちです。
前向きに生きることが難しいのが現代人かもしれません。
団塊の世代の人間は、恐るべきものは何もない時代に生きていることを自覚しているのでしょうか。
ギリシアの哲学者エピクロスはかつてこんな言葉を残しました。
「人間は死なない。
なぜならかつて人類で自分の死を見た人間はいないからだ」と。
見ることことができないものは、ないのと同じだということです。
つまり「ない」と同じ。
人間は自分の死を見ることはできないのです。
だから私にもあなたにも、死は永遠に訪れることはありません。
日本人は死んだら火葬場で火に焼かれます。
狭い火葬炉に閉じ込められたら、きっとひどく熱いでしょう、苦しいでしょう。
もしそうなったら気が狂ってしまうでしょう。
しかし、いざ自分が死んで、火葬場に連れて行かれ、火を焚かれても、死んでいるのですから熱さも苦しさもわかりはしません。
想像をたくましくして死の恐怖におびえるなんてナンセンスなのです。
起きていないことを恐れすぎ、リスクの計算に意識が向かいすぎなのかもしれませんね。
嬉しいことにお気の毒なことに、人間は自分の死を見ることはできません。
だから、人間は不死身なのです。
人生五十年だろうと百年だろうと、人間が不死身であることは変わりません。
その瞬間まで、人生をおおいに楽しみましょう。
二度とないこの生を。
あの世にはティッシュ一枚も持っていけないのですよ。
死をことさらに恐れること勿れ、なのです。
今を一生懸命生きずして、クヨクヨ悩んでどうするのでしょう。
ネガティブに生きることのメリットとはなんでしょうか。
「これでいいや」と自分をすっかり諦めてしまっている御方、今際の際まで汗と涙にまみれて生きていこうではありませんか。
確かにそういった生き方は、充実した人生のひとつの理想形となりそうです。
しかし自分にとって生きがいとなる道や全力をつぎ込める天職を見つけられない人は?
誰だって見つけられません。
天職は見つけるものではありません。
出会うものです。
地球の裏側まで自分探しの旅に出たって、「自分」は見つかりません。
自分を規定するのは他人です。
どんな有用性や価値を持っているか、自分とは何か。
他人が自分をどう思うか、どう思われるかではじめて自分という人間の存在の意義がわかるものなのですから。
「あなたは人を喜ばせる才能がある」と他人に評価されたとします。
そこであなたは初めて『これでいいんだ』とハッとする。
他人に評価されて自分がわかる、それが自分の発見です。
世の中で評価されなければ、自分を見つけたということにはなりません。
人間というのは社会的な生き物です。
社会の中で生きることで、自分にはどんな才能があり、いかなる人間性を内包し、豊かな魅力を持っているかがわかってくる。
ですから親父どもよ、何でもいいから、何かに挑戦しているうちに「ナイスですね!」と、あなたはナイスな自分を発見します。
社会との関わりの中で心の底からわき立つような満足や喜びを味わってみてください。
「いい蕎麦をこねるね~」「いい掃除をするね~」「いいパフォーマンスをするね~」ね?
そうした称賛の言葉を浴びて、今までの会社勤めでは知らなかった自分が見えてくるでしょう。
素っ裸で生きてきた村西監督。
だからこそ、まざまざと肌で社会を感じ、他者と接し、自分を発見してきたのかもしれません。
「いつの間にか自分の人生、ワクワクしなくなったな」と思っている方、恐れや不安を脱ぎ捨てて新しい一歩を踏み出してみませんか?
次回のインタビューでは、裸ながらもエネルギッシュに歩んできた監督の、尽きることのない情熱について深堀します。
写真:田形千紘 文:鈴木舞
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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を生きる、
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