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「深津くん?」
それはささやきに似た声だった。相手に呼びかけるというより、ついうっかり声に出してしまった類のもの。街の喧騒に溶けて消えてしまうはずだった細い音の並び。しかし男は複雑に交差する人々の中、つぶさに自分の名前を拾い上げた。
「ん?」
信号を渡った男がコンビニを出た女の前で立ち止まる。まさか自分の声が相手に届くと思っていなかった女は、あの頃と変わらず感情や温度を感じさせない黒い瞳に見つめられ、彼の名を呼んだ唇を緊張でかすかに震わせた。
「あ、その……」
私は深津一成という男をよく覚えている。同じ山王工業高校で学び、強豪バスケットボール部の主将を務めていた元クラスメイト。運動も勉強も優秀な成績を修め教師からの信頼も厚い反面、真面目な顔で嘘か本当か分からない事を言うくだけた一面もあり、とにかくインパクトの強い人だった。
一方で私は工業高校に籍を置く以外は特別目立つ要素の無いただの女子生徒だった。深津くんとは五十音順に並ぶと隣り合うぐらいの距離感。有名人の彼とその他大勢の私。私のことなんて忘れているに決まっている。なのに、どうして名前なんて呼んでしまったのだろう。
彼女が自身の迂闊さをうらみ狼狽えている間も深津はじっと目を逸らさないでいた。気まずい沈黙が二人の真ん中でとぐろを巻く。人違いで終わらせよう。そう思い彼女が渇いた唇を開こうとして、落ち着いた声音がそれを遮った。
「藤原」
「え?」
「久しぶり……ピョン」
ピョン。社会人男性の口からこぼれた奇妙でなつかしい接尾語に、彼女の心臓をきつくしめつけていた緊張は一気にほどけた。あんなにはっきり名前を呼ばれると思っておらず少し面食らったものの、気を取り直して元級友に近寄る。
「久しぶり深津くん。私のこと覚えてたの?」
学生時代の坊主とは違い短く伸びた髪をかきながら深津は小さく頷いた。
「藤原は同窓会に顔出さないから逆に覚えてるピョン」
「成人式の後の同窓会にはちゃんといたよ」
「覚えてないピョン」
「いない時は覚えてるのに、いる時は覚えてないってひどいな」
「人間そういうもんだピョン」
思ったより打ち解けた会話が出来ることに安心し彼女の表情がやわらぐ。
「見ない間に髪伸びたね。坊主頭を見慣れてたから不思議な感じ」
「藤原の方が伸びたピョン。昔はもっと短かった」
「そこは覚えてるんだ。んー、でも髪伸ばしてから結構経つよ」
彼女の記憶の中の深津が坊主のように、深津の記憶の中の彼女もショートヘアだった。お互い現在の髪型に馴染んでいる分だけ、長い時間の隔たりを感じた。
「まさかこんな東京の街中で会えるなんて驚いて声かけちゃった。急いでた?」
肩に提げた大きなスポーツバッグを見ながら問いかける。まだバスケットボールやってるんだ。好きで好きでたまらないんだな、バスケ。
「いや、練習終わって帰るところピョン。そっちは」
「私も仕事終わり、家帰って夕飯」
深津は手にしたコンビニ袋を振る彼女を見下ろす。中にはサンドイッチと野菜ジュースの紙パックだけ。少々栄養管理が心配になるディナーだ。左手首の時計を確認し明日以降のスケジュールと照らし合わせ、支障無いだろう事を確信し深津は親指で背後を指さした。
「これから夕飯に行くから藤原も付き合うピョン」
「えっ」
てっきり「じゃあこれで」とそれぞれの帰路につくと思っていた彼女は目を丸くして動きを止める。そもそも彼女と深津は在学中さえ共に食事をとったことが無い。深津は男友だちと、彼女は女友だちと昼休みを過ごしていた。久しぶりの再会に盛り上がって食事に連れ添うような仲じゃないのに、どうして? かといって誘いを無下に断れる性格でもない彼女は頭の上にたっぷりの疑問符を飛ばしつつ、ぎこちない動きで首を縦に振った。隣を歩くのはなんとなく憚られ、彼女は深津の少し後ろをついて歩く。
黙りがちになってしまった彼女を連れて深津が訪れたのは細い路地にある昔ながらの大衆食堂だった。夕食の時間帯を過ぎた為、店内の客のほとんどがビールや酒を飲んでいるが声を荒げることもなく、雰囲気は悪くない。気負った店でない点にホッとした彼女が椅子をひいてから、深津も二人掛けのテーブルの向かいに腰を下ろした。
机の脇に置かれたメニューを広げる。サインペンで書かれた手書きの文字がいかにも街の食堂らしい。横に並んだ値段も良心価格で密かに財布の中身を気にしていた彼女は胸を撫でおろした。
「よくここ来るの?」
「たまにチームの奴らと来るピョン」
「バスケットチーム?」
「そう」
「へえ。あっ煮魚定食がある! 私これにする」
一つのメニュー表を二人で吟味する。自然に二人の距離が縮まるが、イヤな感じがしないのが不思議だ。昔だったら気まずくて深津くんと二人でご飯なんて食べられなかった。
くせ者ぞろいのバスケ部をまとめていた深津は当時からどこか早熟なところがあり、彼女は密かにそんな彼を遠ざけていた。高校生らしく、子どもと大人の狭間を悩みながら行き来していた彼女からすれば、どんな時も慌てず冷静に対処する深津は大人たちと同等に感じて気が引けてしまう存在だった。だから軽いあいさつをかわす程度でまともな会話をした記憶がない。クラスが同じだったのは一年生の時だけで、その後は二・三年で同じクラスだったバスケ部の松本を介したほんの僅かなやり取りしか二人に接点は無かった。
彼女の思い出の中にいる制服を着た深津と、今目の前にいる深津はそう変わらないように思えた。むしろ内面の落ち着きに実年齢が追い付いた、と言える。願わくば深津の目に映る自分もセーラー姿の自分より、落ち着きを学んだ大人の姿であってほしい。
「少し飲んでもいいかピョン」
「うん。ビールだったら私も少し飲みたい」
手を挙げて店員のおばちゃんを呼び止めた深津が煮魚定食と唐揚げ定食、つまみになりそうな単品とビールを注文するのを観察する。
注文の時ピョンの語尾は外していた。公私で使い分けているらしい。背が少し伸びたかな。服の上からも分かるがっしりした肩幅。でも、顔のパーツが整っているから大きいというよりはスマートな印象。ほんの少しやさしくなった目じりが大人の男っぽくて、見てると少しドキドキする。
「そんなに見られたら顔に穴が開くピョン」
「ごめん、つい」
「藤原は今なんの仕事してるピョン」
「この近くの建築設計事務所で働いてる。小さいけどね」
「夢を叶えたのか、おめでとうピョン」
「ありがとう」
ややあって、彼女はふと首を傾げた。
「私、深津くんに建築の仕事に就くのが夢だって話したことあったっけ?」
「建築科にいたなら進路はそっち方面だって予想が着くピョン」
「そっか。深津くんは? その大きな荷物はバスケの道具でしょ」
「バスケ選手続けてるピョン」
料理が運ばれてくるまで深津は卒業後の経緯をかいつまんで彼女に話した。大学進学後は東京の企業に就職しそこのバスケットボール部に入団したこと。今月から本拠地の近くに部屋を借りたこと。背番号は高校一年の時と同じ九番をつけていること。
「プロ選手かあ、さすが王者山王のキャプテンだね」
「今はいち選手ピョン」
「すごいことに変わりないよ。深津選手、握手してください!」
「まだ飲んでないのに酔っ払いみたいなことを言うな」
つっけんどんに答えたものの、ずいと机の上を横断した彼女の手のひらを深津の手のひらが包む。指の先から手首まですべて隠してしまう深津の手の大きさに彼女はたじろいだ。知らなかった。深津くんってこういう冗談にのってくれる人だったんだ。
「ど、どうもありがとうございます」
「こちらこそピョン」
こちらこそ、とは。離された手を見つめて呆けていたが、運ばれてきた料理からただよう香りが彼女の頭の中を食欲に塗りかえた。
「美味しそう。煮魚なんて久しぶりに食べるな」
「それ頼んでる奴はじめて見たピョン」
「体動かしてる男の人だったら頼まないかもね。お肉とかスタミナつきそうな料理食べてそう。まだ手つけてないし、せっかくだから一口食べてみる?」
「………ピョン」
イエスとノー、どちらともとれない言葉をつぶやいて深津の手が止まった。友だちとの食事とは違うのに。ちょっと攻めすぎたかもしれない。テンポよく会話出来ていたので気安く接してしまった自分を省みる彼女の前に唐揚げの置かれた取り皿がスライドした。
「交換ピョン」
つい深津の方を見た。二つのグラスにビールを注いでいる。彼女は唐揚げを自分のご飯の上に移動して、代わりに煮魚を一口大にして取り皿にわけた。もう一枚の取り皿につまみに頼んだハムカツを取り分けて深津の前に置く。泡立つ金色のビールが自分の前に置かれた。
私の知っている深津一成という男ってなんだったんだろう。
「んー………」
深い場所に沈んでいた意識がゆっくりと浮上していく。目覚ましなしに起きる休日のなんと気分が良いことか。ざーざー、雨が窓をたたく音がする。梅雨の名の通り今日は雨降りみたい。出かけるのはやめて、ためていた家事をしようか。
とりとめのない一日の予定を組み立てる彼女は重い瞼をこじ開けた。まだ薄暗い部屋に早起きした事を知る。いつもより渇く喉に違和感を覚え、キッチンで水を飲もうと身じろぎして彼女は別の違和感に気が付いた。残業の疲れとは思えない体の重だるさ。首や肩は分かる、でも腰回りの鈍さはいったい。
首を下に折り曲げる。右向きに横たわる自分のお腹の上に別の人間の腕が回されていた。
「………」
彼女は絶句した。誰かに後ろから抱きすくめられているうえに、確認した自分の上半身が下着一枚すら身に着けていなかったからだ。太ももをすり合わせると素肌の感触。下もなにも履いてない。つまり、正真正銘の裸。私は一晩、裸で誰かと同じベッドの上で眠っていたのだ。そして、カラカラの喉に原因不明の腰の鈍痛とくればこれはもうアレしかない。
「……ヤっちゃった?」
この太い腕の持ち主と致してしまった。最悪の事実を囁く声はいがらっぽい。昨晩の自分は喉を痛めるぐらい何をしたの? と彼女は真っ青な顔で必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
昨日はこちらの提案したデザインがお客さんの希望とは合わないという理由で打ち合わせが長引いて、事務所を出るのが遅くなったからコンビニで適当な夕飯を買って、そうしたら道路の向かいに誰かなつかしい人を見つけて。
そう。なつかしの母校山王工業高校の同級生、深津一成の姿を見つけた。思いがけず彼も私を覚えていてくれた流れで一緒に夕飯を食べて、ビールも飲んで、酔った私を深津くんが近くのホテルに運んでくれて。それで。
「起きたかピョン」
「きゃー!」
彼女が自分の失態と痴態をまざまざ思い出すのと同時に背後の深津が声をかけてしまったので、驚きで彼の腕の力がゆるみ彼女の体はシーツごとベッドの下に転がり落ちてしまった。女の悲鳴に虚をつかれ呆然とする深津とは対照的に、彼女はどこにそんな余力を残していたのか俊敏に身を起こし、シーツで裸の体をぐるぐる巻きにした。
白を通り越して青ざめた顔の彼女を心配し深津も体を起こしベッドから下りる。彼の下半身にはボクサーパンツが履かれているのを見て、自分だけが痴女のような気持ちになり彼女の顔色がまた一段と蒼白になった。
「ごめんなさい私、深津くんにいろいろ失礼したり言ったりしたよね? どうしようプロの選手を傷物にしちゃった……深津くん彼女いる? 私このことはすぐに忘れる。それか彼女さんに土下座するし殴られるのも覚悟してるから……本当にごめんなさい!」
対人関係において真面目なきらいがある彼女は、酔うと記憶を無くす質だと言って現状をはぐらかす事が出来ずにありのままを口にして、その場で深々と頭を下げた。シーツの隙間からまっさらな体がのぞく。汚れひとつない。気を失った後に深津が自分を清めてくれた事に気づき彼女は申し訳ない気持ちで倒れそうだった。
久しぶりに会ったそこまで親しくない同級生と体の関係を持ってしまったうえにアフターケアまでさせてしまった。なおかつ彼女は酔った時の記憶も忘れない人間だったので、数時間前の深津とのアレコレが脳のど真ん中に焼き付いる。アルコールの力で普段はしない事もたくさんした。そもそも彼とそういう事をした事実だけで目眩がする。
信じられない羞恥に小刻みに震える体を見て深津は彼女の前に歩み寄り、ぞんざいに巻かれたシーツを丁寧に手で整えてやった。
「恋人はいないから土下座する心配も殴られる覚悟もいらないピョン」
「そっか。ちなみに私も今はいないから、そこは大丈夫」
「あと忘れる必要もないピョン。というか忘れるな」
強い深津の言葉に彼女は俯いていた顔を上げた。彼女を射抜く黒い瞳には確かな熱も感情もこもっていたし、それに気づかない彼女ではなかった。
だって、知ってしまったから。薄い肩からシーツが落ちないように行き来する手の温度を、彼女は知っている。その手がどんな熱さで自分に触れたのかも、どんな風に自分の肌を直に滑るのかも。
彼女は深津の男の部分を知ってしまった。もうふざけて握手したあの瞬間には戻れない。
夜の事情は鮮明に覚えているのにどのような経緯でホテルに行き、翌朝どうやって深津と別れたのかはぼんやり記憶に霞のかかる彼女は、気が付いたら自宅アパートの玄関に棒立ちになっていた。自分の中の帰巣本能が退化していない事に感謝して鍵を開ける。
深津に持たされたビニール傘を濡れたまま靴箱に引っ掛けて部屋に上がり、脱いだままの衣類が溜まった洗濯機も通り過ぎてリビングに入り通勤カバンを床に放り投げた。どさりと横倒しになったカバンの口から昨日の夕食になるはずだったサンドイッチが飛び出した。煮魚を食べている時は今日の朝食にしようと思っていたけれど、手をかざした平たい腹は食欲とは別の欲求で満たされたせいか食事を求めている感覚はない。
ぬぐえない違和感を和らげようと彼女は労わるように自分のお腹をさすった。セックスの後の尾を引く鈍い痛みを久しぶりに感じる。今の事務所に拾ってもらってからは仕事と家の往復、時々、気の置けない友人達との飲みやお泊りで気分転換。このループを繰り返すうちに異性関係はずいぶんご無沙汰になっていた。
ふと、昨日ここに触れた彼の手は自分の手よりもっと大きく力強く、片手で腰回りを掴めそうだったのを思い出して自己嫌悪に陥る。
「これからどうしよう」
彼女はいまだガラガラの声で嘆いた。シンクに両手をついて空中をにらむ。瞼を閉じてしまえば深津のにおいまでよみがえりそうで怖かった。吹っ切りたくて食器棚から取り出したグラスに思い切り蛇口の水を注いで一気に喉奥に流し込んだ。
目覚めて一番に渇望したコップ一杯の水が渇いた体にじわじわ浸透していく。足りなくてもう一杯飲み干した。角度をつけたせいで唇の端から一筋こぼれた水のぬるさが、口に含んであふれる液体の感触が、まったく違う昨晩の記憶に重なって激しくむせる。
ゼエゼエと荒い息を吐きながら彼女はむしょうに泣きたい気持ちになった。
深津くんとこれからどうすればいいんだろう。「忘れるな」と釘を刺されはしたが、自分の有様を思えば言われるまでもなく忘れるなんて出来るはずがない。男の人ってこんなに一瞬で人の心に入り込んでしまうものだったろうか? 違う。私が深津くんを自分の心のよわいところまで招いてしまった。だから簡単に流された。
本当に? 私、流されて深津くんと一線を越えてしまったんだっけ?
汗がにじむ額に手をあてる。瞳を閉じて、永遠に封をしておきたい記憶の蓋に指をかけた。
「フカツくんっていい人だったんだね」
「どういう意味ピョン」
「酔っぱらったら自己責任だって言って、人のこと置いていくと思ってた」
「オレをなんだと思ってるピョン」
「んふふ、ベシベシ星から来たうちゅー人」
「はあ」
彼女が笑うと熱い吐息が深津の耳の裏をくすぐった。腹筋に力を入れて欲をしずめる。
注文したビールはほとんど彼女が飲んでしまい、酔いつぶれた彼女を深津が背負い歩く。飲んだ酒は大した量ではなかったが、アルコールによって蓄積していた疲労が噴出した彼女は店を出てすぐ何もない場所でよろけた。だいじょうぶ、なんて頼りない舌先で言われても信用出来ない。深津はスポーツバッグと彼女の両方を背負い歩き出した。
「藤原、家どっちピョン」
「はっちぽっち」
「ステーション。……それは教育番組ピョン」
意味をなさない彼女との会話に見切りをつけ、深津はどうしたものかと無表情で途方に暮れる。越したばかりの自分のマンションは荷解きの途中で手狭な為、大人二人が横になるのに無理があった。彼女はこの通り、住んでいる家を飛び越し、今自分が地球にいるかさえ認識出来ているのか危ういので言うまでも無く勘定外だ。
しかし東京というのは豊かな街なので、行く当てが無くとも手持ちがあれば寝床に困ることはない。深津は首を回して見つけた適当なホテルに入る。ロビーの隅にあるブルーグレーのソファに瞼を閉じた彼女をそっと下ろし、フロントで宿泊の手続きを済ませた。ベルボーイの申し出をやんわり断って再び彼女と荷物の両方を背負いエレベーターに乗る。
「藤原、起きてるピョン?」
「おきてるよ」
深津は少し驚いた。静かになった背中の温もりにすっかり彼女は眠ってしまったと思っていた。断りも入れずに部屋をとったのは出過ぎた真似だったかとにわかに不安を感じた深津だが、もぞもぞ動く彼女のやわらかな膨らみを意識しないよう努める自分の姿が鏡に映り眉根を寄せる。まったく、人の気も知らないで。
「体調はどうピョン?」
「ちょっと、おちついてきた」
「部屋とったから今日は泊まってくピョン」
「うん。ありがとう、深津くん」
もう一度鏡に向き合う。かつては制服のプリーツに隠されていた細いふくらはぎが自分の体の横で揺れている。深津は夢を見ているようだった。あの頃は触れることも叶わなかった相手が、自分の背にしな垂れているなんて。
「深津くんは?」
「なにがピョン」
「深津くんは、とまっていかないの?」
あたたかくしめった囁きが深津の耳たぶをかすめた。エレベーターのベルが鳴りドアが開く。十一階のボタンが点滅し窮屈な箱の中で動けないでいた深津を先へ先へと急かした。
精彩を欠く足取りで曲がり角の多い廊下を進む。とうとうルームキーと同じ番号が記された扉の前に辿り着き、深津は足を止めた。
自ずから彼の背を下りた彼女は目の前に広がる、知っていたようで、本当はなにも知らなかった男の背を見上げた。
深津くんって本当はどんな人だったんだろう。昔は苦手だと決めつけて遠ざけていたのに、今はこんなにもこの人を知りたいと望んでいる。十代の時は居心地悪く感じていた落ち着いた物腰は、やっと彼に追いついた自分にはとても魅力的に見えて、乱したいとさえ思った。
アルコールが彼女の理性にヴェールをかける。代わりに剥き出しにされた興味と欲求がのぼせた神経を操って、男のポケットに潜む秘密の鍵に華奢な指を導いた。
「かずなりくん」
するりとキーを抜き取りはじめて名前を呼んだ。どんな試合展開にも臆さない深津の目が、そのか細い音の並びに大きく開く。今日で二度目だった。
体ごと振り向いた深津のあつい唇が開く。
「オレの名前、知ってたんだ」
「名前以外は知らなかったみたい」
明確な目的を得てしまった彼女はルームキーを手のひらにのせ、せがむように深津の胸元に差し出した。
「ねえ、一成くんは泊まっていかないの?」
すべてがなし崩しに始まった夜だった。
鼻先を交差させてひたりと合わさった深津の唇に夢中になっている彼女の後ろで扉の閉まる音がした。今までの現実とこれからの未知を一枚隔てた深津は、そのまま彼女の手首を掴んで壁に押し付けた。己の親指と人差し指でたやすく一周できるぐらい頼りない手首を、女の腕でも振りほどける弱い力で拘束する。
「んっ……」
息継ぎにはなれた彼女の潤んだ瞳を吐息が混じりあう近さで見つめて、この期に及んで深津は試していた。今ならまだ、彼女は逃げられる。深津の手を払って鍵の開いたドアをくぐったらもう二度と彼女を追いかけない。そう決めて自分より小さな体を見下ろす。
彼女の震えるまつ毛が上を向いた。どちらのものか分からない唾液に濡れる唇が開く。
「鍵、かけないの?」
「……ッ!」
バスケの試合中よりも凶暴な性質の興奮が深津の脳を殴りつけて理性を歪ませた。自分の手で逃げ道を断った彼女はその事に気づかないのか、夢見心地のままとろんとした表情で首を傾げている。
十年来の再会や一般常識、彼女への配慮すべてをかなぐり捨てた深津は片手で雑に鍵をかけ、曲げた膝を彼女の足の間にねじ込んだ。タイトスカートがめくり上がり白いふくらはぎが露わになると深津の喉が鳴る。エレベーターで意識しないように葛藤していた自分が馬鹿らしく思えた。
「隙ありすぎピョン」
「えー……ん、う……ん………」
厚みのある深津の体とかたい壁に挟まれる圧迫感にすら欲がそそられて半開きになった唇に舌が入れられた。もっと奥に誘うよう彼女が舌を引けば深津の舌が後を追い、狭い口内をべろりと舐め上げる。身も蓋もない音と共に自分では触れられない喉奥をなぶられて、涙が出てくる。彼女はお酒と酸欠でクラクラする頭でぼんやり思った。
私、深津くんとキスしてる。バスケが上手で勉強も出来て、全校集会で平然とスピーチをしていたあの深津くんと。抑えつけられて、舌を入れられて、気持ちよくなってる。叫んだり、大きな声を出すところを見たことが無い深津くんが、こんな風にいやらしくキスするなんて知らなかったなあ。
最後に舌をきつく吸われて長い口づけが終わる。伏せていたまぶたを開いた先にある深津の鋭い眼差しにあてられて、彼女の足から力が抜け落ちた。前のめりに縋りつく彼女を抱き寄せた深津はかすかに笑っていた。
彼女と再会するまでの十年、深津に恋人がいない訳ではなかった。まして童貞というわけでもない。心身ともに自己管理が務まるようになれば今まで後回しにしていた欲も大きくなり、それなりに異性と付き合いもした。
ほとんどは向こうから告白されたものだが、彼なりに心をくだき恋人として振る舞った。しかしどれも長くはもたず別れを切り出すのも相手から。
まめに顔を出す山王の同窓会で藤原を見つけられたら、と淡い期待が裏切られ続けるうちに半ば諦めていたのに。とつぜん現れた彼女を見て気が付いた。もし藤原に再会できたなら、そのタイミングで別な女と付き合っていたら、という杞憂を抱えていたことを。オレは恋人にふられる度、心のどこかで安心していのだ。
「藤原」
「ん……?」
ゆっくり首をこちらに向けた彼女の顔は涙とよだれでぐちゃぐちゃなのに、深津の胸の奥から途方もない愛しさが込み上げてくる。他の誰にも感じられなかった心が動かされる。
声をたよりにふやけて溶け落ちる寸前の瞳が壁や天井をさまよって、最後に深津を見た。滲んだ世界の中で彼女と深津の視線が絡み合う。沸騰する湯からいくつもの気泡が浮かんで弾けるように、彼女の体の真ん中から快楽を欲する信号が沸いて体の至るところで弾ける、弾けると期待してしまう。
「かずなりくん」
ただ名前を呼ばれただけで強い感情が奔った。好きだ。藤原が好きだ、ずっと好きだった。
再会しなければ永遠に知らないでいただろう激しさに襲われ、深津は加減を忘れて彼女の細い体を乱暴に抱きしめ、引きずるように部屋の奥のベッドに連れて行く。
それが、長い夜のはじまりの記憶だった。
サンドイッチは食器を汚さずに食事が出来る画期的な料理だ。洗い物が減るのは大変喜ばしい。彼女は行儀悪く玉子サンドを口にくわえたまま、先日クライアントに出された要望書を基に思いつく限りのアイディアを紙に書き出していく。
一夜のあやまちを悔やみ尽くした彼女を待っていたのは持ち帰った仕事の山だった。元同級生と寝てしまった過去は変えられない。それよりも、自分の力で変えられる未来を見なくてはなにも始まらなかった。気持ちを切り替える為に濃い目に淹れたコーヒーを相棒に、一心不乱に机にかじりついた彼女は目を細めて紙の上で踊る図形や文字を見つめた。
「あー……ここよりもこっちに予算割いた方が良いのかな」
独り言ちてサンドイッチを飲み込む。二切れ目のサンドイッチを見もしないで口に運ぶとじゅわりとしたたる酸味が舌に広がった。図面の上にこぼれかけたトマトの果汁を手でおさえる。なんだか、上手くいかない事ばかり起きている気がする。げんなりしながらティッシュで手をふいて窓の外に視線を移すと、雨は上がり、美しい青の濃淡が染みわたっていた。もうすぐ日が落ちて夜になる。貴重な休日はあっという間に溶けてなくなった。
「結局夕飯になっちゃったな、これ」
一日かけてディナーの立ち位置に戻った食べかけのサンドイッチに苦笑が浮かんだ。
昨日の夜から今日の夜まで長かった気もするし、瞬きの合間だった気もする。深津くんと共有した時間は長く引き伸ばされたり、逸る鼓動と同じように短く刻まれたり、とても不思議な夜だった。……ダメだ、油断するとすぐに頭が深津くんとの出来事をリプレイする。
冷めて渋みの増したコーヒーを飲み、さあ過去より未来の為に働こうと彼女がペンを持った矢先、二つ折りの携帯電話が鳴りだした。事務所の呼び出しが頭をよぎり素早く画面を開く。表示されたのは事務所ではなく母親の二文字と実家の固定電話の番号だった。
「もしもし、お母さん?」
「はい、あなたのお母さんですよ」
母の独特な言い回しにむしろ安心した彼女は凝った肩を回し背もたれに身を預けた。
「今お仕事は大丈夫?」
「うん、大丈夫。なにかあった?」
「実はねえさっきあなた宛てにうちに電話があったのよ」
「わたし宛て?」
イヤな予感がする。ほぐしたばかりの肩がまた強張った。まさかね。
「高校の同級生のフカツくんって男の子なんだけど、知ってる?」
「しっ………」
知っている。というか昨夜いろいろ知ってしまった人の名前だ。でもなんで私の実家の番号を知っているのか?
彼女は口を「い」の形に開いて、なんと答えるのが正解か悩み言いよどむ。知らないとシラを切るのは簡単だ。けれど、別れ際の深津の強い言葉を思い出すと後が怖かった。自分の勤務先と彼のバスケチームのホームタウンが同じという事も鑑みると、再会の可能性はゼロじゃない。彼女は泣く泣く正直に答えた。
「知ってる、深津一成くん。一年生の時に同じクラスだった。深津くんがどうしたの?」
「フカツくん、学生の時にあなたに借りたCDを見つけたから返したいって。律儀ねえ。電話番号あずかったから言うわね」
は? なにそれ聞いてない。ていうか絶対にそんなもの貸してない。
立て続けに起こる不可解な深津の行動に彼女は目を回すが、仕事の癖でペンを掴み図面の端っこに彼の番号をメモした。丁寧に復唱もし、正真正銘本物の深津の電話番号が彼女の手の中にある。
「それじゃあフカツくんに電話かけてあげてね」
「う、うん」
「たまには秋田に帰って来なさいよ」
「ちょ、ちょっと待って! 深津くんなんでうちの番号知ってるのか言ってた?」
「ああ、一年の時の緊急連絡網見たって言ってたわ」
じゃあねえ、体に気をつけなさいよ。暢気な母親の声を最後に通話が切れる。彼女は携帯を耳にあてたまま固まった。
緊急連絡網とは、あの緊急連絡網か。大雪のため今日は休校になるという学校からのお知らせ等をクラスの中でリレー形式に電話で回していた、あの。言われてみれば寮生もひっくるめてクラス全員分の電話番号が書かれた紙があったけれど、何年前の紙だ。どうしてまだそんな紙を持っている。
彼女は携帯電話と電話番号の書かれた紙を交互に見て、深津の顔を頭に浮かべた。
多分、深津に直接番号を教えられていたら、自分から彼に電話をかけたりしなかったろう。おおいに悩み苦しむだろうが、仕事の忙しさを言い訳にして思い出の箱にかたく鍵をかけて終わりにした気がする。だから深津はあえて多くを言わずに彼女をホテルから帰したのだ。そうしてわざと遠回りをし、彼女の家に電話をかけ、退路をふさいだ。
どうしても彼を知りたくなって軽はずみに深津に近づいた時点で、彼女に逃げ道など残されていなかった。
コーヒーの最後の一口を飲む。カフェインで強引に奮い立たせた心が挫けないうちに、彼女は深津に繋がる数字を押した。コールが二回。プツン、と音がした。
「もしもし、深津くん」
深津が声を発する前に彼女は思わず口を開いた。携帯を持つ手が少し震えている。なにを話すのか決めていない事に、今の今になって気が付いた。落ち着いて、冷静に。胸の中で繰り返し唱える彼女の声が電波に乗ってしまったらしい。
深津は彼女の頑なさをほぐすような声音で肌に触れた時さえ呼ばなかった名前を呼ぶ。
「ひとみ」
電話の向こうで彼女が息をのむ音が聞こえる。深津はゆるやかに口の端を持ち上げた。
彼女のなにもかもが、深津に見透かされていた。
授業の最中ふと彼女の手元を見た時、きれいな線を引くのだと思った。
線なんて誰が描いても変わらないと思われがちだが使っているペンや筆圧、微妙なクセなどで趣を変える。文字と同じくその人の性格が表れるので注意して見るとおもしろい。
熱心に話し過ぎるとフェチやら変態やら難癖をつけられるので深津は言葉にすることなく、ただ黙って彼女の製図の様子を窺っていた。
何かと遠慮しがちで目立たないように一歩引いた態度をとる彼女の描く、真っすぐ伸びた力強い線。迷いなくペンを走らせる真剣な眼差し。それと、定規に添えられた指の細さに見惚れてしまった。まるく整えられた爪の並びが男の自分には目新しく感じて、いつまでも見ていたいと思った。
「深津くん」
「………」
「深津くん?」
「なにベシ」
「今日の日誌こんな感じでいい?」
深津は彼女の声にハッとして意識を現在に引き戻した。書き上げた日誌が彼の前にかざされている。窓際の席、ガラスから射しこむ夕焼けが日誌と彼女の頬をあたたかな橙色に染めていた。
深津の前の席に座る生徒が風邪で休んだ為、後ろに座る彼女とペアで務めていた日直当番の最後の仕事がクラス日誌の提出だった。今日の出来事や連絡事項を書き上げた彼女は間違いや書き忘れがないか確認してくれと深津に日誌を差し出す。
「書き足すことあったら教えてね」
「ベシ」
深津は日誌を受け取り体を前に戻して内容に目を通す。日誌の文字は彼女が描く線と一緒で、跳ねやはらいが丁寧に書かれ、やはりきれいだった。内容を確認するというより作品を鑑賞するような気持ちで深津は彼女の文字に見入る。作者たる彼女は深津の猫背気味に曲がる背を少し眺め、そそくさと帰る準備を始めた。深津と違い部活に入っていない彼女の頭の中は、授業で課された宿題のことと、少し苦手な男の子と早く距離を取りたいという気持ちでいっぱいだった。
早朝からバスケ部の練習に参加した後、遅れず教室にやって来た深津はめんどくさい日直の雑務もテキパキこなした。授業中にうたた寝もしないし、休み時間も代わる代わる訪れる部活動メンバーに応えて息つく間もない雰囲気だった。なのに、泣き言ひとつ漏らさずに、今も黙々と日誌を確認している。そういう大人びた落ち着きが逆に彼女を落ち着かなくさせるのを、彼女自身はもちろん深津も薄々気づいていた。
彼女はほんのわずかにくたびれて見える深津の背をちらりと見る。よく分からない人だ、と改まって考える中で広い背が動き不自然に目を逸らした。
「ここ、日直の名前が抜けてるベシ」
「ほんとだ、ごめん」
振り向いた深津は彼女の机の上に日誌を広げ空白の部分を指さした。一度カバンに仕舞ったペンケースを取り出して自分の名前を書く。
「このまま深津くんの名前も書いていいかな」
「頼むベシ」
「はーい」
ペン先が紙を擦る軽快な音がして、彼女の名前の隣に美しい文字が四つ現れた。
深津一成。
見慣れているはずの自分の名前がやけに良いものに見えて、今度からもっと丁寧に名前を書こうと深津は走り書きのような己の文字を反省した。そして、彼女がなんの躊躇もなく自分の名前を正しく書いてくれたことが奇妙に嬉しかった。
「そうだ、深津くんスタメン入りおめでとう」
「……ありがとうベシ」
「うちのバスケ部ってすごく強いのに一年でスタメンに選ばれるなんて、すごいねえ」
去年まで共学の中学校に通い普通に女子と接していた深津だったが、山王に入りバスケ部のガタイの良い先輩達に囲まれる内にすっかり異性との関わり方を忘れてしまっていた。高くなめらかな声で褒められて浮足立つ気持ちとは裏腹に口を横に結んでしまう。その表情を不機嫌ととらえた彼女は愛想笑いを貼り付けてさっさと席を立った。
「早く部活行って練習したいよね、気利かなくてごめん。私これ職員室に出してくる」
「藤原」
「じゃあ、無理しすぎないようにね」
深津があいさつを返すより早く、彼女は日誌を持って小走りに教室を出て行ってしまう。自分の表情のバリエーションが乏しい自覚はあった。しかしそれが原因で同じクラスの、しかも今しがたあわく想いが芽生えたばかりの女の子に逃げるように立ち去られ、深津はうな垂れる。
決して、彼女とどうこうなりたいとは思わなかった。そんな余裕を持てる器用さが無いことは自分がよく分かっている。彼女は「無理しすぎないように」と言ってくれたけれども、多少の無理を許容してそのハードルを越え続けなければ、レギュラーの座は簡単に他の誰かに奪われる。山王バスケ部には実力者しか集わない。
バスケが上手くなりたくて山王に入った。それが自分の高校生活の全てだった。
だから、彼女を眺めるのはたまにでいい。プリントを後ろに回す時、授業でグループになった時、今日のように日直が一緒になった時。気取られないように彼女と彼女の描くものを盗み見て、良いなと思うだけでいい。
でも。やっぱり。あわよくば。またあの文字で自分の名前を書いてくれたら嬉しい。
「もしもし、深津くん」
「ひとみ」
緊張をはらんだ声で呼ばれた名前に、自分にしては甘ったるい声音で彼女の名前を呼び返す。電話越しに小さく息をのむ音がして深津はわらった。
「あの……昨晩は本当にごめんなさい。ホテル代とか払ってもらったのに、私そこまで気が回らなくて。ええと……あの……」
「落ち着くピョン」
「うん、でも……家に電話。ちがう、そうじゃなくて」
気が動転して顔を曇らせる彼女の姿は想像に難くなく、申し訳ないと思いつつ深津は手応えを感じた。
遠くから姿を眺めるとか、名前を書いてほしいとか、そういうプラトニックな感情で満足していた高校時代の自分が今の自分を見たら軽蔑するかもしれない。彼女を容易く解放した癖に実家に手を回し退路を一つずつ潰して、他者に対して誠実であろうとする彼女の美点すら利用しこの電話に繋がるよう仕向けた愚かしさを。
だが、深津は大人になった彼女を知ってしまった。彼女がどんな声で自分の名前を呼び、どんな風に泣いてすがるのかを、バスケで精いっぱいだった自分では触れられなかった彼女の最奥を、深津は知ってしまった。徹底的に相手をマークするのは彼の得意分野だ、後戻りする気などさらさらない。
一方の彼女は落ち着きとは程遠かった。
落ち着けと言われて落ち着けるなら苦労はしない。口の中で渋滞する言葉を深呼吸で抑え込みながら彼女は深津の発言に眉根を寄せた。
彼の手の内でいいように踊らされている。衝動的に相手をなじりたい気持ちに駆られるが、元はと言えば自分から手の内に飛び込んだので何を言っても自業自得で終わってしまう。わななく唇を律して息を吸った。
「深津くんは、私をどうしたいの?」
考え抜いたわりに出てきた言葉の陳腐さに彼女は呆れた。
どうしたいの、って。私から誘ったくせにまるで被害者ぶった言い方。
はからずも卑怯な自分が垣間見えて梅雨時の湿気が不快さを増した。肌にまとわりつくジメジメした空気と冷や汗が混ざり合う。
「藤原はどうしたいピョン」
「わ、わたし?」
「鍵を渡してきたのは藤原の方だピョン」
痛いところをピンポイントで突かれてぐうの音も出ない。さらに懲りない事に、深津に下の名前ではなく苗字で呼ばれて少し落胆してしまった自分がいて、彼女の心はどうにかなりそうだった。
肝心の自分の気持ちが分からないのに深津の気持ちが分かるはずないのだ。それは分かっている。分かっていても、心がどうにもならない。
どうしてホテルで彼を引き留めてしまったのか。
どうして彼を知りたいとう感情がわいてくるのか。
どうして。
久しぶりに会った深津くんは思い出の中よりも柔和で優しくて、見ているだけだった背中に乗って感じた頼りがいのある逞しさと、くだらない冗談にも応えてくれるくだけた雰囲気に惹かれてしまった。彼の深くに潜るほどに知らなかった魅力が見えてきて、止まらなくなってもつれた夜でさえも、秘めた激しさに翻弄されるのが気持ち良かった。
どうして。私はこんなにも深津くんを。
「私は深津くんと」
続く言葉をわざと断ち切って彼女は唇を結んだ。
落ち着いて、今度こそ流されてはダメ。時間差で襲ってくるひと目惚れのような気持ちは一過性のものに決まってる。私たちもういい大人なんだから、お酒の勢いで一度寝たぐらいで浮ついた気持ちになるなんて馬鹿げてる。詳しくはないけれど深津くんもプロバスケ選手ならファンも多いだろうし、恋人はいなくてもこういう経験の一つや二つあって、私をからかっているのかもしれないし。
しばしの無音の後に意を決した彼女は毅然とした声で答えた。
「お金の件もあるし、深津くんの都合の良い日にまた会える?」
「いいピョン。来週の土曜なら大丈夫だピョン」
「ありがとう。時間は?」
「昼過ぎ、この前会ったコンビニでどうピョン」
「分かった。午後二時でどうかな」
「ピョン」
深津のピョンを肯定に受け取って彼女はひとまず安心した。この時間帯なら長引いて夕飯を、という前回のような流れにはならないだろう。見え透いた予防線だが深津がそれに乗っかったのを思うに彼もすぐさま二度目、とまでは考えてない。と思いたい彼女は油断しかけた心を引き締め直した。
「もし都合悪くなったらこの番号に電話して」
「分かったピョン。じゃあ次の土曜に」
「うん。……あ、ちょっと待って」
通話を切ろうとした彼女は降ってわいた疑問を深津に投げかけた。
「うちの実家に電話した時もピョンってつけて話したの?」
電話を通しても接尾語をつけて話す深津にもしやと思い聞いたのだが、返ってきたのは過去最大の呆れたため息だった。
「はあ。そんなわけあるかピョン」
「だって、この電話ではピョンって言ってるから家にもそんな風に話したのかなって」
「ちゃんと時と場所をわきまえて使い分けるに決まってるピョン」
「そうなんだ」
「それに」
「それに?」
「夜の時だって外してた」
二の句を継げず唖然とする彼女を放置して深津は「おやすみピョン」と言い逃げし、通話を切った。プー、という間の抜けた電子音は彼女の耳を素通りして日の落ちた部屋に消えた。夜の暗闇に思い出すのは熱を宿す黒い両目と、やわらかな唇から直接耳に吹き込まれた低くかすれた声。
「あーっ!」
彼女は意味をなさない声を発して力任せに携帯を閉じた。部屋中のあらゆる照明を点けて回りやましい記憶を払拭する。残りのトマトサンドを頬張って新しいコーヒーを淹れ直した。深津と再会してからの二十四時間、彼女は彼に振り回されっぱなしだった。
対して深津は通話を終えた携帯電話をソファに放り投げ、上機嫌に背の後ろで手を組んだ。荷解きの途中だった段ボールの前にしゃがんで中身を確認する。数少ない私服を取り出してクローゼットのハンガーにかけては、来る土曜日になにを着ていくか思いを巡らせていた。
昨日の今日で彼女を勝ち取れるとは考えていない。昨晩は彼女に自身を刻むきっかけでしかないし、先ほどの電話で彼女が大きくこちらに傾いているのは分かった。上々の結果である。相手が調子づいた時に起死回生の一手を打たせない事も深津の得意とする手法だ。
「自分から誘っておいて逃げられると思うな……ピョン」
間接照明の明かりの下で深津はつぶやく。
福沢諭吉が数枚入った茶封筒を紅茶の隣に置いて彼女は静かに頭を下げた。向かいに座る深津もまた静かに彼女のつむじを見下ろしている。再会したコンビニ近くにあるチェーン店のコーヒーショップ。その一角、窓際の席で二人は膝を突き合わせ真剣な表情で対峙していた。外には彼女の心を写し取ったような曇り空が広がっている。
「これ、この前の夕飯とビニール傘と、ほ……ホテルのお代です。受け取ってください」
ホテル、の部分だけ小声になりながら彼女は頭を上げた。頬を滑り落ちる髪を耳にかけ返事をおずおずと待つ顔には「これで無かった事にしてください」と書いてあり深津は苛立つが、彼女とは対照的に感情を表に出さずコーヒーカップに口をつける。
気もそぞろに深津の返答を待ちつつ、彼女はこっそり彼の姿を観察した。練習終わりの前回と違いラフなシャツとジーンズを身に着けた深津は身長の高さも相まって雑誌モデル顔負けの出で立ちだった。短く伸びた清潔感のある黒髪と涼しい目元は華やかさにこそ欠けるが、あつい唇や物憂げな雰囲気にそこはかとない色気を感じてしまう。通り過ぎる客の中にもふっと深津に視線を奪われる女性が少なくなかった。それを対面で見てしまうと面白くない気持ちが顔を出しそうになり、早く席を立ちたくてたまらなかった。
テーブルの下に窮屈そうに押し込められた彼の長い脚に当たらないよう踵を引いた彼女は、茶封筒と深津を交互に見つめる。あれから彼女なりにプロバスケ選手とはどんなものか調べた。その中に選手の人気度は欠かせないと書いてあってぞっとした。アイドル並みとはいかなくても、目の前の深津は多くのサポーターやファンに支えられて仕事をしている、という事だ。そんな男をホテルに誑かした女がいるなんて噂が出回れば彼の選手生命すら……と背筋の寒くなる未来に彼女は震えあがる。
この封筒を受け取って引き下がってほしい。考えなしにあなたに触れた自分を反省するから。お願いどうか、私を見逃してください。
「で」
「で?」
「この前の答えはどうなったピョン」
「答えって、その前に封筒を」
「ちゃんと答えるのが先ピョン。じゃなかったらこのお金は絶対に受け取らないピョン」
短期決戦を望んでいた彼女の目論見はすぐさま見破られてしまった。順序立てて考えれば深津の質問に先に答えるのが正しいと彼女も理解出来るからこそ、この数日で仕事と並行してかためたはずの決意を取り戻そうともがいた。
そんな気配を感じ取ったのか、深津は追及の手を緩めず深く腰掛けていた椅子に浅く座り直し上体をテーブルに寄せ、彼と彼女、どちらの物でもない状態のまま天板の上に置かれた封筒に視線を逃がす彼女を制した。視界に割り込むタフな身体に怖気づいた彼女は答えを濁す為に紅茶のカップに手を伸ばすも、その指先は先回りした深津のかたい指先に捉えられてしまう。
短く切り揃えられた爪で指の腹をやわくくすぐられ彼女は身もだえした。節の目立つ深津の中指はそのまま彼女の指を辿り手のひらを這って、手首の内側でピタリと止まる。どくどくと速く脈打つ彼女の焦りに直に触れながら彼は待った。
「ふ、かつくん」
「なにピョン」
「なにって」
東の空から流れて来た雨雲が空を覆い二人の背景を濡らす。翳る窓に反射する深津との距離は限りなく近いのに、彼女は彼の心内を推し量れなかった。
あと一押し。
深津はあやすように彼女の肌を指先で引っ掻いた。
「んっ」
昼下がりのコーヒーショップに似つかわしくないあえかな声が彼女の唇からこぼれる。もちろん他の客は気づかない。手を握る深津以外は。
「高校の同窓会でいつも藤原を探してた」
「え?」
唐突に方向性の変わった話題に彼女は呆気にとられて深津を見た。深津は変わらず彼女の目を視線で縫いとめたまま、とうとうと彼女が知らない秘密を話して聞かせた。
「成人式の後の同窓会は学年が違うくせにバスケ部が揃うから乱入してきた沢北を世話してる内に、藤原は先に帰った。後悔して次の同窓会もその次の同窓会も、秋田でやった会も時間の許す限り顔を出したのに藤原はあれきり来なかったピョン」
「だって山王の同窓会って男の子ばっかりだから。でもなんで、私を探してたの?」
「この前から藤原はなんで? と、どうして? ばっかりだピョン」
少しは自分で考えてみろ、と深津は顎を上げて彼女を煽る。
そういえば自分は深津をどう思っているかばかり考えて、相手は自分をどう思っているのかまで頭が回っていなかった。
あの日名前を呼んだらすぐに気が付いてくれたのは、私のことを忘れないどころか同窓会でも探してくれていたから。私を探していたのは、会えないのを後悔していたから。後悔していたのは、会いたかったから。
深津くんが、私に会いたいと思ってくれていた?
一度引いた波がさらに大きな波になって彼女の感情を心臓に押し戻す。指先の鼓動は窓をたたく雨粒の音に負けず深津に届き、彼の心臓のスピードも上げていった。
「答え合わせがしたいなら、先に藤原が答えるピョン」
私は深津くんとどうなりたいのか。答えはもう彼に示されているようなものだけれど、そんな風に自惚れても良いのか判断するのを躊躇う。だって、目の前の彼はあの深津くんだ。バスケが上手くて勉強も出来て、山王バスケ部を象徴するような人だった彼が。私が答えたら、求めたら、応えてくれるかもしれないなんて。そんな夢みたいなことあるのだろうか。
熱を帯びた薄い手のひらが翻されて、皮の厚い男の手をそっと握りしめる。
「私、深津くんのこともっと知りたい。知りたいの。きっと……好きになっちゃったから」
一週間近くかけて形にした覚悟を自分自身で台無しにしたにも関わらず、彼女の表情に憂いはなかった。
深津は十年前の教室では出来なかった優しくあわい笑みを口元と目じりにのせて、強くその手を握り返す。
自信をもってこの手を掴める日がようやく叶う。
「オレも藤原のことをもっと教えてほしいピョン」
「深津くんも、私のこと知りたい?」
降りそそぐ雨粒のように、彼女の瞳は期待と好奇心できらめいている。
彼女は自分の望むとおりこたえてくれた。次は自分が彼女にこたえる番だ。
「知りたい。ひとみのこと、ずっと、ずっと好きだったから」
付き合う前からセックスした関係なんて長く続かないよ。
秋の夜長が明けた日曜日の朝、カーテンを透かした優しい日差しが瞼をさす。うっすら目を開けるとそれは海面の光を受けて揺らめくクラゲに似ていて、一瞬ここがどこだか分からなくなったが、少し経って、ここは彼が住むマンションのベッドの上だと思い出した。身長百八十センチの彼が余裕でおさまるサイズのベッドの中心に、大きな余白を作って二人抱き合って眠っている。
私の腰に腕を巻き付けて眠る恋人の少しかたい髪を撫でていたら、ふと、数日前に友人から言われたことを思い出した。一成くんはよく眠っている。シーズン真っ只中の彼の忙しさは見ているこちらの目も回りそうなほど。一緒に開けた段ボールの箱は片付いたものの、まだ生活感の宿らない部屋は私のアパートと違い無機質に感じた。
昨日の夜、遠征から東京に帰って来た一成くんと言葉すら惜しんでもつれ込んだベッドの上は熱くてたまらず、皺の寄ったシーツは二人の足元にからまっている。ゴツゴツした二本の脚を行儀よく一纏めにそろえて瞳を閉じる彼の胸に、今は遠慮なく頬を寄せた。
吐息すらもしたたりそうな梅雨の夜、十年ぶりに再会した私と一成くんは二時間後には近くのホテルで互いの裸をまさぐりあっていた。
恥ずかしいことに、ベッドに誘ったのは私から。その前のことは少しおぼろげで、私を背負う彼の広い背中は憶えていても会話の内容は実はよく覚えていない。一成くんは覚えているかもしれないけれど、私は目覚めてすぐの記憶が曖昧になるぐらい激しく揺すぶられた腰や、荒々しい情事に相反して全身をくまなく大きな手とあつい唇で慰撫されたこと、胸を焦がす輪郭のぼやけた感情ぐらいしか、その夜の出来事を思い出せなかった。
これはきちんと一成くんにも伝えたけれど、別に普段からだれ彼かまわず足を開いてるわけじゃない。そこのところを彼に勘違いされると悲しいし困るのでお付き合いがはじめってすぐに半泣きで弁解したら、分かってるピョン、オレが特別って事だピョンと返されて唖然とした。間違ってはいないので黙るしかない私は顔から火が出るかと思った。
たった一度のあやまちからはじまった一成くんとの関係も、友人からすれば信じられない経験なのか苦虫を嚙み潰したような渋い声音で「やばいでしょ」とたしなめられた。
「私なら無理だな、好きじゃない人とセックスするなんて」
「ちょっと待って、勘違いしないで。まったく気のない相手としたんじゃないよ」
「でも、その時点では恋人じゃなかったんだよね」
「まあ、そうだけど……」
「いくら同級生だったとはいえ十年ぶりだったんでしょ? もっと自分の体大事にしなよ」
彼女の声からは純粋に友だちを心配する気持ちしか感じられない。悪気があるわけじゃないのも分かっている。私は人づきあいに真面目すぎるとアドバイスしてくれたのも彼女だ。
でも、友人がパチン、と爪でナッツの殻を割る音が耳につく、そういう会話。
私はけっして自分の体をぞんざいに扱っているつもりはない。かと言って高値をつけているわけでもない。相手が一成くんだったから、なんて言い訳にしか聞こえない言葉は甘いカクテルで流し込んだ。
「朝からうかない顔だピョン」
つむじの上から聞こえるかすれた声に顔を向ける。瞼が半分閉じたままのあどけない表情で一成くんがこちらを見ていた。
「起きた? まだ寝てても大丈夫だよ。せっかくのお休みだからもうちょっと寝たら?」
どうせ翌日は仕事も休みだからと昨夜は羽目を外して二人きりの時間を楽しんだのだ。その延長線上に寝そべったところでバチはあたらない。
本当は午後あたりにずっと行きたいと思っていた国際文化会館へデートに行けたらと考えていたけれど、ストイックに体を鍛える彼に少しでも休息を。そう祈って同じシャンプーの香りがする髪を梳いてあげる。
「ひとみが起きるならオレも起きるピョン」
腰に回っていた一成くんの両腕がするりと背を這い上がり肩甲骨のあたりで交差する。私のつむじにひたいをすり寄せる彼に甘えて、まだ不安定にふるえる彼のまぶたを見上げながらつぶやいた。
「一成くんは私のこと、ふしだらな女だって思ってる?」
「は?」
「私と一成くんって、再会したその日にホテルに行ったでしょ? だから、そういう女だって思ってるのかなあって。ちがうよって話したけど、やっぱり少し不安で」
「それを言えばオレだって酒に酔ったひとみをホテルに連れ込んだろくでなしピョン。いったい何があった、誰がひとみにそんなことを言った?」
突拍子のない私の質問にまどろんでいた一成くんの目が冷え切り不穏な色をかもす。
違うの、そうじゃなくてね。力の強まった彼の抱擁の中で首を横に振った。
「人って、どうして体から感じた気持ちを心で感じた気持ちより、不純に思うのかな。体の相性ってけっこうバカにできないでしょう? 誰かを好きになって、恋人になって、いざ夜になったらダメだったから別れるって人もいるのに。体の相性がすべてだとは思ってないよ。けどね」
瞬間的な判断力が必要とされるバスケ選手である一成くんに比べて私の言葉はつたない。職場のプレゼンはもっとマシに出来るはずなのに。彼の前では中途半端が全部剥がされてしまう。
それでも、一成くんはいつの間にか体を丸めて私を全身で包むように抱きしめながら、真剣な面持ちで話を聞いてくれている。
「一成くんとのはじめての夜ね、すごく気持ちよくて、それと同じぐらい一成くんを好きって体で感じたの。その日まで私に触れたどんな男の人よりも、一成くんの手が、唇が気持ちよかった。触れられると、すごく大切にされてるみたいで……あ、なんかこれは変な風に聞こえるから、今のはナシ、忘れて!」
私の理性は突然自分の仕事を思い出して頭の中でけたたましく警鐘を鳴らしはじめた。
なに変なこと言っているんだろう、寝ぼけているのは私の方だ。
「とにかくね、とにかく! ……ああもう、笑わないで!」
「ふふ、くっ……。必死な姿がおかしくて……くくっ」
隆起した彼の喉仏が忙しなく上下している。大きな彼が大きく笑うから、抱きしめられた私の体にまでその振動が伝わってくる。
「とにかく、私は体からはじまった関係だとしても、一成くんのことがきちんと好きって改めて言いたかったの!」
無意識に友人からの言葉のトゲを気にしていた私は、一成くんにそう伝えることで胸につかえたものを取ろうとしていた。私と友人の会話など知る由もない彼はひとしきり喉奥で笑って満足し、今度はあまやかな双眸で私を見下ろした。そのうっそりと下がる目じりは朝早くか、夜遅くにしか見られない。恋人だけが見られる顔だ。
「オレも同じ」
「同じ?」
「体からの関係を不純で信頼に値しないものとは思わない。心と同じ、体も、オレたちに与えられた一人一つきりのものだから。その体で感じたことは、心で感じたことと同じように、大切にしたい」
成績優秀だった一成くんは流石言葉選びが違う、と感心しながら、そんな彼と同じ気持ちを共有していたのがとても嬉しくて、私は瞼を閉じて彼の声に耳をすませた。体が資本のスポーツ選手にそう言ってもらえると、どこか世間に後ろめたかった気持ちが薄らぐ。
「はじめてひとみを抱いた時、手がふるえた」
「うそ?」
「ほんとピョン」
試合の前、試合の最中、指先まで研ぎ澄まされ震えなど知らない彼を知る私は信じられない思いで首をかしげた。顔の角度が変わって耳元に寄った厚い胸板。少し汗ばむ肌とかたい筋肉、その下にある心臓の早鐘が聞こえる。
「一成くん、すごいどきどきしてる」
「ひとみに触れるときはいつもこうだピョン」
耳殻を食まれ、鼓膜を直接揺らす低い声。不意をついて私の尾骨からうなじまでをなぞる指先。
「んっ……」
まだ熱のひききらない体は小さな刺激も敏感に拾い上げ、情動を燃やそうとする。あんなに激しく重く私を抱いたのに、疲れ知らずの一成くんは勢いよく上半身を起こして私の顔の脇に両手をついた。絡まっていたシーツが床に滑り落ちていくのと一緒になって唇にキスを落とされる。軽く触れるだけの口づけを何度か繰り返し、じょじょにアクセルを踏んで、鋭い犬歯でやわく口の端に噛みつく。
今まで体中に施された愛撫と彼に奉仕したすべてが引きずり出された。
本当に、体で感じる感情って侮れない。
「今も手ふるえそう?」
「当たり前ピョン」
「ふふふ、そうなんだ。」
「つまり、オレもひとみをきちんと愛してるってこと」
大きな口がぱくんと私の口をおおった。彼の肩の地平線を越えた先に視線を向ければ、脱いだままの下着が床に散らばっている。くしゃくしゃになったレースを見て、ホックを外された時の興奮がぶり返した。いや、今回はそれ以上の歓びが体中を走る。
愛してる、だって。はじめて言われちゃった。
私もあなたも、やっと心が体に追いついたみたい。
深津と彼女が偶然の再会を経て恋人になり季節が一巡した頃、二人の手元に同じ生成色の案内が届いた。
「そっちにも届いたピョン?」
「うん、さっき郵便受け確認したら入ってた」
チームの練習を終え帰宅後すぐに彼女へコールした深津は、読んだままダイニングテーブルの上に投げていた手紙を手に取った。厚手の封筒をひっくり返すとそこには彼らの代の生徒会長の名前と現住所が書かれている。野球部の主将でありながら勉強も出来、人当たりもよく学年を問わず人気の生徒だった彼は卒業後に開催されたほとんどの同窓会で幹事を務めていたので、封を開けて中身を見なくとも同窓会の案内である事は明白だった。
「クラスとか部活単位での同窓会はわりとあったけど、学年全体の同窓会は久しぶりだね。成人式以来?」
深津と同じ手紙に目を通しながら彼女は椅子の背もたれに体を預ける。
彼と違って山王工業高校の集まりに滅多に顔を出さない彼女の視線は紙の上を滑るばかりで、内容が一向に頭に入らずにいた。
開催は六月で会場は秋田駅の近くにある大きなホテル。ふーん、秋田県開催か。みんないろんなところに散らばってるのに集まれるのかな。一成くんが参加する時は写真をたくさん撮ってきてもらおう。未使用のまま片付けていたインスタントカメラがどこかにあったはず。
コーヒーの入ったマグに口をつけぼんやりする彼女の様子を察した深津は、電話口に向けピシャリと声を放った。
「参加するピョン、二人で」
「うん、そうだよね。一成くんはバスケ部の主将してたし出席するよね………今なんて?」
「オレとひとみ、二人で参加するピョン」
自分も卒業した学校の同窓会なのに他人事のように考えていた彼女はその言葉に目を瞬かせた。深津が参加するのは分かる。現役のプロバスケ選手に大成した深津を一目見たい同級生はきっとたくさんいるし、何より大勢いた元バスケ部の部員達は主将に会いたがるはず。そう、彼の会への参加はみんなに望まれているものだ。それと比べて自分は……と在学時代の自分を頭に浮かべて彼女は苦笑いした。
容姿も勉強も人並みで目立たないようにしてきたし、友だちと呼べる男の子は少ない。せいぜい松本くんぐらいじゃないかな、私のことを友だちと呼んでくれるのは。男所帯の高校でマイノリティだった他の女の子達は何人ぐらい参加するのか、それを聞いてから参加の有無を決めたい。
「女の子の参加率を聞いてから決めたいっていうのは」
「それじゃ出席の返事に間に合わないピョン」
「だって、気まずいよ。男の人ばっかりのところに自分だけポツンといるの」
「オレがいるピョン」
「えー……」
テーブルに頬杖をついた彼女は眉をしかめる。どれだけ深津が側にいてくれると言っても、始終付きっ切りという訳にはいかないだろう。繰り返すように、彼は山王バスケ部で主将を務めたプロバスケ選手だ。引く手あまたになる姿は容易に想像出来る。まさかそこに恋人という理由だけでノコノコついて行けるほど彼女の神経は太くなかった。
「そういう場に着ていく服もあんまり持ってないし」
「次の休みに一緒に買いに行けばいいピョン」
あ、それはちょっと魅力的な提案。一成くんはどういうファッションが好きなのか気になる。セミフォーマルなワンピースを新調するのもワクワクする。
返信用のハガキをいくらか前向きな心でつまみ、彼女の表情はそれでも晴れない。別に高校時代に嫌な思い出があるとか、そういうあからさまに参加を忌避する理由があるのではない。しかし、気の向かない集まりに出るのは仕事でもプライベートでも、どちらでも億劫だ。
煮え切らない思いのまま唸る彼女の気持ちが分からないでもない深津は決して参加を強要しなかった。必要に応じて社交的に振る舞う機会が増えたものの、彼も自身が社交的な人間ではないと分かっていた。ただ、胸の内にある「青春時代を共にした元チームメイトに恋人として彼女を紹介したい」という気持ちも確かなもので。
「ひとみと一緒に参加したい」
彼女にはこれが一番効果があると学んだ深津は飾らずシンプルにそう伝えた。案の定くぐもった声が聞こえてくる。この声のトーンが出たらほぼ答えはイエスだ。
「そういう言い方されたら私が断れないって知ってて言うんだから」
責める口調ながらも彼女の声は明るかった。
本人は否定するものの一成くんは有名人だからデートの時も多少気を遣う。特にホームタウンにはファンもたくさんいるし、周りの目が気になるのは仕方なかった。その一成くんが、私と一緒に行きたいと繰り返すのを断るなんて出来るはずない。
深津が彼女との付き合い方を学んだように、彼女も深津との付き合い方を学んでいる。行くと決めたら早速気持ちを切り替えて、服や持ち物の他に移動手段など、二人は様々な準備を考えた。
「今度のデートは同窓会参加の作戦会議だね。行き帰りの新幹線とか調べておく」
「助かるピョン。オレも休めるように会社とチームに相談するピョン」
「もしかして山王の同窓会ってバスケのオフシーズンに合わせて計画されてる?」
もしやと思い彼女は深津に尋ねた。彼女の高校以外の同窓会シーズンは秋に集中しているが山王の場合はだいたいがこの時期に開催されている。今も昔も強豪のバスケ部には全国から腕に自信のある学生が集い、深津や沢北を含め多くの著名な選手を輩出している事を考慮し、彼らが参加しやすいようなオフシーズンに開催されているのでは。彼女はようやくその事実に思い至る。
「そうだピョン」
「へえ、知らなかった」
「おかげで元バスケ部員の参加率も高いピョン」
「松本くんも来るかな?」
「どうしてそこで松本の名前が出るピョン」
「山王で女の子以外に友だちって呼べるの、松本くんしかいないから」
「昔から松本との距離が近いピョン、ちょっとは控えるピョン」
深津の声音が若干翳った。彼にとって松本はコート上でオールマイティに仕事をこなす信頼出来る男であるが、同時に、学生時代は自分よりも彼女に近しいポジションにいた要注意人物でもあった。部活の連絡で松本のクラスを訪ねる時、よく彼女の姿を探していたのを思い出す。
当時建築科には女子生徒が集中していて、彼女もその一人だった。松本を呼びながら窓際に並ぶセーラー服の群に目線をやれば、彼女だけに惹きつけられたのを覚えている。オレの視線の先にいるのは誰か聡い松本はすぐに気づいたが、バスケを離れた場面でも気づかいの出来るあいつはオレにも、もちろん彼女にもその事を口にはしなかった。そういう細やかな奴であるが故に、彼女からも好意的に接してもらえていたのは正直羨ましかった。
松本を警戒する深津の気配は電話越しにも彼女に届く。要らぬ心配をする深津にあきれ、彼女は頬をゆるめた。
「よくうちのクラスに来て松本くんのこと頼ってたのに、そんな言い方しなくても」
「ああいう男ほど油断できないピョン」
「本気でそんなこと思ってないくせに」
拗ねた口ぶりがかわいくて彼女の笑みが深くなる。深津も本気で松本と彼女がどうにかなる等とは思っていないが、下心のあるなしに関係なく自分以外の男が彼女の近くにいるのは面白くない。ならば彼女を同窓会に連れて行かなければ深津の憂いは解決するが、それもまた彼としては別問題だった。複雑な男心である。
「第一、部活の時に伝えれば済む内容をわざわざ教室まで行って松本に声をかけてたのは、あいつを頼ってたからじゃなくて同じクラスのひとみを見に行ってたからだピョン」
めったにない攻守交替の流れに気を大きくしていた彼女の耳がほんのり熱くなった。携帯電話を閉じそうになるのを堪えて頭を振る。
高校時代に一成くんが自分をそういう風に思ってくれていた事を言葉にされると、首の後ろがむずむずした。たまに落とされるこの手のカミングアウトはとびきり心臓に悪い。だって、あれからもう十年経っている。なのに一成くんの言葉は思い出を飛び越し鮮やかに気持ちを語るから、私の胸は叫び出したい思いでいっぱいになってしまう。
「その不意打ち、恥ずかしいからやめて」
「分かったピョン。じゃあ、絶対にやめないピョン」
確信犯の低い笑い声すらかっこよく聞こえる時点で、彼女に勝ちの目はなかった。
連日の雨で濡れたアスファルトがにおい立つ通りを深津と彼女は並んで歩く。普段から急ぎ足で歩く彼女の歩調は、長い足で大きな一歩を進む深津の歩幅にぴたりと重なる。こういう場面に出くわすたび、自分と彼女はよく似合う、などと深津は一人静かに喜びをかみしめていた。
今日は珍しく深津が車を出し、二人で郊外のショッピングモールまで足を伸ばしていた。はじめは近場で済まそうと思っていたのだが、久しぶりの晴天に恵まれたので少し遠くに出かけようと話がまとまったのは、昨日の夜のこと。
「みんな同窓会ってどんな服着てくるのかなあ」
ショウウィンドウに並ぶワンピースを眺めながら彼女は頭を悩ませる。今まで参加していた女の子同士で気軽に集まる同窓会はレストランが多く、ドレスコードも無かった。しかし今度は人数も多く会場はホテル。気合が入りすぎてもいけないし、かといってカジュアル過ぎてもよろしくない。難しいさじ加減だ。
「一成くんはジャケット?」
「よく懇親会で着ていくグレーのジャケットにするピョン」
「ネイビーじゃなくてグレーの方にするんだ」
一成くんは会社やチームの懇親会で着るグレーのジャケット。その隣に立つのであればあまり派手な色は合わせない方が良い、無難に黒や紺を選ぼうかな。それってちょっと落ち着きすぎ? まだ二十代だしピンクも許される?
店の前で眉間に皺を寄せ真剣に悩む彼女の手に深津の手が触れた。
「悩むより実際に見た方がいいピョン」
ゆっくり彼女の手を引いて店の扉を開きエスコートする。深津のスマートな身のこなしにドキドキしつつ、それもそうだと彼女は彩り豊かなドレスが並ぶ店に入った。
まず彼女の目に飛び込んだのは広がる裾が華やかなピンク色のワンピース。次にオフショルダーのパープルドレスに、背が大胆に開いた黒いドレス。胸元の刺繍が美しいカーキのワンピースもきれいだ。瞳を輝かせてドレスの波間を泳ぐ彼女の後ろについて回りながら、深津は細い指先が選ぶドレス一着一着を一緒に眺めた。どれも彼女に似合うだろうけれど、肌の露出が多いものは選んでほしくない。自分の気が休まらないので。
「ホテルだから気にしなくていいかもしれないけど、秋田って東京より寒いし袖のあるデザインが良いなあ」
「助かるピョン」
「助かる?」
うっかり口を滑らせた深津は彼女の言葉を受け流して一着のワンピースを指した。
「これとか、ひとみに合いそうピョン」
入店して初めて深津が選んだワンピース。彼女は興味と期待に胸を躍らせてその一着を手にした。マーメイドラインが美しい深い青色のドレスは二の腕を覆う袖や膝よりも長い丈が上品なものだった。腰の切り替えし位置から生地を覆うようにあしらわれた刺繍入りのシアーレースが華やかさを添えて、出かけてから一等の笑顔が彼女にあふれた。
「かわいい、それに綺麗……! センス良い!」
自分の体にワンピースをあててきらきらした笑みを振りまく彼女に、深津の瞳もやさしく和んだ。鏡で見てみるピョン、と促すと様子を見ていた店員が近寄り試着をすすめる。試着室に消えた彼女を見守りつつ、深津は自分の隣に寄り添うドレス姿の恋人を夢想してひっそり充足感に浸った。絶対に似合う、間違いなく。自信を持って深津は彼女を待った。
「お客様、いかがでしょうか?」
「はい、あとちょっとで……よし」
店員との軽いやり取りの後、カーテンの引かれた先に立つ彼女を見て深津は息を止めた。
濃い青から伸びる白い手足のコントラスト、くびれを強調するドレスのライン。深津の選んだドレスを着こなした彼女は、薄くはにかんで彼の反応を待っている。
「どうかな、似合う?」
「はあ」
「なんでため息?」
少しは深津に褒めてもらえるのではと舞い上がっていた彼女の表情が固まる。狭い試着室の真ん中に立ち尽くす彼女の元に無言で歩み寄る深津は開いたカーテンの前で立ち止まり、大きな体でドレス姿の彼女を周囲から隠した。行動の意図が読み取れない彼女は少し涙目になって深津を見上げる。
「一成くん」
「似合ってる、すごく」
「ほんとう?」
「本当ピョン」
正直、よすぎて誰にも見せたくない。
最高に魅力的な彼女を自慢したい欲と、こんなに綺麗な彼女の姿を誰にも見せたくないという独占欲が深津の中でせめぎ合う。ほんの少し眉尻を下げ困った風な表情を浮かべる深津は、こちらの心の荒れ模様に気づかずにいる彼女を渋い気持ちで見下ろした。
華奢な首筋に沿う髪を指ですくい肩の後ろに流してやれば、なだらかなデコルテが現れる。当日は長い髪をまとめ透き通る項にも光が当たる。恋人しか知り得ない彼女の秘された美しさをつまびらかにするドレスを選んだのは自身なのに、深津の心に更なるエゴが渦巻いた。
「これがいいピョン」
いつも自分の服装やファッションに口を出さない深津がすすめるものだから、彼女は嬉しそうにスカートを撫でた。
「急に楽しみになってきた」
「現金な奴ピョン」
「同窓会より、このワンピースを着て一成くんの隣に並ぶのが楽しみなの」
彼女にも大なり小なり、恋人を独り占めしたい気持ちがある。深津の選んだドレスを着て、自分は深津の彼女だと言えることは、ありふれた恋人たちと同じように甘美を感じるものだ。
「お洋服に負けないように頑張るからね」
幸せを振りまいて笑みをこぼす彼女の愛らしさに根負けし、深津は濁った吐息を飲み込んで自分も同じようにほほ笑んだ。
実家が秋田にある彼女にしてみれば同窓会への参加は里帰りにもあたる。就職してすぐは覚えること、学ぶことが山積みでろくに実家に帰れなかったが、最近は仕事のやり繰りを覚え盆や年末年始には出来るだけ親に顔を見せるように努めていた。
「山王の同窓会、秋田でやるんだけど参加するからそっちにも寄るね」
「あら珍しい、あなたが高校の集まりに出るなんて」
「たまにはね。なにか欲しいお土産ある?」
「そうねえ、お母さんあれ食べたいわ、シナモンロール。都会で流行ってるんでしょ?」
「シナモンロール? 良いけど、ああいうスイーツ食べられるの」
「失礼しちゃうわね、お母さんもたまには東京風を吹かせたいのよ」
「はいはい」
シナモンの効いた甘い焼き菓子を気に入るかはさておき、珍しいもの、流行りもの好きの母親の希望に添えるよう明日職場でリサーチしてみよう。少し前に吉祥寺に専門店がオープンしたはずだし、迷ったらそこで買えば良いか。
「じゃあ同窓会終わったらうちに泊まるのね」
「あー、えっと」
壁掛けカレンダーの前に立ち日取りを確認していた彼女は母親の問いに答えを詰まらせた。今まで帰省となれば泊まる選択肢は実家しかなかったが、それは一人の場合であって。
「今回は駅前のホテルに泊まる」
「もしかしてこの前電話くれたフカツくんと泊まるの?」
「えっ!」
動揺のあまり手が滑って危うく携帯電話を取り落としそうになる。
「なんで、え? どうして知ってるの?」
「なんとなく。亀の甲より年の劫かしらね、娘のことは分かっちゃうの」
過去にお付き合いしている人を紹介した事はあったものの、二十も半ばを過ぎて母親に恋人の存在を言い当てられるのは恥ずかしかった。それなりに良好な家族関係を築きつつ、恋愛沙汰を開けっ広げに話すのには抵抗があり口ごもる私に対して秋田の母親はカラカラした笑い声をたてて機嫌がよさそうなのも、ちょっとむっとする。
「あの電話の後にこっちローカルテレビに出てたわよ、フカツくん。山王出身の期待の新人とか言って海外で活躍してる子と一緒に東京で取材受けてたわ。記者の質問にもしっかり答えててお父さんの印象もバッチリはなまる、もちろんお母さんもフカツくんなら安心よ」
なにが? とはわざわざ聞かなかった。勝手に私と一成くんの仲を邪推しないでほしい。
深津と電話している時とは別の意味で熱くなる顔を手で仰ぎ彼女は口をとがらせた。
「あんまりからかうとお土産買わないから」
「あらやだ、じゃあこれでおしまい。二人とも気を付けておいでね」
言いたいことを言い尽くして母は電話を切った。ディスプレイに表示される実家の番号をむくれた顔で見る。一成くんといい母といい、私の周りの人間はどうしてこうも口の達者な人が多いのか。近い将来、言い負かされる腹いせに携帯を落としたり投げたりしてダメにしてしまうかも。
「ていうか、実家に一成くんも行くってこと?」
二人ともおいで、ってつまりはそういう事だよね。
彼女はうっかり失念していた事実に目を白黒させた。いつかは家族に会ってほしいと考えてはいたが、まさかこんな形で実現するとは思っていなかった。
「ちゃんと一成くんに言わないとダメだ」
二つ折りにした携帯を再び開いた彼女は緊張の面持ちで深津に電話をかけるのだった。
「もうすぐ秋田に着くピョン」
「う……ん……?」
大きな手に体を揺り動かされ彼女の瞼がゆっくり開いた。寝ぼけまなこを数度瞬かせ隣の座席の深津の方を向く。心ここに在らず。自分がどこにいて何をしているのか思い出せない彼女に手を伸ばし、深津はシートとの摩擦で軽い癖がついてしまった髪を指で整える。その心地よさから彼女は安心しきった表情で再び目を閉じようとするので、深津は指にからめた髪をゆるく引いて近づいた額に額を重ね合わせた。
突如ゼロにまで縮まった彼との距離に、彼女の眠気もゼロになる。
「おはよう……?」
「よく眠れたみたいで良かったピョン」
つぶやくだけで触れ合いそうな唇の近さにどぎまぎして彼女の目が潤んだ。意識の覚醒を見届けた深津は唇ではなく鼻先を軽くくっつけて、ふと笑ってから浮かせていた腰を元の位置に戻す。彼女の赤い耳の後ろにはなつかしい田園風景がどこまでも続いていた。
急遽舞い込んだ大口案件のせいで彼女の帰宅は日を追うごとに遅くなり、出発の前日まで自宅のドアノブを回すのは十一時を過ぎていた。日に日に濃くなる目の下の隈をコンシーラーで誤魔化し続け、事務所一丸となり奮闘した結果、期日までに全ての業務を完了し肩の荷が下りた状態で同窓会を迎える事が出来たのだった。
仕事熱心なのは良いがそれが元で体調を崩さないか彼女の身を案じていた深津は、新幹線の座席に着いてすぐ糸の切れた人形のよう眠る彼女にひとまず安心し、その寝顔を見守った。
秋田駅に降り立った二人はひんやりした空気を吸い込み、夏の到来を遠くに思う。東京に比べて肌寒い六月の秋田は二人をひどくなつかしい気持ちにさせた。彼女は正月以来、深津は前回の同窓会以来の秋田だった。灰色の雲が空を覆いこそすれ、天気予報の降水確率は二十パーセントに留まっている。傘を出さずに済んだ曇天に感謝し荷物の入った大きなボストンバッグを肩に掛け、深津と彼女は記憶とあまり変わらなく見える駅前を歩く。
「上着持ってきて正解だったピョン」
「そうだね。私の実家はここより山側だからもっと寒いよ」
「……ピョン」
東京の暖かさに慣れ切っていた深津は首をすくめた。彼女の家族に会う緊張を思い、せめて明日も雨は降るなと心の中で祈る。
宿泊予定のホテルは会場のホテルより駅から離れた場所にある。少しの距離を二人一緒に歩きながら、深津は在学中は当たり前に感じていた寒さに、長くこの地を離れていた時の流れを自覚した。
「ホテルにチェックインしたら少しお茶してあったまろうね」
ついと己を振り仰いだ彼女の頬に小さな笑窪を見つけ、寒さに負けないあたたかなものが彼の胸にあふれ出す。
彼女は気づいているだろうか。オレと彼女が二人並んで秋田を歩くのは今日がはじめてだという事を。あの頃は別々の方角を向いていた彼女と、やっと、同じ方角を向いている事を。時々、高校時代の夢の続きを見ている気がする事を。そんなバカげた考えが頭をよぎるぐらい、彼女を、彼女との日々を愛している事を。
「イギリスから取り寄せた美味しい茶葉で淹れる自慢の紅茶だって、楽しみ」
いつの間にカバンから取り出したホテルのパンフレットを暢気に読み上げる彼女が、深津の抱く底の見えない思いを知る時は、意外と早く訪れるのだった。
到着したホテルのカフェで飲んだ紅茶はセールスポイントの一つに謳うだけあり、確かに美味しかった。紅茶に興味のない深津も美味しさは分かったらしく、ティーポットはあっという間に空になった。それから二人は少しの談笑を経て部屋に戻り、それぞれの支度に取り掛かる。シワを作らないよう気を使って運んでいたガーメントバッグを開き彼女が手にするパーティードレスは、もちろん先のショッピングで深津が選び、彼女に贈ったマーメイドラインのワンピースだ。このドレスを着る為に紅茶に合うと話題のスコーンを我慢した彼女はそっと腕を袖に通した。
シアーレースと刺繍の華やかさを活かすためにアクセサリーは控えめで。代わりにメイクはいつもよりちょっと気合を入れてみる。ゆるく結んでいた髪は高い位置で結び直してお気に入りの髪飾りで留めた。背の高い彼の隣に並ぶのでヒールは高め。うん、悪くない。
「お待たせしました」
壁に掛かった鏡を見ながら青いラインストーンが光るカフスボタンを調節していた深津は声の方へ首を向けた。
深津の前にふんわりした足取りで現れた彼女は全身を披露すべく彼の前でひらりと回る。くるぶしの上に広がる裾が揺れると、魚の尾のようにひらめき、なまめかしい。
「変じゃない?」
「よく似合ってて、かえって困るピョン」
「なにそれ」
彼女がおかしそうに笑う。左右のつま先が彼女に向いた。若枝の腕がたくましい腕に巻き付く。灰と蒼、空のグラデーションのように溶けあう二人の視線が鏡越しに合わさった。
「一成くんが選んでくれたこのドレス、今日の一成くんにもとっても似合うね」
かたわらに寄り添いかわいいことを笑顔でのたまう彼女を右腕に抱いて、深津は甘い香りを肺いっぱいに満たした。
主導権を握っているつもりでいたが、再会の夜といい今といい、時おり覗く誘惑めいた瞳はいったいなんなんだ。いっそ腹立たしさすら覚え喉の奥が鳴った。鼻先に見えるうなじに噛みついてやりたい。
深津の物騒な気持ちも冷めやらぬうちに同窓会のスタート時刻が近づいてくる。会場で予想される男どもの軟派な目線をガードする意味も兼ねて、深津は彼女の隣に張り付くように歩きホテルへ向かった。広いエントランスホールを抜けて一階奥にある宴会場を目指すと、開け放たれた入り口前に目立つ坊主が立っていた。山王と坊主の組み合わせといえばバスケ部の方程式がおなじみの彼女は、反射的に深津の顔を見上げる。
「受付の人、お友だち?」
お友だち、という呼称がいやに幼く、また自分とはかけ離れたものに聞こえ、深津はふっと笑ってしまう。
深津よりラフな装いで受付に立っていたのは河田雅史だった。喜びと苦しみ。栄冠と挫折。最強山王の主将を入部当初から支え続けた男は、お友だちという呼び名ではお互い居心地が悪く、ただの部活仲間と呼ぶには近しい。深津にとってかけがえのない存在だ。当てはまる呼び名が見当たらないうちに相手が深津の存在に気がつき、丸太のような腕を上げた。
「よう、深津。元気だったか」
「ああ。河田こそまた大きくなったピョン」
「さすがにもう大きくはならねえよ。少し前に野辺が来たが、あいつは少し縮んだかもな」
広い肩をふるわせて快活に笑う河田の目が深津の隣に移った。あいさつのタイミングを逸していた彼女は気取らない二人の間に水を挟まぬよう会釈をする。同学年に在籍した女子生徒の顔を片っ端から思い出すまでもなく、河田は彼女が名乗る前に名前と深津との関係を見抜いた。
「久しぶり、藤原。こうやってまともに話すのは初めてだな」
河田とはクラスも科も違うため初対面の心づもりでいた彼女は面喰ってしまう。
「久しぶり、です。河田くんは私のこと覚えてるの?」
「女子は少ねえから顔と名前ぐらいは。あとはまあ、隣の奴に聞いてみろ」
なんでもないふりで二人の会話を聞いていた深津は知らぬ存ぜぬを貫こうとしている。このタイミングで聞いても答えてくれなさそうな雰囲気に、諦めて受付のペンを取った。
「漢字間違えてないか確認すっから、苗字と名前どっちも書いてくれ」
「分かった。このまま一成くんの名前も書いていいかな」
「ピョン」
先に来ていた同級生たちに倣って受付表に二人の名前を書き込む。
深津一成。
藤原ひとみ。
横に並んで綴られた名前はまるで五十音順に座っていた高校当時の座席表だ。美しい筆跡で記された自分の名前に今一度の感動が深津の胸に込み上げる。先ほどのやり取りもあの放課後の思い出をなぞるようでくすぐったい。彼女は憶えていないだろうけど。
会場には多くの同級生が集まっていた。壇上の脇に置かれたスタンドマイクの前には元生徒会長の姿があった。成人式ぶりに目にした姿はあまり変わらなく見える。原稿の書かれた白い紙を読み返しこれからの本番に備える様子などは、学生時代の演説前と瓜二つだ。
半ば当然のようにホール内に出来たひと塊は在籍していた学科ごとに分かれていた。そしてその九割以上が男性であり、彼女は改めて工業高校の男女比率の違いに圧倒される。ほぼほぼ男子校の同窓会と言って遜色ない。
無意識に後退る薄い肩を後ろから抱いて、深津は心配するなという顔でホールの中央に向かう。彼の導きに任せ、気まずさを振り払うよう背筋を正して一緒に前に進む。二人が歩く姿は会場にいる同級生たちの目をひいた。中には彼女の艶やかさにあてられ熱い視線を投げる男もいたが、一切を許さない深津の黒い瞳に射抜かれればそそくさと目を逸らした。
「深津、藤原!」
「松本くん!」
目立つ二人を呼び止めた男を見てすぐ、緊張していた彼女の空気がほころんだ。在学中唯一と呼んでいい男友だちだった松本稔も、嬉しそうに目を細めて大きく右手を振っていた。深津の手からするりと抜けて彼女は速足に松本に駆け寄る。控えろと言ったそばからこれだ。反省の兆しが見えない背を軽く睨んでみても気づいて苦笑を浮かべるのは松本だけだった。
大手ゼネコンに就職しバスケは趣味として続けている松本は筋肉質な体にスーツを着て会に参加していた。事前に近況を深津に聞いていた彼女は、いつか仕事上で彼に会うかもしれないと胸を躍らせる。名刺交換をしたいぐらいだった。
「久しぶり、松本くん。うわあ、すごい、髪長いね!」
「藤原も髪伸びたな。元気にしてたか?」
「なんとか元気って感じ、とにかく仕事が大変で……」
自身の再会とは一転して意気揚々と話し出す彼女が面白くない深津は、締まった腰をぐいっと引き寄せて声のボリュームを上げる。
「松本、久しぶりピョン。紹介が遅れたけどひとみはオレの恋人ピョン」
「えーと、はい……」
そうだろうとは思っていた周囲の人間は既に彼女が深津の手中にあることが確定し肩を落とす。しかし松本は一度大きく瞬きして、自分のことのように喜んだ。
「そうか、良かったな深津! 良かった、本当に良かった……!」
「なんで松本くんがそんなに喜ぶの? ちょっと、泣いてる⁈」
「年とったら涙もろくなってさあ。いやでもオレも嬉しいよ深津」
感慨にひたる男二人のノリについていけない彼女は目を丸くし、ひとまずカバンからハンカチを取り出して涙ぐむ松本に渡す。白いレースハンカチで目頭をおさえる松本がちょっと可笑しくて彼の背後にいた友人たちが笑う。
「おまえら笑ってるけどなあ、高校の時から見て来たオレはなあ」
「おまえはいっつも周りを気にしすぎで、良い人止まりで終わる松本稔クンだもんな」
「なんだっけそれ、前に松本をフッた女の最後の言葉?」
「前の前の彼女じゃねえか?」
赤裸々に暴露される恋人遍歴に松本の膝が折れた。まだ酒は入っていないはずなのにやかましく盛り上がる大の大人たち。何年経とうと変わらないシチュエーション。会場の時間が一気に十年前に巻き戻される。
賑やかにしていると後から来た少ない女性陣もその場に加わり、深津と彼女の周りには大きな人の円が出来上がっていた。
「ひとみちゃんと深津くん、付き合ってるの?」
「うちで同級生カップルなんて珍しいよね」
「きっかけってなに?」
三年間同じクラスだった仲の良い友人にそう聞かれ、唇が不格好な微笑みをつくる。一成くんと付き合うきっかけ。まさか俗に言うワンナイトなんて言えるハズが無い。馬鹿正直に話す必要はないから、ここは無難にやり過ごそう。
表情筋に力を入れて大人の落ち着きを表現しようとする横、かつてのバスケ部員たちに取り囲まれていた深津が彼女の代わりに答えた。
「十年越しの逆転シュートを決めたピョン」
バスケット選手らしい例えに女性陣がわっと沸いた。
よどみなく紡がれる一成くんの言葉に輪の中心で立ち尽くす。本当に十年前も私のことが好きだったんだって、他の誰よりも驚いてしまった。彼と高校時代の話をすることはあまりない。今現在の彼を知ること、私を知ってもらうことに夢中で学生の時分に立ち戻る暇がなかった。いつか聞いてみたいと思いつつ先延ばしになっていたものが偶然顕わになり、まばたきを忘れて一成くんを見上げる。目が合っても彼はなにも言わず、しんと穏やかで底を覗かせない湖面のような眼差しを私に注いでいた。
それから先も同窓会はすこぶる盛り上がった。壇上に立つ幹事たちは様々なお楽しみやサプライズを仕掛け、彼女は参加前に抱いていた杞憂を忘れるほど笑い、懐かしみ、楽しんだ。深津も時に手のひらで顔の半分を覆って笑いを堪えたり、目を丸くして驚いたり、表情豊かに同じ時間を楽しんだ。
会の終わりが近づく頃、バスケ部の恩師堂本が最後のサプライズとして登壇した。これにはさすがの深津も驚きを隠せず、河田や松本たちと一緒に「うおっ」と小さな歓声を上げる。今は山王工業高校を離れ別な学校のバスケ部を指導している堂本は、大人になった教え子たちの前に一本のビデオテープを掲げる。それは、彼らが山王で過ごした三年間を記録し編集したムービーだった。
「バスケ部の映像が多いのは容赦してくれ」
堂本の笑い声を合図に会場の明かりが落とされ、スクリーンに青白い光が投影される。
映像はまだ桜も蕾む四月の入学式からはじまった。記憶に残る校舎や教室、授業風景、学校行事が次々に流れる。それぞれの思い出が色濃い画面が映しだされると、会場のあちこちから感嘆の声が漏れた。映像関係の職に就いた卒業生が制作しただけあり、まるで一本のショートムービーのようだった。
彼女もまた、はじめて触れた製図板や放課後遅くまで居残りした実習室が流れる度に「なつかしいなあ」と呟かずにはいられなかった。二年生の学園祭、建築科総出で体育館に大きな段ボール迷路を作った時の写真が出てくる。翌年の学園祭は全学年の女子から有志を募って綿あめを売った写真が映った。小さい出店の前に長蛇の列を成す男子生徒たちに笑いがあふれる。
そしてビデオは山王の代名詞であるバスケ部の映像に切り替わった。バスケシューズが体育館の床を擦る音、リズムよくボールが弾む音、甲高いホイッスルの音。それらの音が雪崩れのように深津に押し寄せる。
「集合!」
凛とした呼び声がホールに響く。ごく自然に元バスケ部員たちの背が伸びた。
開いていたはずの瞼をさらに開いて深津は見た。大きなスクリーンに映し出される、ユニフォームを着た少年を。十代の自分を。
手持ちの言葉ではどうあっても表現出来ない感情が心中に去来する。切り取られた四角い枠の内側でオレは懸命にコートを走っていた。当時、どんな状況にも怯まず、動じないと周りに言われていた自分を客観的に眺めて口元をゆるませる。なんだ、全然顔に出ているじゃないか。ほら、特に三年のインターハイを見てみろ。集中力のない沢北に怒っているのがよく分かるし、ファウルをとられた時の顔なんてショックを受け止めるのに必死だ。そうそう、神奈川の湘北。とかく、強かった。爆発力もインパクトも。負けの経験なんて数えきれないほどあるのに、この敗北だけは頭と胸に焼き付いて消えそうにない。
高校生のオレにとってバスケットボールが人生の全てだった。今よりもがむしゃらにボールだけを追いかけていられた。もはや二度と戻らない、厳しく冷たく、それなのに目が眩むような日々。
「悔しかったな」
深津のささやきが冬のはじめに降る雪のようにしんと落ちる。
その隣で、彼女の目はスクリーン上の深津を見ていた。
教室の窓から外を眺めている後ろ姿。ユニフォームを着てコートを駆け巡る力強い雄姿。自分より大きな相手にも臆せずに挑んでいく広い肩。試合に負けた時の、心が漂白されたあとに残る、安堵のような表情。前のシーズンで見たプロバスケ選手の彼とは違う、高校生らしい試合中の様子。私の知っている一成くんも、知らない一成くんもいた。
十代の深津一成くんを眺めて思う。
ああ、よかった。この時の彼を好きにならなくて。
こんなにも真っすぐはりつめた人、きっとあの頃の私には眩しすぎたから。
二次会まで参加した二人は三次会は席を外し、すっかり日が落ちて人の往来も減った夜の通りを歩いた。ネオンきらびやかな東京の夜と違い人の気配がまばらな秋田の夜に深津はタクシーを呼ぼうと提案したが、歩いて帰りたい気分と言って彼女が断った。黒い空の真ん中で月が街灯に負けずに煌々と輝いている。冷え込みに備えていた上着を羽織った彼女はお酒を飲んで滑りの良い口を休みなく動かす。
「三年生の時にピニョンって言ってた一成くん見たかったあ。ねえ、今言って」
「断るピョン」
「ピョンは言うのに、ピニョンは言わないの?」
「あれは一時の心の迷いピョン」
「ピョンとピニョン、そんなに違うピニョン?」
赤い頬で意趣返しをする彼女は単にかわいいだけだった。ピニョン、ピニョンとあやふやなメロディで歌う彼女がふらふら離れないように深津の右手はしっかりその左手を握っている。お願いだから自分以外の男の前でそんな風になってくれるなよ。そんな彼の心配を余所に彼女はまた話し始める。
「高校でバスケしてる一成くんのことはじめて見た」
「どうだったピョン」
「すごいかっこよくて、少しこわかった」
怖い。そう素直に答えた彼女を見下ろす。彼女はほうっと息を吐いて前を向いた。
「痛いぐらい真剣な人ってこわいよ。でも、そんなの当たり前だよね。バスケって戦う相手がいて勝敗がつくスポーツだから、みんな必死だもん」
カツン、カツン。高いヒールの音が鳴る。狭い歩幅で進む彼女と一緒に深津の一歩も小さくなる。ほつれた彼女のおくれ毛が揺れた。
大人になって見える世界の広さを今日ほど感じた日はない。もちろん、あの頃は見えていたのに、見方が分からなくなってそのまま見失ってしまったものだってある。けれども、核心をはぐらかす言動に翻弄され、奥深くから引き出される恋しさ、求めた分以上に返される愛情。ただ一つに身も心も捧げるひたむきさに、私も恥じない自分でありたいと奮い立つ強さ。彼女が今の深津に感じているそういうものは、積み重ねた時間や経験、それらに削られ磨かれた心の感性がなければ感じ取ることの出来なかった感情だった。
「一成くんと大人になってから再会できてよかった。あの頃の私じゃきっと、一成くんのすてきなところ、分からなかった」
思いをそのまま口に出す彼女の声を聞いていると、深津の喉がきつくしまる。
それを言うならオレだって大人になってから彼女に再会できてよかった。バスケに精いっぱいだったあの頑なさを少しずつ手放して、ようやく彼女の手をとるだけの余裕が生まれた。彼女に再会し名前を呼ばれた時、動揺を押し隠し名前を呼び返したのだ。少しでも彼女の記憶にある自分に寄せようと懐かしい語尾まで持ち出して、一夜で終わらせたくなくて、あらゆる手を打って。きみを繋ぎとめようと、オレは大人になった今でも痛いぐらい真剣に、そして、必死だよ。
彼女の言葉になにかを返そうとして深津は薄く唇を開くが、涙がひとりでにわいてきそうになってやめた。ただ、自分も同じ気持ちだと思いを込め指を絡めて手を握り直す。
そこからはお互いに心地よい無言のままホテルに帰りつき、エントランスを抜けて部屋に入った。人と人とがひしめき合う空間から解放された二人きりの部屋はひどく落ち着き、忘れていた疲労感を呼び戻す。
「楽しかったけど疲れたね」
「参加を渋ってたのが嘘みたいにはしゃいでたピョン」
「もう許してよお」
椅子に座った彼女は深津のちくちくした返事に苦笑まじりに答えた。ドレスに着られないよう張っていた緊張を解くと、立ちっぱなしが続いた足のむくみを感じてくたりと背もたれに体を倒した。ひとしきり飲んで食べて話して笑って、あとは寝るだけ。そんな気分になってくる。ベッドボードにはめ込まれたデジタル時計は日を跨ぐ少し前を示していた。
昨日のこの時間はやっとの思いで仕事を終えて、旅支度をして、ろくに眠れなかったっけ。
山王の同窓会という一大イベントを達成した反動で彼女の体中から仕事の疲れまでもが出てきてしまった。うつらうつらする彼女をそのまま放って、深津はきびきびした動きでジャケットを脱いでハンガーに掛ける。
「脱がないとシワになるピョン」
「うん」
返事だけが立派で椅子にもたれたまま無精な恰好でいる彼女を窘める事はせず、深津はその足元にしゃがみ込み左手で脚を支え高いヒールを脱がしてやる。靴は左右の踵を揃えて壁際に寄せ、次は背に腕を差し込んでドレスのファスナーを下ろした。彼女は深津にされるがまま、歩いていた時の饒舌さを忘れて瞳も唇も閉ざしている。よほど疲れたのだろう。深津はたっぷりした袖から細い腕をやさしく引き抜き、薄いインナーと下着だけの姿になった彼女を抱き起こす。
「ひとみ、シャワーは?」
「あびたい」
「ん」
椅子に青い抜け殻を残し、仕事疲れとアルコールが重なった時にだけ見られる甘えたな彼女を横抱きにして、深津はバスルームに向かった。そうっと床に下ろされた彼女はのろのろインナーの肩ひもに指を掛ける。まるい曲線を薄い布がすべり落ちる様を眺めていた深津へ、はたと眠たげな声が投げられた。
「大人になったわたしを見て、一成くんはがっかりしなかったの?」
「するわけないピョン」
否定を口にするすばやさに、はからずも男の恋人への思いの深さが見え隠れした。
あの頃にはあの頃の、今には今の彼女の素晴らしさがあるし、変わらない文字の美しさも、洗練された仕草の艶やかさも、全部が深津の心をつかんではなさない。彼女が側にいる時間は空白の十年間を悔やむ間もないのだ、落胆なんて絶対にありえない。
彼女はそれ以上を求めずに下着を全て脱ぎ去る。深津の手を掴みバスルームに引き込んだ目じりはどこまでもやわらかかった。
一つの浴槽に大きな体と小さな体をひたす間、深津は背後からずっと彼女の体を抱きかかえていた。その手にやましい気配はない。自分の胸元にゆだねられた頭を撫でる手のひらには、元をたどれば自分のわがままに付き合ってくれた彼女を労わる優しさがにじんでいた。自ら望んで、風呂上りのスキンケア以外すべての世話をしてやる。体を拭いてお揃いの寝間着を着せてベッドの縁に座らせた。
シーズン中は全国を飛び回りろくに顔を合わせる事も出来ない。その埋め合わせには成り得ないが彼女の体にありったけの愛情をもって触れる。「一成くんに触れられると大切にされているみたい」と言われたからにはみたいじゃなくて真実、大切にしているのだと分かってもらうために濡れた長い髪はまずタオルで水分を吸って、自前のヘアオイルで整えてからドライヤーで乾かした。
背をこちらに向けて座るまるく形の良い後頭部の輪郭をなぞり長い髪に櫛を通して梳く。毛先まで手入れの行き届いたなめらかな手ざわりは、何度触れてもうっとりするほど美しい。
彼女と再会するまで深津にも数人の恋人がいたが、彼女の髪は特別美しいように思えた。
前に絹のように細くしなやかな髪質を褒めたら、頬を染めて喜んだ彼女の顔がよみがえり、深津の頬がゆるむ。髪のケアが趣味らしく、彼女の暮らすアパートの一角には世界各地の建築写真が収められたアルバムの隣、男の自分にはよく分からないアイロンやヘアオイルやらが占拠するスペースがあった。このヘアオイルはそのうちの一つである。
今日彼女が着けていた髪留めは、実は付き合いはじめてすぐ深津が贈ったものだった。使うのがもったいないと飾ってばかりいたそれが、ここぞとばかりに結われた髪の上で光るのを見て喜んだのは、照れ臭いので言わないでいた。
うなじ近くの髪を深津が指先ですくいとると、目下にある彼女の肩がふるりと揺れる。自分の手指の動きにあっけなく翻弄されてしまうところが可愛かった。
「くすぐったいピョン?」
「ちょっとだけ」
「ピョン」
糊の利いた真っ白いシーツに横になる頃には彼女の両方の瞼は半分以上落ちていた。深津は隣に寝そべりふるえるまつ毛を黙って見守っている。明日は午前中に彼女の実家に寄って夕方の新幹線で東京に帰る予定だ。早く眠るに越したことはない。
「明日も早いからもう寝るピョン」
襲い来る睡魔に抗って首をひねり深津を見た彼女は夢見る表情で唇を動かした。
「さっき、思い出したんだけどね」
たどたどしい小さな声に耳をすませる。一言一句を聞き逃さないように。
「受付で名前を書いた時、あれ……前もこんな風にふたりの名前を書いた気がするって」
「うん」
「同い年なのに深いところまで見透かしてそうな目をしてて、バスケっていうスポーツに一途で、なんでも成し遂げられそうな男の子。深津一成くん。名前、すごい、きれいだなって」
「うん」
「あの放課後ね、深津くんの名前を書くの、緊張したんだよ」
おぼえてた? 無邪気な声を深津の心の奥に響かせて、彼女の意識が眠りに落ちる。深津はシーツを肩まで引っ張り上げ、肌触りの良い世界の中で彼女を抱き寄せた。帰り道にわき出たものが喉の奥から再びせり上がる。燃えるような熱さを今度は堪えなかった。
「おぼえてるにきまってるピョン」
あの日、あの放課後、あの夕焼け。みんな憶えている。オレの名前を書いてくれたこと、スタメンに選ばれたと喜んでくれたこと、無理をしないでと心配までしてくれたこと。はじめて二人きりで話した、ひとみとの一番はじめの思い出だ。
「オレの方が緊張してたし、忘れたことなんてないって言ったら、ひとみは驚くかな」
ひとみの実家には電車とバスを乗り継いで向かう。道中どこから話そう。彼女のどこに興味をもったのか、いつから好きだったのか。会を抜ける時に松本にこっそり渡されたインスタントカメラには、ひとみとオレの学生時代唯一のツーショットの写真があって、それは彼女が学園祭で綿あめの売り子をしていた時のものだとか。
長い道のりが一瞬に感じるほど、深津にはまだ彼女に話していないことがたくさんある。
「おやすみ」
明日の話しの最中に眠ってしまわないよう深津もまぶたを閉じる。
目じりから雨だれのような涙がひとしずく落ちた。
※1990年代にインターハイが開催された設定で書いています。多々捏造がありますのでご了承ください。
※名前変換はありません。主人公にデフォルト名があります。
試合開始、記念上映、おめでとうございます。THE FIRSTのおかげでいろいろな方と出会い、同人イベントにも参加できました。