哲学の道には、また皇族の陵墓も多く残る。 |
この下には、その昔、栗塚旭(昭和40年代のテレビ時代劇の俳優。土方歳三は当り役)さんの「若王子」という喫茶店があった。 |
昭子内親王の陵墓である。昭子内親王は江戸時代初期の寛永2年(1625)に、後水尾天皇の第3皇女として生まれる。 |
母は、徳川秀忠と浅井長政の三女・お江与との間に生まれ、後に後水尾天皇の皇后になった和子(東福門院)である。関白近衛家に降嫁するが、27才の若さで亡くなっている。 |
その横には「光雲寺」がある。鹿ケ谷通に「後水尾天皇勅願所・光雲寺」の石碑があり、そこから参道がここに繋がっている。 |
光雲寺は、後水尾天皇と東福門院の勅願により再興された寺で、東福門院ゆかりの品などが納められている。通常は非公開の寺院である。 |
光雲寺から疎水の東側に、宗諄女王の陵墓がある。 |
宗諄女王は江戸後期から明治にかけての皇女で、伏見宮貞敬親王の10番目の王女で、得度し霊鑑寺でn尼となり、法名を宗諄、号を法山と称した。明治24年(1891)76才で没している。 |
宗諄女王のお墓の南に小さな石碑が建っていた。近づいてみると、石碑には「故巡査部長村田睦穂殉職之地」と刻まれていた。 |
その謂れを調べてみたが、なかなか検索には引っ掛ってこない。同じような人がいたようで、ブログにこんな書き込みがあった。 |
『気になったので、ネットでで調べてみたが検索には一切出てこず、いろいろ検索キーを変えたが、ヒットする情報はなかった。どういう事情があったんだろう。』 |
何回かキーワードを変えてみると、どうやら昭和41年(1966)8月30日、哲学の道で夜間パトロール中の警官が拳銃を奪われ射殺されるという事件がこの場所であったことが判った。 |
ところが、この事件については、その捜査段階で、固定観念に基づいてある特定地域の青年男子全員のアリバイが、重点的に調べられたという。 |
事件そのものは、犯人が捕まらないままに時効を迎え、その真実は闇に閉ざされたままで、この石碑がどんな経緯で建てられたのか、石碑には何も書かれておらず半世紀の時が過ぎようとしている。 |
そこから道は少し左に曲がり、大豊橋へと向かって行く。 |
「後水尾天皇・東福門院勅願所」の石碑が建つ、階段を下りると、光雲寺の正面に出ることが出来る。 |
道はS字にカーブをして |
初夏の5~6月頃には、この辺りでゲンジボタルが見られるという。疎水が奇麗な流れを保っている証拠である。ここまでくると大豊橋はもう直ぐである。 |
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