7 「婚活のイゾルテ 前編」
はるか昔。
まだ水神流という流派が無かった頃。
とある国が海竜王の存在に脅かされていた。
彼らは海竜王の縄張りで漁をしたことで、その機嫌をそこねたのだ。
その結果、毎日のように漁船が襲われ、港町にも海竜が出没するようになった。
騎士団がそれに対抗したものの、巨大な身体を持ち、海中を自在に動きまわる海竜は強く、国は急速に疲弊していった。
王国の存亡の危機である。
この事態を重く見た国王は、海竜王を討伐した者には、娘を娶らせ、王位を譲ると宣言した。
それを受けて、数々の騎士が、勇者が、英雄が、海竜王に挑み、そして破れた。
そこに現れたのが、一本の古ぼけた剣を腰に下げ、ボロをまとった一人の男だ。
最近の脚色では、水も滴る色男であったと言われているが、実際の伝承では決して美男子ではなく、顔は垢で黒ずみ、浮浪者のようであったと言われている。
彼はレイダルと名乗った。
レイダルは国王の前に進み出て、言った。
私が倒しても大丈夫か、と。
王は当然ながら頷いた。
半ば諦めかけていたともいえるし、こんな小汚い男にどうにか出来るはずもないと思っていたのだ。
だが、レイダルは強かった。
海一面を凍らせ、海竜たちの動きを止めると、またたく間に海竜王に迫った。
氷を砕き、のた打ち回りながらレイダルへと襲いかかる海竜王。
レイダルは、古ぼけた剣で海竜王の必殺の一撃を受け流すと、カウンターでその首をたたき落としたのだ。
海竜王の首を持って帰ったレイダル。
彼は英雄として国に迎えられる……はずだった。
国王は一生遊んでくらせるだけの財宝をレイダルに渡した。
が、それだけだった。
直前になり、この小汚い男に王位と娘をやることを、よしとしなかったのだ。
レイダルは怒りはしなかった。
だが、深い悲しみに沈んだ。
彼は、王女が好きだったのだ。
いつも遠目に見る王女のことを、愛していたのだ。
王女と婚姻することが叶わぬのであれば、自分はこの国から去ろう、と考えた。
あるいは彼が本気になれば、力尽くで王となることも可能だったろうに。
しかし、レイダルの代わりに、怒りをあらわにした者がいた。
王女である。
王女は王を叱責し、叩き、蹴り飛ばし、城を飛び出した。
そして、国を去ろうとするレイダルに追いつき、その膝に縋り付いて、言った。
「私は国を捨てました。
すでに王女ではなく、苗字はありません。
私を手に入れても、国は手に入らず、あなたも王にはなれないでしょう。
それでも良いのであれば、どうか私を娶ってください」
レイダルはにこやかに王女を抱き上げて、国を後にした。
二人は夫婦となり、いずこかへと消えていった。
数十年後。
世界のどこかで水神流という流派が生まれたという。
その逸話に倣い『水神の伴侶は家を捨てる』という掟も生まれた。
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イゾルテ・クルーエル。
アスラ王国における水神流の責任者であり、アスラ王国騎士団の剣術指南役の一人。
現在は水帝であるが、先日水神流の五つの奥義のうち三つ目を習得し、
数ヶ月後には水神襲名の儀式を行い、水神となる人物だ。
年齢不詳。
見た目は二十代である。
青みがかった美しい黒髪に、凛とした顔立ち。
誰がどう見ても美人と映るだろう。
が、一部の噂によると、若作りの成果であるとも言われている。
アスラ王国において、彼女の年齢を知る者は、アリエル王女ただ一人である。
さて、そんな彼女は、現在絶賛婚活中である。
水神となったことで長い長い修業の日々は終わった。
これからも鍛えてはいくだろうが、節目ではあるし、そろそろ真面目に結婚相手を……という所である。
が、そんな彼女の婚活は難航していた。
もちろん、相手がいないわけではない。
なにせ、もうすぐ水神になる人物だ。
声を掛ける者は数多くいる。
例えば、同じ水神流の剣士たち。
イゾルテの美しい容姿に惹かれ、真摯に修練を積む彼女に心を打たれる男は少なくない。
とは言え、彼らも剣士である。
剣で身を立てようと思っている者達である。
自分より強い女を妻に迎え入れようとする度量を持つ者は少ない。
イゾルテとしても、剣士であるなら自分と同等か、せめて王級の腕を持つ者が良いと選り好みしていた。
例えば、アスラ王国の貴族。
元々、水神流の女剣士というのはアスラ王国ではモテるのだ。
受け身な水神流の女剣士は剣神流と違って自己主張が激しすぎず、物腰柔らかでお淑やかだ。
イゾルテともなれば、アスラ王国の宮廷作法などにも通じている。
若く綺麗で、性格もよく、男を立ててくれる。
その上、腕も立つ女剣士。
そんな人物を妻にして昼は脇に侍らせ、夜はベッドで乱れさせたい。
そう思うアスラ王国の貴族は多い。
無論、そうした変態的な趣味が目当てで、下卑た笑いをしながら近づいてくる相手はイゾルテとしてはお断りだ。
だが、時には「この人でもいいかな」と思えるような人物に出会うことはある。
顔がよく、性格がよく、家柄も良い。
ついでに剣術もそこそこ。
そんなイケメンが変態趣味をうまく隠し、キラリと白い歯を見せながら近づいてくるのだ。
王子様だ。
そんな相手には、イゾルテはあっさりと転ぶ。
周囲に「あいつは裏でクズいことやってるからやめときなよ」と言われても転ぶ。
王子様方の顔と愛想がいいからだ。
外面がよければ、イゾルテはあっさりと転ぶのだ。
まあこの人でもいいかな、と。
だが、そんな王子様も、イゾルテが一つの条件を出すと、あっさりと結婚の申し出を断ってしまう。
「私はいずれ水神になり、水神レイダ・リィアを名乗ることになります。
私と結婚するとなれば、家を捨てなければなりません。
水神の伴侶は、苗字を持ってはならないのです」
水神の慣習である。
これを守らなかった所で損はなく、守った所で得もないだろう。
ただ代々の水神が守り続けてきた慣習である。
先代の水神レイダであるイゾルテの祖母も守った。
イゾルテの父も苗字を持たない。
クルーエルは母方の苗字である。
ゆえに、祖母を尊敬するイゾルテもまた、それを守るつもりであった。
だが、残念なことに、イゾルテがコロっと騙された王子様も、貴族である。
貴族として生まれ、貴族として生きてきた。
彼らは容姿と家柄で生きてきたのだ。
いくらイゾルテに惹かれても、家を捨ててまで婚姻したいと思う人物は皆無であった。
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イゾルテは悩んでいた。
婚活を始めて数年。
そこそこ良い所まで行くが、最後の段階でつまずく。
このままでは水神襲名までに結婚できないのではないか……と。
自信はあった。
身だしなみも整えられる、料理だって得意だし、化粧だってお手の物だ。
肌や髪の手入れだって、一日たりとも欠かしたことはない。
会話術だって得意なつもりだ。
水神流の訓練には、話術も含まれている。
相手を挑発し、先手を取らせるための話術だ。
それを応用すれば、相手をおだて、良い気分にさせることも簡単である。
努力をしているのだ、これでも。
なのに、結婚できない。
あのエリスや、ニナですらできたのに、自分は出来ない。
そりゃあ、彼女らには幼馴染がいた。
結婚に際しての掟もない。
でも、その部分は自分の魅力でカバーできるとイゾルテは考えていたのだ。
選り好みしている自覚はある。
が、それでも自分の理想の相手はいずれ見つかるはずだと思っていた。
だって、努力しているんだから。
「これで何人目ですか?」
「………………21人目です」
でも21人に振られた。
彼女の方から振った相手を含めれば、もっといるだろう。
「そうですか」
現在、イゾルテは自宅のリビングにて、己の兄と向き合っていた。
道場に隣接する自宅である。
イゾルテの兄タントリス・クルーエルは水神流の上級剣士である。
彼はクルーエル家の長兄であるが、妹に比べ特別な才能があったわけではない。
血のにじむような努力はしたが、結局は上級止まりの才能しか持ちあわせていなかった。
だが、正直な男である。
祖母であるレイダが「聖級でもあげようかね」とこぼした所、「身の丈に合わぬ肩書は必要ありません」と蹴るほどに。
そんな彼は、レイダが存命の頃より、道場の経営を任されていた。
そして、イゾルテの今後についても。
「高望みしすぎではないのですか?」
「いえ、そんなことは……」
「君には才能があり、立場もある、相応の相手を選ぶ権利はありますが、選びすぎて候補がいなくなるのでは、意味がありませんよ」
「わかっています」
イゾルテは、昔からこの兄に頭が上がらなかった。
二人は、早くに両親を亡くしている。
幸いにして水神である祖母がいたから生活には困らなかったが、祖母は忙しく、二人の面倒を見る余裕はほとんどなかった。
そんな時、イゾルテの親代わりになったのがタントリスだった。
彼は親なし子となったイゾルテを支え、育ててくれた。
剣術の道場など、実力の世界である。
才能あるイゾルテは、10歳になる前に兄を抜いてしまった。
だが、それでも兄に頭が上がらないのは、そうした背景があるからだ。
「クルーエル家のメンツを考える必要はありません。
水神として生きていくのであれば、この先、過酷な運命が待ち受けているでしょう。
容姿や家柄ではなく、あなたが心を許せる相手を見つけなさい」
「……」
タントリスはすでに結婚し、子供もいる。
もちろん、イゾルテも会い、話をしたことはある。
だが、その相手をあまり好ましいとは思っていなかった。
アスラ王国貴族の令嬢だ。
ある貴族が、水神レイダとの縁をつなぐためだけに行った結婚だった。
彼女は明らかにタントリスのことを見下しており、剣術への理解もない。
道場に顔を出したことなど、一度もなかった。
子供こそできたものの、タントリスとはほとんど別居状態だ。
こんな相手とは結婚したくない。
そう思えばこそ、イゾルテは相手選びには慎重だった。
……まあ、顔や態度であっさり流される程度の慎重さではあったが。
それでも、剣術で中級以上という条件はつけていたのだ。
家柄にはこだわっているつもりはない。
が、剣術指南役となり、アリエルの護衛をする機会が増えた結果、会話する機会があるのも、そういう相手ばかりになったのだ。
別に、貧乏貴族や、平民、なんだったら冒険者とかでもいいのだ。
それを補ってあまりある何かがあれば。
「選り好んでいるつもりは、ありません」
「では、私の見繕ってきた相手でもいいではないですか」
「いえ、自分の相手ぐらいは、自分で探します」
そして、意固地で頑固だった。
無論、タントリスの薦めてくる相手が、ブ男ばかりというのもあったが……。
選り好みはしないと言いつつも、絶対に自分の条件は譲らない。
結婚など出来るはずもない。
「そうですか……」
タントリスとしても、それを咎めるつもりはない。
水神に連れ添いがいなかったことなど、これが初めてではないのだ。
クルーエルの血筋を残すことは、自分がやっている。
ただ、妹が無事に幸せになるのを見届けたいという思いはあり、
そして妹が結婚に幸せを求めている以上、それを応援したいという気持ちはあった。
とはいえ、妹が助力を求めていないというのなら、タントリスも何かをする気はなかった。
彼は才能はなかったが、それでも水神流剣術を学ぶ武人であるから。
「そういえばイゾルテ、今日は陛下に呼ばれていたのでは?」
「……はい」
「時間は大丈夫なのですか?」
「まだ時間はあります」
「万が一にも、陛下をおまたせするわけにはいきません。今日の話はここまでにしておきましょう。行って来なさい」
「はい、兄上。行ってまいります」
イゾルテはそう言って一礼すると、自室へと戻っていった。
これから身支度を整えて王城へと出発するのだろう。
彼女を見送った後、タントリスはため息をついた。
「ふぅ……」
このままだと水神襲名までの結婚は無理だろうな。
と思いつつ、タントリスは若手に稽古をつけるべく、道場の方へと向かうのだった。
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イゾルテはアスラ王城シルバーパレスを歩く。
盾を持つ戦乙女の紋章が描かれた白銀の
青と白の上着をはためかせ、ブーツをコツコツと鳴らして歩く。
王城を歩く彼女を見て、見回りの兵士が直立不動となり、槍を立てた。
彼らの目には、憧憬の色があった。
アスラ王城に水帝イゾルテの名を知らぬ者はいない。
そして、その凛とした姿に憧れを持つ兵士も多いのだ。
ちなみに、彼女の脳内に「行き遅れは嫌だ」とか「いい男がどこかに転がっていないか」といった考えが巡っていることを知るものは少ない。
「これはイゾルテ殿、いずこへ?」
そんな彼女の前に立ちふさがったのは、一人の男だった。
ヒョロリと細く、背も低く、頭髪も薄く、全体的に気弱そうな男だ。
年齢は四十少々といった所だろうか。
人族であるが、あるいはルーデウスが見たら「窓際族かもしれない」と考えたかもしれない。
どう見ても騎士や剣士には見えないが、彼はイゾルテによく似た白銀の胸鎧を身につけていた。
ただし、その鎧の意匠は、イゾルテのものとは違った。
城壁冠を被った、祈る乙女の紋章である。
「これは、イフリート卿。ご機嫌麗しゅう」
「ああ、良い良い。我々は同格なのだ、膝はつかずともよい」
シルヴェストル・イフリート。
アスラ七騎士の一人『王の城壁』。
顔に似合わぬその名を持つ彼こそが、アスラ王城シルバーパレスの警備の最高責任者である。
イゾルテもまた一介の騎士である。
騎士は下級ではあるが貴族に相当する。
だが、シルヴェストルの立場は城内の騎士・兵士の最上位に位置し、なおかつ中級貴族でもある。
通常ならば、イゾルテは廊下の端により、彼が歩み去るまで膝をついて頭を下げ続けなければいけない立場だ。
「しかし」
「我らは女王陛下の騎士」
唐突な鋭い言葉に、イゾルテは背筋をピッと伸ばした。
「それでよい。我らは国のためではなく、陛下のために働くのだ。膝をつくべきは、女王陛下ただ一人」
シルヴェストルから立ち上る凄味に、イゾルテはこくりと頷いた。
シルヴェストルは小兵である。
病気がちで、体は強くない。
剣も決して上手ではない。
魔術も決して上手ではない。
であるにもかかわらず、王国の騎士学校を次席で卒業した男である。
彼は人を育て、使うことに精通していた。
適材適所という言葉の意味を本当に理解している男だった。
そのたったひとつの才能のために、アリエルがアスラ王国の田舎の片隅でくすぶっていた彼を本国へと呼び戻し、自分の騎士としたのだ。
「時にイゾルテ殿はいずこへ?」
「陛下に呼ばれています」
「おお、それは、ならばこのような場所で私のような者に呼び止められている暇はありますまい」
「何か、用があったのでは?」
「なに、大した用があったわけではありません。
せがれがイゾルテ殿を紹介してほしいと言うので、
バカ息子のワガママで申し訳ありませんが、もし時間の許すときがあれば会ってほしいと、一言伝えたかっただけで」
それはイゾルテにとって食いつきたい話であった。
そのバカ息子のせがれとやらについて詳しく聞きたい所であった。
だが、今は何を隠そう、主君に呼び出されているのである。
「わかりました。では、そのお話はまたお暇な時にでもじっくりと」
ただキリッとした顔でそう言うに止め、イゾルテは先を急いだ。
王城の奥へと進む度に、人の姿が少なくなる。
簡易的な鎧を身につけた兵士が少なくなり、高価な鎧を身につけた騎士が多くなる。
下級貴族に相当する騎士たちであるが、彼らもまたアリエルに忠誠を誓った騎士である。
裏切る可能性が極めて低い騎士である。
そして、最奥を奥へとのぼると、さらに人影が少なくなる。
もはや兵士や騎士すらいなくなり、無人の廊下が続く。
時折、やけに物腰の鋭いメイド――近衛侍女とすれ違うが、それだけだ。
その近衛侍女もまた、アリエルの息の掛かったものである。
裏切る可能性は、騎士たちより更に低い。
そして、アリエルのいる『王の間』。
その豪華な扉の前には、一人の男が立っている。
黄金の鎧に身を包み、巨大な戦斧を持った一人の巨漢が立っている。
アスラ王国最強の門番が立っている。
彼がアリエルを裏切る可能性は、皆無である。
アスラ王国黄金騎士団にして、アスラ七騎士の一人。
『王の門番』ドーガ。
彼のバケツのような形をした黄金の兜には、門の前に立つ戦乙女の紋章が描かれている。
「イゾルテ・クルーエル。ただいま参上しました」
「……うす」
ドーガはイゾルテの名乗りを受けて、のそりと動いた。
鈍重な動きにも見える。
だが、イゾルテはその動きに隙がないことを見切っていた。
いざとなれば、このドーガが凄まじい速度で戦斧を振るうことを知っていた。
そして、おそらくドーガが本気になれば、自分はこの男を突破して後ろの扉の奥に到達することが出来ない事も察していた。
「……ん?」
そんなドーガが、イゾルテへと手を伸ばした。
イゾルテはそれを見て、眉をぴくりと動かした。
ドーガは素朴な顔をしている。
野卑ではないが、イゾルテの好みではない。
好みでない相手に体を触らせることには、少々の嫌悪感を伴った。
「身体検査ですか? どうぞ」
だが、国王の部屋である。
当然だ、いかに騎士であっても、王の私室に武器を持ち込むことなど、許されるものではない。
ドーガは、王の部屋に絶対に武器を持ち込ませないことで知られていた。
例え、アスラ王国の大臣であれども、ドーガの手によって入念な身体検査が行われ、小さな木匙一つでも、持ち込ませない。
身体検査も当然のことである。
あるいは、胸なども触られるかもしれない、と思いつつも、イゾルテは我慢することにした。
「うす」
しかし、ドーガはイゾルテの体には触らなかった。
彼が手を伸ばした先にあったのは、髪だ。
髪へと手を伸ばし、何かを摘んだのだ。
「……?」
ドーガの指には、そこには一片の花弁がつままれていた。
「ついてた」
「?」
「イゾルテ、綺麗だから、こういうの、付けてちゃいけない」
兜の奥でドーガの顔がにこやかに笑っていた。
イゾルテはきょとんとしながら、体のこわばりを解いた。
「あ、武器を」
そして、ハッと思いながら剣帯から剣を外し、ドーガへと差し出した。
だが、ドーガはそれすらも受け取らなかった。
「イゾルテは、アリエル様の騎士。アリエル様を守るのに、武器は必要」
「……」
身体検査もされない。
武器も取り上げられない。
自分は、アリエルの騎士として、この男に信用されているのだ。
アスラ王国で五本の指に入るであろう実力を持つ、この男に。
そう思い至り、なぜか、少しだけ胸の鼓動が上がった。
(いや、あの顔はない……)
首をブンブンと振りつつ、深呼吸。
「イゾルテ・クルーエル。入ります」
「どうぞ、入りなさい」
アリエルの返事を待って、部屋の中へと入った。
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アスラ七騎士。
それは『王の懐刀』ルーク・ノトス・グレイラットを筆頭に、
アリエルに絶対の忠誠を誓う七人の騎士のことである。
騎士の中でも特殊な立場を与えられ、ある程度は独自に動くことを許されている。
イゾルテもその一人である。
アスラ七騎士の一人『王の大盾』。
いざというときに王を守る、水神流剣士にふさわしい呼び名である。
イゾルテ、シルヴェストル、ドーガ。
人はこの三人を『左翼の三騎士』と呼ぶ。
アスラ七騎士のうち、主にアリエルの警護を担当する三騎士である。
だが、イゾルテはそれに違和感を感じていた。
アスラ七騎士とは、アリエルに絶対の忠誠を誓った七人の騎士のことを指す。
少なくとも、そう言われている。
というのも、イゾルテはその七人が集まった経緯について詳しく知らないからだ。
アリエルに忠誠を尽くしているとはいうが、そのほとんどはアスラ王国とは関係ない、外部から集められた人員だからだ。
恐らく、それぞれアリエルを絶対に裏切らない理由があるのだろうとは想像できるが……。
だが、イゾルテは違う。
イゾルテは、自分が裏切る可能性があると知っていた。
それは、先代水神のことだ。
イゾルテの祖母が死んだ時のことがあるからだ。
先代水神レイダは死んだ。
アリエルが王位を取ろうとする戦いの中で、アリエルに味方する龍神オルステッドの手によって殺害された。
無論、戦いの中での出来事である。
イゾルテも剣士であり、戦いが終わった以上、不必要な感情を引きずるつもりはない。
それに、イゾルテは祖母より水神流のことを託されている。
アリエルに逆らえば、水神流はアスラ王国より追放されかねない。
ゆえに、アリエルを裏切り、たてつこうなどと考えたことはない。
イゾルテはそう割り切っていたのだ。
だが、彼女がどれだけ割り切り、口でもう逆らわないと言った所で、真偽は誰にも分からない。
心の奥底は誰にも見えない。
実は、祖母を殺されたことを恨みに思っており、虎視眈々とアリエルの命を狙っている可能性もある。
あるいはアリエルではなく、実行犯である龍神オルステッドの命を、だ。
実際、アリエルは王位を取る際に、数多くの貴族や騎士を謀殺した。
それを恨みに思っている者は、少なからず残っている。
彼らは普段は何気ない顔をしてアリエルに忠誠を誓いながら、機会を狙っている。
イゾルテもまた、そうと見られてもおかしくはない存在だ。
実際、イゾルテは騎士の宣誓もしたし、アリエルに忠誠も誓った。
だがそれはアリエルの人柄に惚れ込んだからでもなく、愛国心からでもない。
水神流という自分の居場所と矜持を守るためだ。
今のところは信頼関係で守られているが、それが脅かされるのであれば、この先、絶対に何があっても忠誠を誓い続けるとはいえないかもしれない、と。
裏切ろうと思っているわけではない。
ただ、裏切る可能性が存在している。
それを、イゾルテ自身はよく知っていた。
であるにも関わらず、彼女は七騎士に抜擢された。
違和感があった。
何か裏があるのではないか、と。
「イゾルテ。私の紹介でお見合いをするつもりはありませんか?」
だから、王の間でそんな提案をされた時も、警戒度は高かった。
「なぜ、陛下がそのような話を?」
「私としても、水神となるあなたが身を固めてくれることはプラスに働きますからね。
候補者は私と血のつながりのある人物ばかりで、少し性癖に難のあるものが多いですが……中にはあなたの好みに合う人もいるでしょう」
「陛下との繋がりというと……王族の方ですか!?」
「ええ、そうなりますね」
王族とのお見合い。
そう聞いて、イゾルテの胸は高鳴らずにはいられなかった。
チョロいものである。
「しかし、私が水神となれば、家を捨てねばなりません。王族の方にとって、それは不都合があるのでは?」
「家を捨てても、血のつながりは残ります。家族と縁を切らねばならぬわけではないでしょう?」
「それは、確かにそうですが」
「大丈夫。皆、そのことは了承しています。
彼らには、あなたと結婚しても、王家として援助を惜しまないと約束しました。
あなたは実際に彼らに会い、ただ、一番いい人を選べばいいのです」
これは懐柔策だろうか、とイゾルテは思った。
なにしろ条件が良すぎる。
アリエルと血のつながりがある王族。
傍流かもしれないが、本物の王子様とも言える相手である。
貴族の子弟ではない、王になる可能性が微粒子レベルながらも存在する、本物の王子様である。
そして、アスラ王家は皆、顔が良く、上品だ。
「どうですか? 悪い話ではないと思います」
「是非!」
イゾルテは二つ返事で了承した。
断る理由が無かった。
あるいは彼女が海千山千のアスラ貴族であれば、アリエルの言葉の裏の裏を考えて断ったかもしれない。
が、あいにくと彼女はただの剣士だ。
婚活中の乙女でもある。
難しいことは考えなかった。
「では、後日よりお見合いを始めましょう。ルークかシルヴェストルあたりに暇な日取りを何日か伝えておいてください。あとはこちらでセッティングします」
「ハッ、よろしくお願いします」
「はい。では、退室なさい」
イゾルテは夢見心地でアリエルの私室より退出した。
(王族とお見合い……)
心なしか足取りがふわふわしている。
胸もどきどきわくわくしている。
早速、シルヴェストルに一番近い休日を伝えにいこう。
そう思った時、ふと自分の喉がカラカラに乾いているのに気付いた。
理由がわからず呼ばれたことで、少し緊張していたのかもしれない。
「喉が乾きましたね」
「うす」
ぽつりと呟いてそう言った瞬間に後ろから呼びかけられ、イゾルテは腰を落としながら即座に振り返った。
そこには、ドーガが立っていた。
その大きな体に合わないぐらい小さなコップを持って。
「どうぞ、冷えてます」
「……どうもありがとうございます」
イゾルテはそれを受け取り、一瞬だけ毒でも含まれているかもと疑ったものの、口に含んでごくりと飲んだ。
ドーガの言うとおり、つい先程まで氷だったかのように冷たく、イゾルテの喉を潤した。
水が体の奥底に浸透していくような感覚を受けて、イゾルテは自分が思った以上に緊張し、疲れていたのだと気付いた。
「……ふぅ」
「イゾルテ、お疲れ様、です」
ドーガは水を飲み、息をつくイゾルテを見て、にこやかな笑みを浮かべた。
鎧の隙間からでも、その笑みが一切の下心を持たぬ、純朴なものであることが見て取れた。
「……」
よく気がつく人だ。
少なくとも自分は、この男に背中を任せるのに躊躇しないだろうと、自然に思えた。
顔は好みではないが。
「ドーガ殿もお疲れ様です。守衛の任務、頑張ってください」
「うす!」
まあ、それはそれとして。
これから始まる見合い三昧の日々を思い浮かべ、イゾルテは口の端をキリリとニヤケさせながら、その場を後にしたのだった。