■ 監督 : 大島 渚
■ 公開 : 1983年
■ 出演 : 坂本龍一 ( ヨノイ大尉 )
: デヴィッド・ボウイ ( ジャック・セリアズ )
: ビートたけし ( ハラ・ゲンゴ )
: トム・コンティ ( ジョン・ロレンス )
: ジャック・トンプソン ( ヒックスリー )
映画を哲学的に考える …… もちろん、これは映画鑑賞のひとつの方法に過ぎません。しかし、作品の "分からなさ" を映画という形式につきまとう当然の "何か" であるかのように思うのは違います。"分からない" と言うことに何の抵抗も感じない方は、その "分からなさ" が映画の内容とは関係のない "自分の考えようとしない振舞い" から生まれたものであるに過ぎないことを告白するようなものです ( 映画のせいではないということ )。映画を哲学的に考えるとは、自分の観たものが、たんなる映像の羅列ではなく、まさしくその監督の創造性が具現化されたものとしての映画であったことを自分自身に理解させる行為だといえるでしょう。
1. 『 戦場のメリークリスマス 』とデヴィッド・シルヴィアンの "Forbidden Colours"
a. 当ブログの過去記事、僕を楽しませてくれたミュージシャンの音楽的ルーツ〈 HYDEをかたち作った6枚 〉
の3章 David Sylvian『 Brilliant Trees 』でも、映画『 戦場のメリークリスマス 』について触れたのですが、『 戦場のメリークリスマス 』と、そのメインテーマ曲である "Merry Christmas Mr.Lawrence ( 坂本龍一 / 作曲 )" の事は知っていても、デヴィッド・シルヴィアンが映画に触発されて "Merry Christmas Mr.Lawrence" に歌詞とメロディを乗せて "Forbidden Colours" ( このタイトルは三島由紀夫の男色小説『 禁色 』の英訳版に由来する ) を作った事を今では知らない人もいるでしょう ( そもそもデヴィッド・シルヴィアンって誰?という感じですかね。ああ、元 JAPAN のねって分かる人はそれなりの年齢の洋楽好きの方でしょう )、そしてラルクアンシエル の "Forbidden Lovers" がそれに影響されている事も。そんな事を以前書いたので、ここで『 戦場のメリークリスマス 』について考えておこうという訳です。
2. 捕虜収容所における男性同士の関係としての"同性愛"・・・
a. 第2次世界大戦中の1942年、ジャワ島の日本軍捕虜収容所が舞台の『 戦場のメリークリスマス 』には戦闘シーンは出てきません。代わりに焦点が当てられているのは、収容所の日常における"男性同士の関係"です。この"男性同士の関係"を軸にしてストーリーは進んでいくのですが、大島渚はそれを描くにあたって、2組の男性同士の組み合わせを用意しました。ヨノイ大尉 ( 坂本龍一 ) とジャック・セリアズ ( デヴィッド・ボウイ ) の組合せ ( 長いのでこれを A としましょう )、とハラ軍曹 ( ビートたけし ) とジョン・ロレンス ( トム・コンティ ) の組合せ ( これを B としましょう ) ですね。
b. さて、この男性同士の関係とラディカルな大島渚の特徴で以って、この映画を同性愛的だと早急な結論を抱く人もいるかもしれませんが、踏みとどまる必要があります。ジャック・セリアズがヨノイにキスする衝撃的な場面もある事から、A こそこの映画を同性愛的なものとして特徴付ける象徴的な組合せだと考えたくなるのも当然かもしれません ( もちろん、"Forbidden Colours" のデヴィッド・シルヴィアンはこの点からアプローチしていますが )。
c. しかし、よく見れば分かりますが、ジャック・セリアズはヨノイが自分に対して恋愛感情を持っている事に気付いていても、彼自身はヨノイに対して恋愛感情を持っていないのです。それどころか、彼は仲間を救う ( 反抗するヒックスリーをヨノイは斬ろうとしていた ) ために、ヨノイの恋愛感情を冷静に利用する事さえ厭わない、セリアズがヨノイにキスした場面がまさしくそうです。あの行為によって精神的衝撃を受けたヨノイは卒倒して何も出来なくなったのですから。それ故、A においては同性愛は成立していない ( ヨノイの片思いという訳ですね ) といえます。
d. ではセリアズの気持ちは何処にあったのでしょう。特定の誰かに? いや映画の中でも示されますが、かつてパブリックスクール時代に身障者の弟が多勢にいじめられるのを見過ごすなどのスカした自分の過去に気持ちが残っているのです。そんな 過去からの逃避、あるいは訣別こそが彼の人生の行動原理 ( 戦争という特殊な状況でスカした自分を忘れようとする ) なのであり、極端にいえば、それ以外の事には興味が持てない人間だった という事でしょう。セリアズはロレンスと共に収容所を脱出しようとして捕まり、頭部だけを地上に出して埋められてしまいます。死の近いこの最後の時に彼が回想するのが、その過去であり、彼の人間性の根拠を示す契機となっている 訳です。
e. ちなみに、この映画において同性愛的なものを示しているものがあるとすれば、A でも B でもなく、朝鮮人軍属カネモト ( ジョニー大倉 ) とオランダ軍兵士デ・ヨン の組合せ ( これを C とします ) でしょう。よくこの映画の解説で、カネモトがデ・ヨンを犯したとありますが、それは誤りです。確かにデ・ヨンはハラ軍曹に状況を説明しろと厳しく責められた時、それまで看病してくれたカネモトが急に身体を求めてきたという事を言いました。しかし、実際にカネモトがハラに介錯され絶命した時、絶望の余り、自らも舌を噛み切って後追い自殺したのです。つまり、カネモトとデ・ヨンは互いに愛し合っていたという事ですね。A と C について考えた時、やはりこの映画は軍隊に付きまとう精神的特質としての同性愛的傾向 ( 同性愛への表面的嫌悪を含めて ) を備えていると考えられるかもしれません。しかし、この映画がそれだけではない事を B は示しています。
2. 捕虜収容所における男性同士の関係としての "同志愛"・・・
a. では B について考えていきましょう。一見すると A の方がセンセーショナルなので観客の注意を惹きやすい ( 世界的に有名なデヴィッド・ボウイと坂本龍一ですからね ) のですが、この映画のテーマに近いのは B だといえます。
b. ハラ軍曹とロレンスは共に、基本的には組織の秩序を守る事に忠誠を尽くすタイプだといえるでしょう。しかし、少なくとも2人は何も考えずにそうするのではなく、秩序を守る事が、そこに所属する人間達を守る事だと直感的に理解しているのです。2人について整理してみましょう ( ①~② )。
① ロレンスは味方の捕虜達と敵の日本軍との仲介役を果たす事によって不満を持つ双方の危ういバランスを保っている ( その為、味方からは日本軍に取入っていると思われ、あまり好かれていない )。
② ハラはロレンスをはじめ捕虜達に見せる厳しい態度によって、一見するとステレオタイプな日本軍兵かのように思える。しかし、ハラは、捕虜達をまとめるなずのリーダーのヒックスリーが仲間の不満を代弁するかのように敵対的な態度しか見せないのに対して中佐であるロレンスが出来るだけ協調的な体制が保てるように間に入ってくれているのを十分理解しているし、同時に、トップであるヨノイのセリアズに対する特別な感情を見抜き ( 表向きは知らない振りをしているけど )、そんな組織の乱れへの複雑な思いを抱いていたのです。
c. つまりハラは、組織の秩序を守らなければならないのにセリアズに心を奪われているヨノイという上司こそが組織をかき乱す要素のひとつになっている事を懸念する自分と、仲間の捕虜達に軽蔑されながらも仲間を守る為に協調的な体制を何とか保とうとするロレンスとの間に、"同志的なもの" が萌芽としてある事を感じとっていた のですね。
d. このような解釈をしておかないと、ハラがヨノイの許可なくロレンスとセリアズを独房 ( 収容所から無線機が発見された為の懲罰 ) から解放する場面が、何の意味も無い唐突なものとしてしか写らなくなります ( 実際にそう見えた人も多いでしょう )。
e. 確かにこの場面は、酒に酔ったハラのロレンスとセリアズへのクリスマスプレゼントとして説明されますが、この行為自体は突発的なもの ( プレゼントなのだから予告がある訳ではないし ) だとしても、この行為に至る ハラの心理的伏線 はある訳です。それが先程説明したロレンスへの 同志的感情ですね。それによって、この場面は意味を持つのです。
3. ハラからロレンスへのクリスマスプレゼントについての解釈
a. そしてこのプレゼントという行為は、ロレンスへの同志的感情に裏付けられていると共に、セリアズへの恋心によって組織の規律を乱しかねないヨノイへの牽制にもなっている 訳です。ハラ自身がロレンスとセリアズを勝手に釈放するという規律違反をわざと犯す事によって、ヨノイへの当てつけを行っているのですね。
b. ここでハラは、同志的感情による釈放 ( 私的感情のレベル ) とヨノイへの牽制 ( 組織の秩序を守ろうとする公的感情 ) というレベルの違う2つの事 を同時に成し遂げていますが、そこから見た目の暴力的側面だけでなく思慮深い人間である事も推測出来ますね。
c. とはいえ、ハラは何のリスクも犯さずに、その行為を為したのではありません。規律違反をするのだから処罰覚悟の行為だった訳で、そこには "同志"と "組織" ために自分の "存在" を賭けた熟考の末の決断 ( 酒の力を借りて ) があった と考えられます。
d. この点を踏まえてラストの場面について考えていきましょう。終戦後の1946年には、立場が変わり、ハラは刑務所に勾留され処刑を待つ身になっていました。そこにかつて捕虜だったロレンスが面会に来てくれたのですが、ハラは彼に "戦時中の自分の行いは他の皆と同じものだった" "処刑される覚悟は出来ている" 等の話をしました。
e. ロレンスの方も捕虜収容所での共に過ごした "同志" として義理立てて面会には来てくれたものの、次の何気ない一言でロレンスのハラに対する "同志愛" は限界を示しましたね。"ここの担当だったら助けるのに"という旨の発言ですが、これがロレンスの去り際にハラが発した言葉 "メリークリスマス ミスターローレンス" を引き出したと考えるべきでしょう。
f. このセリフに対する説明の多くが、覚悟は出来ていると言ったものの、ハラはやはり助けを求めている ( 日本兵士の誇りから助けてと口に出していえない ) というものですが、それだけではハラが自分の感情だけを表現した一方通行的なものでしかないでしょう。ハラはかつて独房からの釈放というクリスマスプレゼントをロレンスにした時、先に述べたようにリスクを背負って "自分の存在" を賭けた訳です。それを踏まえて、もう少し深く解釈するなら "メリークリスマス ミスターローレンス" と言った時、ハラはロレンスに対して "俺はあの時、自分の『 存在 』をかけたんだよ。お前は自分の『 存在 』を賭けないのかい?" という "同志への呼びかけ" だといえるのです。
g. 相手を 1人の男という『 存在 』 として認めたが故の、ハラの "同志への呼びかけ" に対するロレンスの返答はおそらくなかった、ハラの正面からのアップで終わるのだから。ロレンスはハラの思いを知りながらも、それに応える事を選択せずに断ち切った訳ですが、それもひとつの生き方だと言うには寂しすぎる・・・。
h. そう考えると、ラストのハラの表情は、ロレンスに受け止められる事のなかったゆえの "悲しき笑い" だとしか言えない。しかし、その "悲しき笑い" はロレンスには受け止められなかったけど、僕達、観客が受け止めざるを得ない程、印象的だったのは間違いないでしょう。