この2回、1983年のドラフト会議の1位指名で入団した中西清起、同2位の池田親興、3位の仲田幸司のことを書いてきました。今回は私が監督として関わったそのドラフトのことを振り返ります。
私は阪神監督としての3年間、就任した82年と翌年の83年のドラフト会議に2度出席しています。翌年からの監督就任が決まっていた81年オフの会議には出席していません。しかし、そのドラフトで2位に指名した明大・平田勝男選手との印象的な交渉話があります。
ある日、田丸仁スカウトが私のところにやってきました。「監督、今度平田選手の交渉、一緒に行ってもらえませんか」。こういう時は交渉が行き詰まっている時が多いのです。
実は、平田選手は社会人野球入りが内定していました。何とか翻意させたい。そこで都内のホテルで島岡吉郎監督、平田選手と会いました。田丸さんは法大の監督時代、島岡監督と戦い、私も慶大の選手時代、島岡明治と覇権争いをしました。2人とも島岡御大とは旧知の間柄です。
交渉の席。私と田丸さんは昔話をして、島岡さんを持ち上げました。「控え選手を代打に使って殊勲打を打たせたり、御大の野球勘にはよくやられたました」と私が口火を切ると、田丸さんも「いや、本当に。御大は勘がいい。やりにくかった」。2人でよいしょ合戦。島岡監督の機嫌はすっかりよくなりました。
と、突然、島岡さんは平田君を見て「お前、明日阪神と契約しろ」。このひと言で、平田君の阪神入りが決まりました。交渉事には手練手管が必要という見本です(笑い)。
その平田君ですが、島岡野球の教育を受けているだけあって、ガッツは半端ではありませんでした。後楽園球場での巨人戦。平田君は芝生に足を引っかけて右足を捻挫しました。見るからに普通ではないので「代わるか?」と聞きました。しかし、平田君は「いえ、平気です」と強がりました。「じゃあ、ちょっと走ってみろ」と言うと、彼はダッシュ。ところが、2、3歩走り出したところで激しく転倒しました。痛みに耐えられなかったのです。“明大魂”を見ました。
強肩で「取ったらアウト」と信頼していた守りは「自衛隊」と呼ばれていました。当時、自衛隊は「専守防衛」。バッティングはその言葉で想像してください。明るい性格で、今は阪神の2軍監督として若い子たちを指導してくれています。
平田君を指名した翌年には捕手の木戸克彦君を1位に指名しました。木戸君は腰が悪く、入団早々、治療のために和歌山・勝浦に1か月間、トレーナーも付けず、単身で行かせました。捕手というのは1人で8人の野手に向かっています。1人で8人を仕切らなければいけないポジションです。その気概を持たせる意味もあって、行かせたのです。あの経験が彼のその後の捕手人生の役に立っていればいいのですが…。目配りが利き、状況を見るのにたけた捕手でした。
蛇足ですが、中西、平田、木戸の3人は年齢も近く仲が良く、いつも3人でじゃれ合ってベンチを明るくしていました。誰が名付けたか、名字の頭文字を取って“NHKトリオ”。言い得て妙のネーミングでした。
(スポーツ報知評論家)
◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。
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