「ふむ、"清冷詩織"ねぇ……」
「ええ、何かご存知でしょうか?師匠」
ブランシュの一件が解決してから数日が経った頃、達也は深雪と共に九重寺を訪れていた。目的は深雪が参加するであろう九校戦の種目の一つ:ミラージ・バットの練習のため。
住職であり達也の師でもある九重八雲が空に浮かべた幻術:鬼火を、深雪は魔法を使って飛び上がると、まるで踊る様に軽快に叩き、地に足を付けてから再びふわりと飛び上がる。
まるで妖精の様なその姿を達也は八雲の隣で見つめつつ、以前から彼にそれとなく聞きたいと思っていた案件について尋ねてみた。
「当然知っているよ、彼女はある界隈ではそれなりに有名な人物だからね」
「ある界隈……読書家の集まりの様なものでしょうか」
「まあ、確かに古典蒐集家達の間でも有名なことは間違いないね。けど、彼女が最も名を馳せているのはそこじゃない。投資界隈だ」
「投資界隈?」
意外な言葉が聞こえて来て、達也は思わず深雪から目を逸らす。
投資?彼女が?別の人物ではないのか?
そう思わずにはいられない。
「"神に愛された少女"、"未来を見通す神子"、有名な投資家達の間で彼女はそう呼ばれている」
「それはまた仰々しい呼び名ですね」
「達也くんは彼女が持っている本を見たことがあるだろう?不思議には思わなかったかい?彼女が何故あれほど希少な本を持っているのか」
「……確かに15の少女にしては網羅し過ぎているとは思いますが、家族の趣味ではないのですか?」
「あの子に両親は居ないよ。僕の知る限りでは間違いなく天涯孤独の身だ。そして彼女が持つ物は全て彼女自身の力で手に入れている」
「……莫大な財産。そしてそれが天才的な投資センスに基づくものだと、そういうことですか」
よくよく考えれば、確かにそうだ。
あれほど貴重な紙の本を持っている時点で、金銭的に余裕があることは間違いない。それに少し前にエリカと共に見た異常に大きなオオカミの存在。あんなものを飼育しているとなれば、餌代だけで凄まじい額になるだろう。エリカが言うには毎日スクールにも通わせているともいう。それに詳しくは話してくれなかったが、彼女の家というのも次の日にエリカが呆然としているほどの存在だったということもあって。
「うんうん……ただ、彼女のそれは"センス"とはまた違うかもしれないね」
「?」
しかしそこで八雲は一つ達也の言を訂正する。
「まず事実として、彼女が投資した対象は間違いなく伸びる。それは勿論、彼女の名声を聞き付けてハイエナが買い漁るという要因もあるだろう。ただ、どうもそれ以外の何かが要因にあるような気が僕はしているんだ」
「それは、運や勘といった類の話でしょうか」
「そうだね、だって彼女の投資はあまりに無秩序で法則性がないからさ。適当に買っている物が、悉く大当たりしている。神子、神に愛された子、そう言われても当然だろう?」
「なるほど」
そう言われるとなんとなく納得は出来た。
そもそも彼女が投資家であるということにすら達也は疑問を持っていたのだ。別に彼女が頭が悪いと言いたい訳ではないが、どうにも彼女がそれほど投資界隈に興味を持っているようには思えなかった。
だが適当にやっていたらなんか儲かってた、というのなら納得できる。いや、本当なら納得なんて絶対出来ない様な内容の話なのだが、あの少女ならそれくらいやりそうではある。毒されてしまっているのだろうけど、この考え方は。
「お兄様?何の話をしていらっしゃるのですか?」
「深雪、もういいのかい?」
「はい、なんとなくコツは掴めました。時間も時間ですし、そろそろお暇を……と思ったのですが」
「いや、実はね、今君達の友人の清冷詩織ちゃんのことについて話してたんだよ」
「清冷さんの!?」
達也が自分のことを見ておらず、八雲と何やら話し込んでいるところを見てしまった深雪は、少しの嫉妬を持ってこうして降りてきたのだが、意外な話の内容に思わず自分自身も惹き込まれてしまった。
深雪にとっても清冷詩織という存在は非常に興味がそそられるものだ。人の事情を勝手に……とも思うが、好奇心はそう容易くは抑えられるものではない。身を乗り出して言葉を待つ。
「そうだ!昔僕が彼女にお勧めしてもらったものがあるんだけど、2人も知りたいかい?」
「?師匠は彼女と面識があるのですか?」
「その時は変装してて、別の目的のためだったけどね。偶然隣に座っていて、突然妙な本を勧められたんだよ。僕がこうして彼女のことをよく知っているのも、その時に警戒してしまって調べ尽くしてしまったからさ」
「それはまた……」
「私生活でもそんなことをしているのか、あいつは」
そうして寺の中へと入っていくと、一冊の綴じられた書物を持って戻って来た八雲。それはなんだかコピーした物の様に薄っぺらくて、本というよりは書類の束という表現が正しい気もする。
それを見た深雪はもちろん、達也でさえも少し心が躍っていた。いつの間にか"清冷詩織が紹介した本"に対する期待度が凄まじいことになっていた。そしてこうして八雲が大切に保存している所を見るに、その期待が間違いではないということも間違いない。むしろこちらから駆け寄る様にして、覗き込む。
「師匠、これは?」
「ああ、これはね、『ロスト・イリオットの最終手記』と呼ばれている物のコピーだ」
「『ロスト・イリオットの最終手記』ですか?本ではなく手記だと……?」
「うん、そうだよ。原典はイギリスの国立図書館に保存されているから、これはネットで一般公開されている物をコピーしたんだ」
「書物ではなく手記ですか。そこまで手を広げているんですね、清冷は」
しかし達也も深雪もその様な名前の物は今日まで一度も聞いたことがない、きっとかなりマイナーな遺物であるのだろう。本当に彼女は何処からそんな情報を掴んで来るのか、それだけが不思議でならない。
「まず前提知識として、ロスト・イリオットというのは、とある近代錬金術師のことだ。2000年代初頭に西洋を中心に活動していた闇錬金術師で、不老不死であったり、鉄を金に変えたり、18世紀に活躍したサンジェルマン伯爵と同一人物……なんて噂話がある様な存在だね」
「闇錬金術師……?」
「簡単に言えば、政治家や富豪の間でのみ、その利益のために活動をしていた錬金術師達のことかな。ま、錬金術師なんてその時代でも創作物の中の存在でしか無かった訳なんだけど」
「その話を聞くに本物であった様にも思えますが」
「だからこそ、彼の手記がこうして大切に保存されているんだろう。それなのにあまり有名ではないのは、まあなんとなく想像出来るだろ?」
「ええ、まあ」
深雪は首を傾げているが、あまり面白い話でもないので達也は流す。しかし錬金術師の最後の手記となれば、それは確かに凄い代物なのだろう。あの清冷詩織が勧めるには少し真っ当過ぎる物の様な気もするが……
「これも何かおかしな部分があるんですか?」
「そうだねぇ……まず前提として、ロスト・イリオットが残したとされる手記は全部で13あるんだけど、その全てが現代の魔法に通じる理論について記されているんだ」
「!それは自分も初耳です」
「まあ通じる理論と言っても、そこまで大したことじゃない。無理矢理こじ付けているとも、当たり前のことしか書いていないとも、どうとでも言える程度のものだ」
「……なんだかあまり面白い内容ではなさそうですね」
聞くに、深雪が求めている様な面白さはそこには無い様に思える。達也は一度はそれを見てみようと、家に帰ったら調べる気満々であるが、深雪はそこまで魔法の歴史に興味がある訳ではない。何か面白い物語要素があればいいのだが、どうやらそれもなさそうで……
「けど、ロスト・イリオットの手記には1つ面白い点が存在している」
「な、なんですか!?」
「数ある手記の中だけでも、最終手記と呼ばれるこの最後の手記だけが、解読不能な未知の言語で書かれていたんだ!」
「「!!」」
瞬間、深雪と達也の目の色が変わった。
八雲はそれを見て以前の自分を思い返していた。
初めて清冷詩織と出会いこの書物を勧められた時、自分も似たような反応をして興味をそそられていただろうか。そしてその内容が近年になって漸く判明したということを聞いた時の反応もまた、きっと自分と似たものになるだろう。八雲はそう確信している。
「……そして、実は最近になってこの手記の解読方法が見つかった」
「なっ!」
「さ、最近とは!?」
「ほんの数ヶ月前の話さ。それを聞いて僕も思わず飛び上がってしまったし、居ても立っても居られなくてね、出先なのにコンビニに行ってこれをもう一冊コピーして来てしまったくらいだ」
「だ、だからここにあるんですね」
「そう……そして僕はその時になってようやく、彼女が紹介してくれたこの本が、とんでもなく変な本だったということに気づいた。隠されていたその内容に気付くまで、所詮はただの手記だと思っていたからね」
「まさかの時間差!?そういうパターンもあるんですか!?」
「そういうパターンも、あるみたいだ」
もう待ち切れないという様子の2人に、八雲は笑う。この先に待っている事実を知って、彼等は果たして何を思い、どんな顔をしてくれるだろうか。八雲もまた楽しみで仕方がない。
「まずは解読方法から解説しようか。基本的に法則性のない様に見えたこの言語だけれど、キーはこの手記が書かれたであろう時代と同時期に販売されていた2冊の小説にあった」
「なるほど、それは解読が困難であるのも納得出来ます」
「その2冊は、一体どの様な小説だったのですか?」
「1冊目は『豊かな魔女の紫手袋』、2冊目は『白桜に届く手套』という名前で日本では売られているね。どちらも書内やおまけで独自の言語が存在していて、『最終手記』の解読にはこの2つの言語を使用した特殊な対応表を作る必要があったらしい」
「そ、そんなのむしろどうやって解読したのでしょう……」
そこで達也が端末を取り出して調べ始める。
もうそれも彼の癖の一つになってしまったのだろう。
そしてその2冊の小説を端末で表示させると同時に、彼は珍しく嫌悪の表情を全面に出して溜息を吐いた。彼は僅かにだが触れてしまったのだ、そこに隠されていた真実に。
「……お兄様?」
「深雪……この話はあまり広げない方がいい」
「で、ですがお兄様、私気になります……!」
「そうだよ達也君、こんなところでお預けなんて酷いじゃないか。ほらほら教えてあげなさい?その2冊に共通することはなんなのか、もう分かったんだろう?」
「……」
これでもかと鋭い視線で自身の師を睨み付ける達也。それでも横からは妹からの期待の目線が突き刺さる。誤魔化すというのは許されない、許されていない、今や最初から触れなければ良かったと今達也は心の底から後悔している。
「……深雪、その2冊は所謂"官能小説"と呼ばれるものだ」
「かんのう?」
「ああ、官能小説だ」
「…………………………………はっ!?!?!?」
「あはははっ、やっぱり良い反応をするねぇ」
ボンッと顔を赤くした深雪。
笑い転げる九重八雲。
八雲を通り越して、達也はもう詩織に対しても拳を握りしめていた。もう本当に、次に会ったらどうしてやろうかと思うくらいに。
「うんうん、でももうここまで来たら中身も大体予想が付くだろう?」
「……まあ」
「……………まさか」
「そう、そのまさかさ。金の作り方が記されている!魔法の真実が隠されている!そんな風に持て囃されていたこの手記の正体は、ロスト・イリオットが趣味で書いていた自作の官能小説だったのさ!」
「……………」
「最低です……」
錬金術師として生きて来て、政治家や富豪達の間で暗躍して、最後に残した物が官能小説。それはもう、もう、本当にどう表現したらいいのだろう。人生の最後がそれでいいのか、本当に残したい物がそれだったのか、そう問い詰めたい。……それだったんだろうなぁと、考えれば考えるほど頭が痛くなる案件でもあるのだが。
「"誰にも見られたくないけど、誰かに見て貰いたい"、"他者に評価されるのは怖いけど、自分の書いた物を評価して貰いたい"。これはそんな矛盾した気持ちの結晶とも言えるんだろう。わざわざ暗号形式にしたのも、きっとそれが理由さ」
「…………ところで、どうして解読が出来たのですか? 偶然見つけられる様なものでもないと思うのですが」
「とある古本屋で売られていたそれ等2冊に、彼の名前が書いてあったからだよ」
「「…………」」
「擦り切れるくらい読まれてて年季が入ってたから、そこから試しに当て嵌めてみたら、あら不思議……解けちゃった」
「「………」」
深雪が無言で帰りの支度を始める。
達也もその手伝いをし始める。
ああ、確かに変な本だろう。
とびっきりの変な本だろう。
変は変でも、変態な本であったが。
「やっぱり内容は偏った趣味をしていて、出て来る大人の女性達は皆色々な手袋をしていたんだそうだ。僕はまだ読んでないけど、界隈では意外と評判なんだって」
報われて良かったね。
きっとロスト・イリオットも天国で喜んでいることだろう。
自分の書いた官能小説が時代を超えてより豊富になった世界でも意思を同じくする同志達によって認められたのだから。
一般人2人はもう門の方へ歩いて行ってしまったのだけれど。
「あーあ、行ってしまったねぇ」
無言で去っていった2人の背中を見送り、八雲は自身の禿頭を撫でながら手記を改めて見直す。
湧いてくるのは未だ尽きぬ興味、そして未だ終わることのない興奮。それは決してそれは情欲によるものではなく、自身の手垢が付いてしまっている程に何度も何度も読み直してしまった理由でもある、彼女が別れ際に残した一言が原因だった。
『意外と面白かった。魔法って奥深いね』
まるで自分はこの本を読めたとでも言う様な言葉。そしてその内容には魔法に関することが書かれていた様にも彼女は話す。
確かにこの書物は出来の良い官能小説だ。
しかし同時に重要な魔法書でもあるのではないかと八雲は睨んでいる。
カモフラージュなのか、思い込みなのか、それともロスト・イリオットがその頭脳を使い、自身にとって最後に相応しい手記として両方の性質を併せ持つ物を作ったというのか。
時として天才は大馬鹿にもなる。
その可能性は十分にあるのだろう。
「ただ……」
何にせよ、八雲はあの時あの瞬間、彼女から端末に映されたこれを見せられた日から、ずっとずっと思っている。
「本当に、変な本だ。けど、きっとあの子が僕にこれを勧めたのは偶然じゃない。これもある意味で彼女の投資だ、何か意味があるのは間違いない」
それに。
「……ここまで僕の気を惹きつけたんだ、自力で読み解かないと死んでも死に切れないよねぇ」
以前の様に、他の誰かが解法を見つける前に。
今度こそ、次こそは自分が。
その役割だけはどうしても、自分の弟子にだって譲ることは出来なかった。