「これは……本物だな……」
「恐縮です」
第3演習室で行われた決闘紛いの模擬戦。
最初は真由美と摩利の思い付きから生じた司波達也を風紀委員会に入れてしまおう作戦は、それに反対した服部刑部少丞範蔵副会長がワンパンされたことによって幕を閉じた。
正直に言えば風紀委員会になんて入りたくもなかったのに、妹の言葉を侮辱されたことに乗せられて最終的にはこうして風紀委員会入りをしてしまったのだから、案外この兄も扱いやすいものである。人間味がある、とも言えるだろう。兄にとってはそれこそ本当に唯一の人間性ではあるのだが。
「そうか、あの九重八雲の……」
「服部副会長が勝てない訳ですね、あれほどの体術を今の時点で身に付けている高校生はそうは居ないでしょう」
「それにシルバーホーンも!」
「流石はお兄様です!」
次々と種を探られて、種を明かして、人々が兄を見る目が変わっていく。そんな様子に妹は誰よりも喜んでいたが、兄はこれでもう逃げ場が完全になくなってしまったと辟易もしていた。
なんとか意識を取り戻した服部副会長も真由美の声かけに立ち上がり、妹に対して謝罪を行う。そして摩利も憂いがなくなり、正式に達也を風紀委員に迎え入れると宣言する。これで全てが大団円、妹にとっては何もかも思い通り。
そうして晴れやかな気分で兄の背後にあった荷物を持ち運ぼうと振り返った瞬間に……それは起きた。
「きゃぁっ!?」
「っ、どうした深雪!?」
「深雪さんどうしたの!?……って」
その場に居た全ての者達が目を見開く。
常に冷静沈着なあの兄でさえも言葉を失い驚愕する。
なぜならそこには絶対に有り得てはならない光景が広がっていたからだ。
「せ、清冷さん……?」
達也の後方3m。
壁にもたれ掛かる様に座り、眠そうな顔をして本を読んでいる清冷詩織の姿。
一体いつからそこに居たのか、そもそもどうしてここに居るのか、なぜ今の今まで彼女の存在に誰も気付くことが出来なかったのか。誰にも分からない、誰もが困惑している。それは達也でさえもそうだ。
「お、お兄様。お兄様は彼女の存在を……」
「……いや、気付かなかった。服部副会長はどうでしたか?」
「お、俺も全く見えていなかった。そもそも本当に彼女はずっとそこに居たのか?途中から入って来たり……」
「それはない、模擬戦中はずっと鍵を掛けていた筈だ。危ないからな」
「……だとすれば、元々そこに居たのか、私達と一緒に入って来たってこと?」
「ゆ、ゆゆ、幽霊ですか!?」
「それは違うと思われますが……」
なぜ誰も直接話しかけないのか、と問われれば、なんとなく怖いから、としか言いようがない。単純に強いとか凶器を持っているからとかではなく、あまりにも得体が知れなさ過ぎて恐ろしい。見知った相手であるにも関わらず、思わず兄も妹を後ろに隠すようにして立ち塞がる。
その後、1分。
2分。
3分。
4分。
5分。
パラ……
「「「「……………」」」」
紙を捲る音だけが木霊する演習室。
5分間皆からの視線に晒されていたにも関わらず、少女は一切の反応を示すことなく、ただただ本を読んでいる。
なんなのだこれは。
どうすればいいのだこれは。
皆から警戒心が失われていく。
何も反応せず、ただただ本を読んでいるだけの人物に何故あれほど警戒してしまっていたのかと、冷静になってくる。
そして達也と真由美だけはなんとなく一つの結論に行き着いていた。
もしかしたら、もしかしたら彼女は……
「清冷」
「………」
「清冷さ〜ん、聞こえてる〜?」
「………」パラッ
「……清冷、良い本があるんだが」
「ん、本……?」
「あ、やっぱり反応するのそこなのね」
しゃがみこんだ真由美と達也の声掛けに、漸く反応して顔を上げた彼女。彼女の雰囲気は普段と全く変わりなく、むしろこうして反応してくれると愛らしい。さっきまでの警戒は本当になんだったのか、他の者達の間にも彼女が反応したその瞬間から少しずつ安堵が広がり始めた。
「良い本って、なに……?」
「ああ、それはまた明日にでも持って来よう。……ところで、お前はいつからここに居たんだ?」
「……?ここどこ?」
「ここがどこかも分からないの!?」
「本読んで、歩いてて……疲れたから座ってた」
「危な過ぎる!?」
「ここで俺達がつい先程まで何をしていたのか知っているか?」
「………………掃除?」
「その集中力は最早危険なくらいだろう……」
普段の移動教室等の際にはエリカや美月に連れられて移動している彼女、偶にレオや達也がその役割をしていたこともあったが、それは気付くと彼女が本を読みながら意味不明な方向に歩いて行ってしまうことが原因だった。
とは言え、とは言えこれは酷過ぎる。
最早生物として大丈夫なのかと心配になるほど。
警戒から困惑に、困惑から心配に、この場に居る者達の感情は激しく移り変わる。
「ひ、一先ず怪我はないのよね?巻き込まれたり……する様なものではなかった筈だけど」
「うっ」
「……達也、喧嘩してたの?」
「模擬戦だ、そのためにこの演習室を借りていた」
「そっか」
「そうだ」
真由美からの思わぬ流れ弾で撃沈した服部のことは置いておくとして、ここでふと、達也は思い付いたことがあった。
以前に彼女は実技が壊滅的だと言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか、と。
容姿の優れた者は魔法師としても優秀な場合が多い、それは深雪や真由美を見ても分かることだ。そして目の前の清冷詩織という女もまたそう、非常に優れた容姿を持っている。
それこそ筆記試験では23位というそこそこ優秀な頭も持っていて、これで魔法が全く使えないというのは流石に嘘だろう。実技が壊滅的だというのも、達也の様に試験で対象となっていない分野に秀でているからという理由があっても驚きはしない。
「清冷、よければお前もやってみないか?」
「……なにを?」
「模擬戦だ」
「ちょっと、達也くん!?」
「……疲れるからやだ」
「個人的に気になるんだ、お前の魔法の実力が」
「……」
その言葉を止める者は殆ど居なかった。
なんだかんだ言っても、この得体の知れない少女の正体について知りたいと思っているのは皆同じだったのだ。それこそ二科生でありながら服部を容易く打ち倒した達也の存在を見て、もし彼女が達也と同じ様な存在であるのなら本当に価値観を変えなければならないのだと、服部でさえもそう感じていて。
「……魔法を使えばいいの?」
「ああ、お前の得意なものでいい」
「……でもCADがない」
「そ、それなら私が取ってきてあげるわ。少し待ってて?」
「ん」
服部の制止も聞かず走っていく真由美。3年生の生徒会長、それも仮にも七草の人間を使いパシリにするなんて……彼女が自ら申し出た事とは言え、思わず服部が非難の目を向けてしまったその時。
目の前にあったのは一冊の本だった。
「……なんだ、これは」
「読む?」
「だ、だから、これは何……」
「『全部嘘で語る世界で最も美しい秘境ホワイト・ローズ・ガーデンの真実と栄光』」
「……なんだって?」
「『全部嘘で語る世界で最も美しい秘境ホワイト・ローズ・ガーデンの真実と栄光』」
「……?」
「「「「?????」」」」
「また変な本を読んでいたのかお前は……」
彼女と初めて顔を合わせた者達が首を傾げる。
彼女がまた変な本を読んでいたということを知った達也と深雪はただただもう苦笑う。
そしてそれを押し付けられ、手にしてしまった服部は先程までの怒りなんて完全に忘れて、その表紙を見つめて固まっていた。
見た目はよくある文化遺産の紹介もの、文章も多いが中には写真等もしっかりと入っていて、聞いたことはないが本当に美しい秘境なのだなとパラパラとページを捲るだけでよく分かる。……その全てが"嘘"であるということを除けば、考察や細かな調査結果も含めてよく出来ているというのに。
あの達也でさえも珍しく気になるのかこっそりと服部の手の中にある一冊を覗き込んでいた。そしていつも通り、端末を手に取って調べ始める。
「……司波」
「ええ、やはりホワイト・ローズ・ガーデンと呼ばれる秘境は何処にも存在していないです。しかしその一冊も狭い界隈ではあるようですが、それなりに有名な物のようです」
「つまりこの本に載っている情報は、その全てが真っ赤な嘘だということで間違いないのか……?」
「ええ、写真からデータから設定から、全てがその著者による作り物です。しかし最初から嘘だと知っていてもなお、読まずにはいられない。知っているからこそ、読むことをやめられない、と」
「……なるほど」
以前に服部は目の前で変な本を深雪と真由美に紹介している詩織の姿を見ていた。そしてその時にはブーメランパンツの男達の物語を紹介していたのだが、今日はまた違った方向性の変な本だ。そして達也が読み上げたレビュー通り、服部は今こうして目の前にある本に対してあまりにも興味を惹かれてしまっている。
「清冷、後からあの本を俺にも貸してもらうことは出来るか?」
「うん……でも、あれは普通に売ってると思う」
「そうなのか?」
「このサイトなら今も売ってる、ほら」
「……なるほど、よく見つけたな」
これまで珍しい本ばかりを紹介していた彼女だが、普通に今も売られている本も持っているようで達也は感心した。なるほど、彼女が持っているのは本当に"変な本"という共通点でしかないということを。つまり変な本であるのなら、そこに他に条件は問わないのだと。そうなるとそもそも変ではない本とは何なのか?という疑問にも行きついてしまうのだが、それは考え過ぎると深みにはまってしまうので今は考えない様にするとして。
「たっ、ただいま!……あー!やっぱり清冷さんがまた変な本を紹介してくれてる!私にも見せて服部くん!」
「ちょっ!会長!?ち、ち、ち、近いですって!?」
そんな風に詩織のCADを持って勢いよく入って来た真由美に服部がたじろいでいる背後で、会計の市原鈴音もまた自身の端末でその本を取り寄せようとしていたことはまた別の話である。