ラノベの中のSFいろいろ(その6)ラノベとSFの関係について考えた
今、いったいどれぐらいのライトノベルが出てるんでしょうか?
業界大手の電撃文庫だけで年に158点も出ているそうです。富士見ファンタジア文庫、角川スニーカー文庫、MF文庫、ファミ通文庫、GA文庫などもすべて合わせたら、確実にその数倍。1000点を超えてるんじゃないかという説もあります。
さらに「ライトノベル」の定義が曖昧になってきています。これまで出版社の主宰する新人賞からデビューする人が多かったんですが、投稿サイトで人気が出て、出版社からオファーを受けてデビューする例が増えました。そうした本は装丁もこれまでのラノベと違ってたりします。もう文庫サイズじゃなかったり、口絵や本文イラストがついてなかったり。
あと、ライトノベル・レーベルじゃないのに、ライトノベルっぽい作品も増えました。角川文庫とか講談社タイガとか宝島社文庫とか、装丁見ただけじゃライトノベルかどうなのか判断できない本が多いんです。
実はこの原稿書いてる途中も、ちょっと悩みました。あれ、徳間デュアル文庫ってライトノベル・レーベルだったっけ? と。自分でも書いてたのに、よく分かりません(笑)。
大ヒットした西尾維新さんの『化物語』シリーズなんて、ライトノベル・レーベルじゃないし、文庫サイズじゃないし、本文イラストも入ってないんだけど、「ライトノベルじゃない」と言われたら違和感抱いちゃうんですよね。好きなシリーズなんですけど。
このへんはSFと同じく「浸透と拡散」が起きているような気がします。西尾維新さんや有川浩さんみたいにライトノベル的な手法を応用した小説を書く作家が増えてきて、もう非ライトノベルとの境界線が曖昧になっているのではないかと。
「ライトノベル的な手法」とは何か。私見ですが、「空想への助走距離が短い」ことだと思います。
これまでの小説、特にSFやホラーやファンタジーのように非現実的な要素の多い作品の場合、現実から空想へと飛翔するために、長い助走距離が必要なのが普通でした。最初のうち、現実に足の着いたシーンが多くて、なかなか非現実に飛び立たない。
分かりやすいのが万城目学さんの『鴨川ホルモー』です。京都の大学生たちが、小さな鬼を召還して使役し、ルールに従って繰り広げるゲーム。設定だけ見ると、もろにライトノベルなんですよ。主人公と女性キャラとの関係も、いかにもラノベ風味。「ああ、やっぱり。主人公は気づいてなかったけど、プロット上はそっちの女の子が本命なんだよね」と。
でも、『鴨川ホルモー』はラノベじゃないんですよ。助走距離が長い。
ラノベなら、ホルモーというゲームが第一章、遅くとも二章ぐらいからすでに出てきていて、それを中心に物語が回ってるはずなんです。でも、『鴨川ホルモー』ではホルモーが出てくるまでが長い長い。大学生のリアルな日常生活の描写がえんえんと続くんです。作者の万城目さんは「これぐらいの現実離れした設定だと、これぐらいの助走距離がないと読者はついてこない」と考えていたように感じられます。
同じ作者の『プリンセス・トヨトミ』とかも、タイトルの意味が明らかになるまで、かなり長かったですね。
でも、僕みたいにラノベに慣れた読者にしてみれば、助走距離なんて必要ない。「日常生活なんていいから、早くホルモー見せてよ」という気になっちゃうんですよ。
ちなみに「助走距離が短い」というのは、僕は1990年代から痛感していました。前に紹介した『ギャラクシー・トリッパー美葉』にしても、第1話第1章のファーストシーンから、ヒロインの中学生の女の子に、校舎の屋上で巡航ミサイルが話しかけてくることにしました。現代の若者向けの小説って、これぐらいのテンポがないとだめだろうと。
そして、若い頃にこうしたテンポに慣れ親しんだ世代が、今はもう親世代になっているわけです。いきなりニャルラトホテプが美少女の姿で目の前に現われても、今やべつにどうってことはない(笑)。
もうひとつ、「オタクであることを隠さない」ということもあります。
僕なんか新作を発表するたびに「オタクっぽい」と批判する人がいるんですよね(笑)。『アイの物語』とか『MM9』とかもそう言われました。それも一般読者ならともかく、SF界の人に。
読んでて苦笑しちゃうんですよね。自分の好きな要素を作中に入れることの、いったい何が悪いの? というか、そもそもSFが好きであること自体がオタクっぽいという自覚がないんですかね?
ちなみに、現代のライトノベル作家の中でも、自分がSFファンであることを作中でこっそり示している人がよくいます。先述の『紫色のクオリア』の「ジョウント」や「アリス・フォイル」とかもそうですけど、『這いよれ!ニャル子さん』2巻では「ちなみに真尋はオーヴァロードよりもオーバーロード派、カレランよりもカレルレン派だった」なんて文章に大笑いしました。(クラークの『幼年期の終わり』が早川版と光文社版では訳が違うという話です)。
あるいは田中ロミオ『人類は衰退しました』3巻では、「知ってるか? ブルドーザーの九〇パーセントはクズなんだぜ?」なんて台詞が出てきて、これも本に突っ伏して笑っちゃいました。「スタージョンの法則(何事も90パーセントはクズである)」で有名なシオドア・スタージョンが、以前にブルドーザーの運転手をやっていて、「殺人ブルドーザー」なんて短編もあるということにひっかけたネタです。
SFファンじゃないと、こういうのは書けないんですよ。
こんな風にSFファンって、作中で自分のSF知識をさらりと披露することをよくやります。竹宮惠子さんの『私を月まで連れてって!』なんて、全編、ものすごい量のSFネタがちりばめられていましたし、
あるいは花郁悠紀子さんの『フェネラ』では、キャラクターの名前に「アナトリイ・ドニェプロフ」というマイナーなソ連作家の名前を使っていて、「うわ、しぶい」としびれたものです。クラークやアシモフぐらいは驚きませんが、ドニェプロフとは。
僕の場合、『サイバーナイト』で、惑星の名前をラーブン(ラリー・ニーブン)、イブラッド(レイ・ブラッドベリ)、リックラッセ(エリック・フランク・ラッセル)、ジャーゼラ(ロジャー・ゼラズニイ)、ゴーディク(ゴードン・R・ディクスン)などとSF作家の名前のもじりで統一したことがあります。
つまり、オタク的知識(SF知識も含めて)を作品に取り入れるのは、昔からのSFマニアの習性みたいなものなんです。
だからSFファンから「オタクっぽい」と言われるのがすごく不本意なんですよね(笑)。こういうのって当たり前でしょ、何がおかしいのと。
近年では、アーネスト・クライン『ゲームウォーズ』みたいに、濃厚なオタク趣味を大爆発させた作品がヒットしています。もうオタクであることは恥ずかしいことじゃない。「オタクっぽい」というのは侮蔑の言葉として意味がないんです。
そのことを、頭の古い人たちに自覚してほしいものです。
ちなみにこの原稿を書いている今は2018年3月。来月は『レディ・プレイヤー1』観てきます。