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ある日、歌でこぶしが回らなくなった。みるみる症状は進み、声がかすれて歌えない。しかし、検査でものどに異常はなかった。かかった心療内科で告げられたのは、ストレス性の発声障害だった。
「押さえ付けられ、しゃがんで生きているみたいだった。全部失っても、芸能界にいたくなかった」。デビューから24年目の2012年。〈香田晋〉は、何も語らないまま、ひっそりと表舞台から姿を消し、鷲崎孝二に戻った。
ツッパリ少年 師との出会い…「手酌酒」30万枚
製鉄所が上げる煙の見える北九州市の街で、鷲崎さんは育った。両親はケンカが絶えず、口論が激しくなるたび祖母の家に逃げ込んだ。
小学6年のある日、父と血のつながりがないことを知らされた。「なぜか裏切られたように感じ、グレてしまって」。あどけない少年は、理髪店に駆け込み、額の生え際に小さな三角のそり込みを入れた。
中学2年で家を出て、岡山県倉敷市の親戚を頼った。その年のクリスマス。親戚が集まったカラオケで、最後にマイクが回ってきた。大声で歌うと爆笑が起こった。「音痴だ、へたくそだって」。それが原点となった。
カセットテープに自分の声を録音し、音程のズレがなくなるまで何度でも歌い直した。選曲は演歌ばかり。「音域が合っていた。『男の歌』って感じで、渋いのもいいじゃんかって。ツッパリだしね」
度胸試しに通ったのが、当時流行したカラオケ喫茶だ。「短ラン・ボンタン」の変形学生服を着込んだ「ツッパリ」は、祖父母ほど年の離れた客にかわいがられた。そこで紹介されたのが、歌手で作曲家の三宅広一さん(78)のカラオケ教室だった。
「いかにも不良って感じの子が教室に来て、びっくりしたよ」。三宅さんは出会いをそう振り返る。だが、歌声にもっと驚いた。「下手だけど、演歌に必要な芯のある声だった」。三宅さんはレッスン料を取らず、歌に心を乗せる歌い方をたたき込んだ。
戦後の歌謡界を代表する作曲家・船村徹さん(2017年に死去)の名物巡業「演歌巡礼」に連れて行ったのも三宅さんだ。1985年、高松市での巡業。カラオケコーナーで真っ先に手を挙げた鷲崎さんは、
「君、歌へたくそだねえ」「何だい、そのおでこの三角形は」――。船村さんの「イジり」に会場はどっと沸いた。しかし後日、船村さんからの電話が鳴る。「やる気があるならうちに来なさい」