写真を見ること—ロバート・フランク『The Americans』を中心に(林田 新/写真論・写真史・京都造形芸術大学専任講師)
(註:本テキストは、展覧会開催に先立ち運営スタッフに向けて行われたレクチャーの内容を、同スタッフがウェブサイト掲載用に再編集したものです)
ロバート・フランクについて話す前に、みなさんにまずご自分が美術館やギャラリーに展覧会を見に行ったときのことを思い浮かべてほしい。そのとき、みなさんがひとつの作品を鑑賞するのにかける時間はどのくらいだろうか。
それぞれ思い浮かべていただいたところで、少々驚きのこんなデータをお伝えしたい。展覧会に来た観客がひとつの作品を見るのにかける時間は、実はわずか15秒程度だといわれている。もちろん個人差はあるし、作品によっても異なってくるのだが、平均するとその程度だという。対して作品そのものではなくそれに付いているキャプションを見る時間はもっと長い。鑑賞者の多くは、作品自体よりもキャプションに時間をかけて眺めているのである。
美術館に足を運ぶ人であっても意外と作品を見ていない。展覧会を準備する際には、作品や作家についての知識や情報だけでなく、作品そのものをしっかりと見ることが大切なのは言うまでもない。
写真を見てみよう
では、フランクが1958年に発表し出世作となった写真集『The Americans』に掲載されている写真を見ていこう。皆さんの中にはすでにロバート・フランクやこの写真集について勉強をして多くの知識を持っている人もいるかもしれないが、そういった事前情報は一旦取り払って、純粋に作品を見ることに注力してほしい。
《Santa Fe, New Mexico》とだけキャプションが付けられた写真である。何が写っているだろうか?あるいは、どんなことに気づくだろうか?写真を見て気がついたこと、感じたことを話してみよう。
Robert Frank, Santa Fe, New Mexico, from the book The Americans(1959 ) © Robert Frank
〈聴講者からの意見〉
- 周りに誰もいない。人間は写っていない。
- ガソリン・スタンドがある。
- ガソリン・スタンド以外に大きな障害物はなく、画面下には荒涼とした土地が、画面上には広々とした空が写っている。
- アメリカのロード・ムービーに出てきそうな景色である。
- 給油機のシルエットが人に似ていて、「SAVE」と書かれた看板と相まって助けを求めているように見える。
- 地平線が傾いていて不安定な感じがする。
- 物体を正面から捉えていない。
- 轍がある。つまり車が通った痕跡がある。
皆さんが話してくれたことに共通しているのは、寂しいであるとか、不安定であるとか、荒涼としている、といったイメージだといえそうである。
この写真は横位置で撮られている。写真を撮るとき、縦位置にするか横位置にするかで、強調されるものが変わってくる。一般に縦位置の写真では高さが、横位置では空間的な左右の広がりが強調される。「荒涼とした土地」といった印象は、そこから来ていると言える。またこの写真に写っているガソリン・スタンドとは、目的地というよりは、移動の途中に経由する場所、束の間、立ち止まる場所である。
そうするとこの横位置の写真では、横方向に轍が走っていることも手伝って、このガソリン・スタンドを中継地点にかつて来た場所と次に行く場所、すなわち過去と未来が示唆されている。過去にいた場所と今から向かう場所のそのあわい。束の間の現在に立つ「SAVE」と書かれた看板。実際にはうっすらと「GAS」という文字列も見え、元々は「ガソリンを節約してね」という意味だが、いまや「SAVE」つまり「救済」の言葉だけがやけに克明に、来し方行く末のあわいの荒涼とした現在の中に宙吊りにされている。
ロバート・フランクと『The Americans』
次にロバート・フランクの経歴を簡単に振り返っておこう。ロバート・フランクは、1924年にスイスに生まれた。母がスイス人、父はドイツ国籍だったがユダヤ人で、戦争の影響で父子はドイツ国籍を失い、ロバートはスイス市民権を取得することとなる。
1947年に渡米。最初の頃はファッション写真などを中心に撮っていたが、1955年、グッゲンハイム財団の奨学金を受けアメリカ横断の旅をする。道中、27,000枚にのぼる写真を撮り、そこから選び抜いた83枚を写真集『The Americans』として1958年に出版した。本作は出版当初は批判を受けもしたが、徐々に評価を獲得し、のちにフランクの代名詞とでもいうべき写真集となった。その後、彼は映画を中心に制作するようになる。
さて、『The Americans』とはどのような写真集だったのか。形式面について述べると、ジャック・ケルアックによる序文の部分を覗いた全てのページが、見開きの片側に写真が一枚、もう片側にはごく簡単なキャプションがレイアウトされるという構成に統一されている。見開きに写真を二枚並べて配置すると、読者はどうしてもその二枚を一組として見ることになる。フランクはそれを避けるため、見開きに一枚ずつ写真を配置した。
この本の編集にあたってフランクが腐心したのは写真集全体の構成であった。写真集という形式をとる限り、そこには複数枚の写真が掲載されることになる。しかもよりも明確に順番が固定されている。必ず始まりがあって、終わりがある。そのことを意識して彼は27,000枚という膨大な数の中から83枚を選択し、写真集に纏めたのである。
フランクの写真を考える上で重要なのは、一枚の写真そのものだけではなくシークエンス、すなわち写真と写真の連なりなのである。先にも述べたようにフランクは60年代にはもっぱら映画制作に注力するが、映画もまさにシークエンスが鍵となる表現である。
以上を踏まえて、次は別の作品を見てみよう。先ほどの《Santa Fe, New Mexico》のページをひとつめくると、《Bar—New York City》という写真が掲載されている。
〈聴講者からの意見〉
- 全体的に暗い。白黒写真であるためコントラストが強く明暗がはっきりしている。
- 横位置の画面の真ん中にジューク・ボックスがある。
- しかし、ジューク・ボックスではないような撮られ方をしている。つまり、ジューク・ボックスという当時最先端の機械をそれらしく撮らず、なんとなくシニカルに捉えているように見える。
- 右側の人影が煙をくゆらせながら向かって右方向、つまりフレーム・アウトする向きに動いている。
- 映画『パリ、テキサス』を思い出すようなとてもアメリカ的な雰囲気を感じる。つまりアメリカ人自身が撮ったらこうはならない。美化された感じがある。
- なつかしさを感じる。
この写真は、先に見た《Santa Fe, New Mexico》の次に掲載されている。ぽつんと立つガソリン・スタンドが移動中に立ちよる束の間の場所だったことと相まって、このダイナーが、移動の途中に通過するひとつの場所として見えてくる。そこには止まっている人もいれば動いている人もいる。かたやガソリンスタンドの看板が「SAVE」という言葉を発し、かたやジューク・ボックスが音楽を奏でる。二枚の写真の連なりから立ち現れてくるのは、人が行き交う空間の真ん中に佇む機械の孤独である。
もう一枚見開きをめくって、次の写真《Elevator—Miami Beach》を見てみる。これまでの写真の連なりの内にこの写真を見ると、この写真にも留まるもの—ボタン近くの女性—と去るもの、もしくは移動していくもの—下りていく人々—の対比が見えてくる。ここも移動する場所のひとつなのである。
以上から分かるように、フランクの写真というのは、写真の連なりによって前の写真に対する印象や記憶が次の写真へ伝染していく。この響き合い、ぶつかり合いが、見る人それぞれに様々な読み取りを可能にしていく。彼の写真についてのひととおりの正しい読み方はないフランク自身が、写真を見る読者がそれぞれ何を読み解いていくのかに賭けている。読者は明確に伝わってくる何かを受けとるというよりは、読者自身が写真自体を見てそこから色々なイメージや意味をビリヤードの球がぶつかりあうように広げていくこと、それがロバート・フランクの写真を見る私たちに期待されていることだといえよう。
当時のアメリカの状況
さてここからは、1950年代当時のアメリカの状況を概観していこう。とくにフランクがアメリカ横断をした1955年から56年当時というのは、アメリカが今日の私たちがイメージするような「アメリカ」になった時期だといわれている。
具体的な出来事をみていこう。まず1956年、アイゼンハウアー大統領により連邦補助高速道路法が施行され、州と州をつなぐ長いハイウェイが整備されることとなる。これを機に生まれたのが、主人公たちが開けた土地で颯爽と車を飛ばしていくような、いかにも「アメリカ」らしいロード・ムービーである。州間高速道路の整備と関連するところでいうと、55年には往年のロック・スター、エルヴィス・プレスリーがデビューしている。ロックンロールの時代の始まりである。一説によると、ロックンロールが流行った理由のひとつは州間高速道路を利用したトラック物流の増加であった。トラック運転手は長距離運転の際に眠気覚ましのためにロックを聞いていたという。真偽のほどは定かではないが、この時期にロックンロールが興隆したことは間違いない。
また、マクドナルド・ハンバーガーがチェーン展開をスタートさせたのも1955年、ミスター・ドーナツについても同様である。これらも今日私たちが非常にアメリカらしいと感じるモティーフである。さらにはディズニー・ランドが開園したのも1955年であった。
以上から明らかなように、1955年から56年というのはまさにアメリカの象徴といえるものが始まった時期だったのである。
総じて50年代はゴールデン・エイジ、つまり輝かしい時代と称され、安いものを大量に作り大量に売る消費社会が始まると同時に、夢や魔法といった非物質的なイメージが実際のモノを凌駕するほどの力を持つようになっていきつつあった。
少し異なった角度からの話をすると、1955年は公民権運動の始まりの年ともいわれる。この年に起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件をきっかけに公民権運動が盛り上がり、後にかの有名なキング牧師の演説につながることとなる。
そんな時代に撮られたフランクの写真の持つ雰囲気は、輝かしいアメリカのイメージとはかけ離れたものであった。ノリノリのロックンロール・ミュージックに似つかわしくない孤独なジューク・ボックス。大型トラックが行き交うハイウェイと対比をなすぽつんと佇むガソリン・スタンド、浮遊する「SAVE」という言葉。こうした時代状況と対象的なフランクの写真は、アメリカの現状に批評的な眼差しを向けたものだという評価を得ることとなる。
写真史との関連①
次に、写真史という枠組みの中で1950年代の状況を見ていこう。当時の写真を語る上で外せないのは、1936年から1972年まで刊行されたグラフ雑誌『LIFE』の存在である。これは当時非常に栄えていた雑誌文化—1950年代には徐々にテレビが普及し始めるが、依然雑誌が根強い支持を得ていた—を代表する雑誌である。
『LIFE』誌面を飾った内容は私たちの周りの、いや世界中のあらゆる現象であった。それは日常生活であったり、地球の裏側で起こっている戦争であったり、また動物についてや工場の特集であったりした。対象を取材して得た情報を写真とテクストを組み合わせることで視覚的に読者に伝えること、それが『LIFE』の役割であった。
そんな『LIFE』の記事の代表作がドキュメンタリー写真家、ユージン・スミスによる「Country Doctor(田舎のお医者さん)」(『LIFE』誌1948年9月20日号掲載)という記事である。順を追ってみていこう。
まず最初の見開き。右に向かって歩く男が写った横位置の写真があり、その上部に「Country Doctor」とタイトルがレイアウトされている。この歩行の向きは読者が英語の文章を読む流れと同じであり、ここに左から右への流れができる。するとこの男性の歩む方向性が、テクストの流れと一致することで、「帰ってくる」ではなく、どこかへ向かって歩いていくという意味、左は過去、右は未来という時間性を帯びる。
次の見開きでは、「彼は多くの分野の専門医でなくてはならない」という見出しがある。一番左側に配された写真の中の男は、読者の視線に添い、右向きである。それに対して一番右側の写真の中の彼は左を向いている。被写体が向かい合う左右の写真で真ん中の六枚の写真をサンドイッチのように挟む作りになっている。挟まれた小ぶりな六枚には色々な分野の仕事をする様子が紹介されている。読者の視線がそのまま真ん中にとどまってしまうが、右下に位置する写真に右を向く男の写真をレイアウトすることで読者を次のページへ促す。
三つ目の見開きには「休んでいる途中に急病人が出たため急いで駆けつける、休憩は中断される」という見出しがおどり、写真の大きさが小中大の順番でレイアウトされている。この配置には音楽でいうクレッシェンドの効果、つまり物語を盛り上げていく効果が期待できる。考えるに、この記事を撮影編集したスミスは見開き右側の一番大きい写真を強調したかったのだろう。この見開きでは、右側に左向きの人物を配置している。本来なら読者の視線を押し戻すことになるが、そのことによって、読者の視線をこの大きな写真に留まらせ、じっくりと見せようとしている。
その次の見開きでもまた様々な治療の様子が紹介されている。今度はレイアウトが上下に分かれたかたちになっており、先ほどの左右にシンメトリーになった見開きから変化がつけられている。その次には「一人の老人が夜中に急死」という見出しに、三つ目の見開きとは逆に大中小の順で写真が配置されている。そこに生まれるデクレッシェンドの効果が、写された老人の死、次第に生命が消えていく様をレイアウトでも表している。三つ目から五つ目の誌面構成に目を向けると、写真のサイズが小中大、一定、大中小と、ページを渡ってきれいにシンメトリーになっている。
締めくくりには「このコミュニティには彼しか医者がいないので、彼はプライベートな時間をほとんど奪われてしまう」というテクストとともに、家族の写真、街全体の写真、一人で休む医者の写真が配置されている。最後の写真における医者の視線は右向きになっている。記事自体はここで終わるが、彼の仕事はまだ未来へと向かっていく、ということが示唆されているのである。
このように『LIFE』では、写真とテクストのレイアウトによって読者の視線を丹念に誘導し、そこで語られる物語を非常に分かりやすく、きっちり理解してもらえるように作られている。このような構成を持つ写真付きの読み物を、一般的にフォト・エッセイ、もしくはフォト・ストーリーという。
それがどういうものかもう少し詳しく分かってもらうために、冒頭でロバート・フランクの写真を見たときを思い出してほしい。写真だけを提示されると、同じ写真でも見る人の知識や経験、記憶によって色々に見え、様々な解釈を生み出す。写真とは本来そういうものである。それに対して、フォト・エッセイは、写真にキャプションを付けたり写真の組み合わせを工夫したりすることによって、読者の写真の読み取りをあるひとつの方向に誘導していく。例えば三つ目の見開きでは見出しに「休んでいるところに急病人の知らせが入る」と書かれている。するともうこの写真がそのことを語っているようにしか見えなくなったのではないだろうか。こうしたフォト・エッセイが、当時のドキュメンタリー写真の基本的なレイアウトの仕方であり、主流であった。そんな時代にフランク写真が人々に与えた衝撃は想像に難くないだろう。
写真史との関連②
もうひとつ、写真史上の重要な出来事を挙げておこう。それは1955年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた写真展「The Family of Man(人間家族)」展である。企画・監修を務めたのは写真家でキュレーターでもあったエドワード・スタイケンである。同展は開催とともに評判を呼び、のちに世界中を巡回した。その影響力の大きさは2003年にはユネスコの世界記録遺産に登録されたという事実が物語っているだろう。現在はルクセンブルクにて永久展示されている。
展示された写真はこの展覧会用に撮られたものではなく、それまでに雑誌掲載のために撮られたものや、有名写真家によって撮られたものが中心であった。それらがスタイケンによって集められ、選択・レイアウト・展示された。
スタイケンは本展で、世界中の全人類をひとつの家族に見立てことを試みた。展示構成は、人間が経験する日々の暮らしやライフイベントを、恋愛・結婚・出産・労働・音楽・踊り・食事・勉強・瞑想(宗教的な行為・祈り)・死・苦難・信仰に分類し、テーマ別に見せたのである。
本展の背後には、ある種の普遍主義的な考え方があった。つまり、世界には多様な民族・部族が存在し、中には対立もあるが、恋愛・結婚・出産といったライフイベント、あるいは食事・労働・ダンスといった行為は、民族や人種を超えて人間みなが等しく行うという着想が、本展の骨子となっている。本展は、そうした被写体が写った写真を選択し、グループとして展示することで、全世界に向けて「人間は本質的にみな同じである」「人間はひとつの家族である」というメッセージを発信した。
展示方法はいわゆるホワイト・キューブを使った一般的なやり方とは異なり、例えば写真を弧になった壁面に展示したり、柱に立体的に展示したりしていた。またガラスの壁に作品を貼るようなこともした。ガラスに写真を展示することによって、ガラスの向こうにいる鑑賞者もまた、人間として展示の対象となる。あるいはダンスのセクションでは、輪になって踊っている人々の写真を床に円形に配置することで、それを見る観客が写真に写る人々と同じように輪になって鑑賞するようになる。勉強のセクションでは大学の講義の様子や小さい子が宿題をする様子、アインシュタインが研究する様子が並列され、人はみな同じという主張が強調される。終盤には原爆の写真を扱ったセクションもあり、原爆を人類全体が抱える問題として提示している。最後に展示されたのは国連の写真であった。ここには、人類が一丸となって諸問題に取り組んでいこうというような、まさにグローバリズムの走りといえる理念が読み取れる。本展はグローバリズム、ヒューマニズムの精神が存分に現れた展覧会だったのである。
ただし実際の1955年当時というのはまだ冷戦期の只中で、世界は真っ二つに分かれていた。そのような東西対立が激しかった状況下で西側が「人類はひとつだ」とうたったのだと思うと、また少し違った印象が出てくるかもしれない。
『LIFE』と「The Family of Man」展は、雑誌と展覧会という形式の違いこそあれ、共通した特徴を有している。それは、写真を効果的に組み合わせ、そこにキャプションを付けることによって、ひとつの大きな物語を語っているという点である。前者は「田舎のお医者さんはどのような毎日を過ごしているのか」という物語を、後者は「人類はこれまでどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのか」という物語をそれぞれ語るために、写真が用いられている。これが当時、一般的であった写真の組み方だったのである。
写真史を塗り替えた男の写真
Robert Frank, Trolley—New Orleans, from the book The Americans(1959 ) © Robert Frank
さて、以上を踏まえてふたたびフランクの『The Americans』に戻ることにしよう。《Trolley—New Orleans》という写真を見てほしい。撮られたのは公民権運動の少し前、バスの車内で白人席と黒人席が分かれている様子が写っている。その次にくる写真は《Canal Street—New Orleans》という一枚だが、この二枚にすぐに関連性が見いだせるだろうか?
一枚目の《Trolley—New Orleans》がもし『LIFE』や「The Family of Man」展で取り上げられたならば、必ず写っている状況を説明するキャプションが付けられるだろうし、次に配置される写真は黒人差別についての物語が明確に示されるようなものになったであろう。
しかし、『The Americans』にはそういった被写体を説明するキャプションはないし、次の写真との関連も明示されない。ここに私たちは何を見るのか。一通りの正解はない。むしろ、説明なしの写真の組み合わせから読者の読み解きに応じて、その都度、新しい意味が生まれてくる。上記の二枚の読み方の一例として、人の配置に注目してみるとする。《Trolley—New Orleans》の人の並びは一列で整然としている一方、《Canal Street—New Orleans》に写る人々は視線の方向が入り乱れている。またたくさんの人がいる中で一人だけ黒人女性の姿があることも、当時のバスの光景を写した前者との関係で強調されてくるかもしれない。
このように、後者一枚だけで提示されると単なる群衆にしか見えていないものが、前者と関係付けることでそこに写る黒人女性の存在が際立ち、意味を帯びるのである。
さらにその次の写真、《Rooming House—Bunker Hill, Los Angels》も加えてみるとどうだろうか。そこには階段の下、杖をつく老人が顔の見えない状態で写っている。これら三枚をどのように関連付けて読み取ることができるだろうか。繰り返しになるがそこに正解はない。ちょうど「この写真と掛けてこの写真と解く。その心は?」と、謎掛けのように答えを読者に考えさせるのが、ロバート・フランクの写真なのである。三枚の写真から孤独さを読み取るかもしれないし、特定の地域を思い浮かべるかもしれない。共通したモチーフや構図が連続した、あるいは離れた写真同士の間に見出される時は、それを手がかりにすることもできる。そのような前後の関係にとどまらない自由な連想によって、一枚の写真が一枚で完結せずに他の写真と様々に有機的に連鎖し、ぶつかりあうことで新しい意味や価値が生み出されていく。
おわりに
ロバート・フランクの写真集は『LIFE』や「The Family of Man」 展といった当時の主流とは全く異なる写真の組み方がされている。後者を物語、フォト・エッセイだとすれば、フランクの写真は映像詩とでもいえるだろう。写真が並んでいて、そこから様々に連想し、見る人の頭のなかで様々にイメージを展開していく。そこでは、明確なストーリーが紡がれていくわけではなく、写真の響き合いにより様々に世界が展開していく。一枚一枚の写真が非常に私的な空気を帯びており、黄金期の「アメリカ」のイメージとは一見そぐわない疎外感を醸しだしている。私たちがそのような印象を受けるのは、フランク自身がスイスからの異邦人であることや、一度国籍を失った経験があること、そういった彼の寂しさを写真から読み取っているからかもしれない。
ストリート=街や通りがスナップ写真のモチーフとして非常に豊かな可能性を潜在させていることを証明したこともまた、フランクの功績のひとつである。何気ないストリートが社会批評のトポスとなりえることや、個人的・主観的な内面をそこに投影できることに当時の人々は気づかされたのである。フランクはそうしたトポスとしてのストリートを発見したのであり、ストリート・スナップの可能性を切り開いたといえる。そういった意味で彼が後世に与えた影響は大きい。例えば日本の写真家である森山大道への影響は明らかである。1950年代当時、多くの写真家が出版社などどこか大きな組織のもとで活動していたときに、フランクはいわば一匹狼で写真を撮り続けた。どこかに所属しているカメラマンではない、アーティストとしての写真家の走りでもある。
『The Americans』に収録された最後の一枚は、ともにアメリカ横断の旅をした家族が車に乗っている様子が写し出されている。それは、『The Americans』が当時のアメリカ社会に対する批評であると同時に、フランク個人のプライベートな旅行の記録であること、つまり、個人と社会が結びついた写真集であるということではないだろうか。