湖底より愛とかこめて

ときおり転がります

【Ⅷ 力】ブレーダッドの紋章―FE風花雪月とアルカナの元型⑰

本稿では、『ファイアーエムブレム 風花雪月』の「ブレーダッドの紋章」とタロット大アルカナ「Ⅷ 力」のカード、キャラクター「ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド」およびブレーダッド王家の対応について考察していきます。全紋章とタロット大アルカナの対応、および目次はこちら。

以下、めっちゃめっちゃネタバレを含みます。

 

 

紋章とタロット大アルカナの対応解説の書籍化企画、頒布開始しております。現在「書籍のみ版」は一時品切れ中、「タロットカード同梱版」のみお求めいただけます。

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 以下、タロットや大アルカナの寓意についての記述は、辛島宜夫『タロット占いの秘密』(二見書房・1974年)、サリー・ニコルズ著 秋山さと子、若山隆良訳『ユングとタロット 元型の旅』(新思索社・2001年)、井上教子『タロットの歴史』(山川出版社・2014年)、レイチェル・ポラック著 伊泉龍一訳『タロットの書 叡智の78の段階』(フォーテュナ・2014年)、鏡リュウジ『タロットの秘密』(講談社・2017年)、鏡リュウジ『鏡リュウジの実践タロット・リーディング』(朝日新聞出版・2017年)、アンソニー・ルイス著 片桐晶訳『完全版 タロット事典』(朝日新聞出版・2018年)、アトラス『ペルソナ3』(2006年)、アトラス『ペルソナ3フェス』(2007年)、アトラス『ペルソナ4』(2009年)、アトラス『ペルソナ5』(2016年)などを参考として当方が独自に解釈したものです。

 

『ファイアーエムブレム風花雪月』発売4周年おめでとう!!

4周年を記念いたしまして、上記の紋章とタロットの対応記事の書籍化『紋章×タロット フォドラ千年の旅路』のために書き下ろした、長らくWeb未公開だったディミトリの紋章の項のweb再録です。7/26~8/2の一週間限定公開です。

 

クロードを除く主人公格(エーデルガルト、ディミトリ、主人公先生、レアなど)のもつ紋章はネタバレ力(ぢから)や味が強烈すぎるため、書籍版のみで扱ってきましたが、4年も経ちましたので、ここらであらためてディミトリくんの大変な半生と、それにめちゃくちゃにされたおれたちの心をみんなでしみじみふりかえっていこうぜ……という趣旨の同窓会です。

 

紋章、十傑ブレーダッド。

対応するアルカナは

対応するキャラはディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドと、父ランベール等のファーガス王家です。

 

手槍一本の反撃で一軍を滅ぼし、裁縫をすればハサミをブチ折るレベルの怪力の持ち主であるブレーダッド怪獣が「力」のアルカナとはストレートすぎて冗談のようですが、

実はこの「力」というあまりに単純に聞こえるネーミングには、かなり微妙で難しい意味が込められているんですよね。

主人公格の級長たちの中でも、特に従来型のマルスやロイのような「伝統的ファイアーエムブレムの主人公青年」役割を持たされているディミトリが、この「微妙で難しい」アルカナを背負う深遠な意味に、思いをはせてみましょう。

 

 

「力」の元型

 「堅忍」または「剛毅」ともいいます。「力量」など呼び方の多いカードです。

カードに象徴として描いてあるモチーフは「獅子」とときには「壊れた柱」を伴った「優美で大きな女性」です。女性の手は「獅子の口」にかけられています。女性の頭上あるいは帽子には「∞(無限)マーク」があしらわれ、ウェイト版では女性は「女帝」アルカナに描かれたような「自然の草花」をまとっています。

 「女教皇」や「正義」「節制」「星」のカードと同様、人間の備えるべき美徳が女神の姿で擬人化された絵であらわされます。「堅忍」とはその美徳の名前です。獅子との大きさのちがいをよく考えるとこの女性はちょっと巨女ですよね。生身の人間ではないんだ。

「女力士」と呼ばれることもあり、彼女は獅子の口をおさえつけるほどの怪力をもっている……ともとれますが、多くのカードではたおやかで優しげな姿をしています。口に手をかけているのはいつ食いちぎられても文句言えない状態ですが、獣にとっておくちまわりは急所でもあり、彼女と獣の間に信頼関係と愛が築かれていることがわかります。よーしよしよし(ムツゴロウさん)。よく「馴らしている」「懐柔している」のです。

 だから、「力」のカードの中心的な意味は、

「自他の内なる“獣”と向き合い、飼い馴らす理性」

を得る段階です。以降、「力」アルカナの意味は赤字で表します。

 

家畜でもない気性の荒い獣を飼い慣らすのは常時の忍耐力が必要なことです。これが「堅忍」の意味です。「力」という一字の言葉は非常に意味が広くボンヤリしていますが、このカードに描かれているのはそういう「耐える力」方向の力です。

では、「獅子」「獣」とはなんの比喩なのか? ディミトリの「怪力」はこのカードの力の方向性とは関係ないのか? 読み解いていきましょう。

 

ディミトリの「力」―嵐の王

 ディミトリは最初の登場時の「どこか影があるが、正々堂々とした若者」という印象ではエーデルガルトとクロードに比べて明快な王子様的人物像のように見えましたが、その実『風花雪月』で最も複雑難解ともいえる人物像です。エーデルガルトの「女教皇」もクロードの「月」も秘密を隠した複雑さがあるものの、「力」のアルカナの語っていること自体の微妙さとその今作での処理には、他の級長2人とはまた違った途方もなさがあります。

 ディミトリが「王者」であることも、複雑さに拍車をかける大きな要因です。ストレートに王者といえばフェリクスの「皇帝」です。「力」のアルカナはあまり王者に当てられるようなものではありません。「力」のアルカナは「力の管理者」をあらわすため、武道や精神修行の師匠となるコーチ、仙人のような人物をあらわすからです。怪力は怪力でもマンガ『NARUTO』の綱手様やサクラのような力ですね。ディミトリの怪力はそういう描写ではない。

 

 復讐の災害となったディミトリは「嵐の王」とも呼ばれました。この言葉は優美な「力」のアルカナの印象とは一見かけ離れていながら、実はその本質をよくあらわしたものでした。

 

怪物

 ディミトリは一見理想的な物語の騎士王子様です。しかし、青獅子の学級を選んだプレイヤーはちょくちょく「こいつ何かおかしいぞ」と感じることになります。

人間離れした怪力、フェリクスに忠告されまくる「腹の中の獣」極端な食べ物の好き嫌いの少なさ、ほとんど寝てなさそうな様子、独り言、外道に対する四肢もぎ首へし発言とのギャップの激しさ……。何より、これらの異常性を抱えながら一見すごくまともな人物として振る舞えている能力みたいなものが、一番怖い。ディミトリのマントの清廉な青色も、美しいけれどありえないほど鮮やかな青、彼の優しい倫理観も中世っぽい世界観の中では浮いており、だんだんと異様に見えてきます。

(ディミトリのカラーリングの文化的な意味に関しては↓こちらの記事で↓)

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 上記のディミトリの「なんかおかしさ」には、ディミトリの中の「獅子」「獣」が『ミッケ!』のように隠されています。

 まず、ディミトリは生活に支障をきたしかねないほどの怪力をもっています。手槍を持たせて置いておけば敵がみんな勝手に死んでくれる、ブレーダッド置くだけ、どころか、裁縫などの細かい作業をしようとすると針やハサミを次々壊してしまい、剣や槍さえうっかりするとブチ折ってしまう力はもはや身体障害の一種といっていいでしょう。

力が弱いのだろうと強いのだろうと、特性が社会の中で困りごとを生じがちだったらそれは障害です。ディミトリは努力によって普段障害を克服していますが、もし素手でペシッとやっただけで人間の首をへし折っちゃうヒグマさんだということが目に見えてたら、人間のお友達は絶対できにくいですからね。怪力は制御できなければ、人を抱きしめることも、握手することさえ難しいです。

 

 次に、ディミトリは「ダスカーの悲劇」の精神的ダメージから回復できないまま自分を無理矢理奮い立たせて生きており、心身に異常をきたしています。少なくとも後天的な味覚障害、睡眠障害、幻覚幻聴、強い思い込みがみられます。常人であればとっくにHPもMPも尽きてダウンしているはずの自律神経失調状態ですが、ディミトリは謎の無尽蔵のエネルギーによって動き続けています。アンデッドだよもう。まあこのあたりの無理がたたってディミトリは生き延びてもおおむね早死にしてしまうようなのですが、全盛期を120%パワーで駆け抜けてコロリと死ぬというのも「獣(特に獅子などの肉食獣)」を思わせます。

 最後に、外道を見ると突然頭が真っ白になり四肢もぎ首へしモードとなるディミトリの「腹の中の獣」。これに理性的なフェリクスは「あいつ血に飢えて虐殺を楽しんでるんだわ、そうとしか考えられない……」とドン引きしますが、ディミトリは人を殺してたーのしー!フレンズなわけでは全然なく、人の命を弄ぶ外道どもに対する怒り、義憤のパワーが常軌を逸して大きいだけです。ふつう人間の個人的な怒りの感情はどんなにクソデカ感情でも無限のパワーとかにはならずそうそう長続きもしませんが、ディミトリの怒りパワーはこれまた謎の無尽蔵です。

 

 上記のディミトリの特徴はすべて「力」アルカナの「獅子」、「獣」の部分の要素です。

つまりディミトリにあらわれた「獅子」「獣」とは「制御しがたいほど内から湧き上がる、暴威のパワー」のことです。ディミトリは普通そうにしていても社会生活を送れるようにこのパワーをすーっとずーーーっと耐え忍んで抑えており、そのおかげでこの世のすべては手槍で破壊しつくされずにすんでいます。ディミトリに感謝。

 また、ディミトリは馬鹿正直なように見えるし実際馬鹿みたいに正直な理想を追ってもいるのですが、上記のような異常を誰にも感づかれないように(いろいろ察してくれているドゥドゥーさえも味覚障害にははっきり気付いていません)情報開示をうまくコントロールしており、強靭な精神力と胆力にもとづいた政治力があります。エーデルガルトやクロードが敵にも味方にも虚実を混ぜ情報を小出しにしてくることはある意味わかりやすいですが、ディミトリがそれをやってもプレイヤーにさえ気付かれないことも多い(わかりにくいように描写されている)でしょう。

 

 「力」アルカナの獅子にあらわされる「人間の内なる獣性」とは、「悪魔」のカードに描かれた獣性と同じく「欲望」を意味します。

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欲望はパワーの源でもあり、暴走して困ったことになるものでもあります。「力」アルカナは欲望の力と、それを制御する理性の力の均衡を描いています。

そういうわけで「力」のアルカナは生活レベルでは「ダイエット」とか「依存症との戦い」「自堕落な生活を立て直す努力」とかを意味するのですが、ディミトリの場合「パワーの源でもあり、暴走して困ったことになるものでもある」のは「復讐」や「義憤」の気持ちですよね。『風花雪月』のおもしろいところは、この「死者のために正しい復讐がなされるべき」「誰も理不尽な死の犠牲にしたくない」「差別のない優しい世の中にしたい」といったディミトリの無限の人間愛の気持ちを「人間の内から湧き上がる欲」として扱っているところです。

「ディミトリの理想は欲望である」って言うと、「正義の暴走」とか「悪者を叩く快楽」とかみたいな感覚で誤解されちゃいそうですが、そういうことではありません。ディミトリの義憤は「悪いやつを殺して溜飲を下げたい」とか「敵に怒るのが楽しくて生きがい」とかの欲望ではありません。いや、そういうのも「力」アルカナで制御すべき、要注意な人間の獣性の欲望ではあるんですけど、ディミトリの欲望がそっちの悪性に崩れていかないのは、とにかく「人間愛」があるからです。

「普遍的な人間への愛」にもまたいろんな色合いがあり、それはそれぞれのあらわす「人間らしさ」とともに『風花雪月』の4つのルートのテーマになっています。エーデルガルトが前へ進んでいける人間の強さを愛し皆の背中を押して激励するのに対し、ディミトリが愛し堅忍しつづける「人間らしさ」とは人間の中の獣と人を行き来する部分感情や過去やしがらみにとらわれ、まやかしにすがらなければ立ち上がれないときもある人の弱さと、それを辛抱強く見守り手を差し伸べ続ける終わりのない道です。

欲望とは、開き直ってしつけ放棄していいものではなく、またガチガチに檻で囲い枷をつけて封じ込めるべきものでもありません。欲望と付き合い、辛抱強く飼い馴らし、その力とともに戦うために必要な理性とは「愛」なのだと「力」アルカナは伝えています。復讐心、怒り、正義を取り戻したい力が湧き上がっても、そこに誰かの幸せを願う耐える愛がなければ、獣は無軌道に自分や他人を傷つけるばかりでしょう。このあたりの辛さについては、「獣」のマリアンヌとディミトリの支援会話が静かに物語っています。

青獅子/蒼月の物語は、ディミトリが憎しみと怒りのパワーと耐える愛のパワーの間でねじ切れそうになりながら、主人公先生のつないだ愛に見守られることでバランスをとっていく物語です。

 

皆、殿下が昔に戻ったと言っている。だが、おれは……違うと思う。
殿下は初めから……そして先日までも、ずっと変わらず、ああいうお方だった。
王となるには、優しすぎる。……弱者や死者に、肩入れし過ぎる。
だが……そんなお方だからこそ、おれは、殿下をお慕いしてきた。

――ドゥドゥー

 「王家は代々怪力の持ち主」と言われ、ディミトリのもつ「怪力」じたいは実は紋章関係なくブレーダッド家に伝わる「人間の中の獣性の力」です。だからブレーダッドの紋章の真価は怪力ではなく「怪力を制御する力」のほうにあります。

ブレーダッドの紋章をもたないディミトリの叔父・イーハ大公リュファスは弟や甥の怪物性への恐怖・憎悪・絶望という欲望により国政を暴走させました。表面的には「妖婦コルネリアの色香に溺れて」ということになってもいました。「色に溺れる」「暴政」というのはまさに人間の獣性による堕落の象徴です。イーハ大公は「心の獅子を御する忍耐の愛」をもたなかったのです。

 

 

足の下なる者たちよ

 ディミトリの異様なまでの無尽蔵のパワー、無尽蔵の愛、無尽蔵の義憤は、同じように異様なドジと過集中、「無限に繁茂するパワー」であるアネットの「女帝」アルカナと根本を同じくします。すなわち大地母神的な、自然の力のあらわれとしての性質です。

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「力」のカードに描かれる女性の獅子と比較しての巨大さ、妖精のように優美なドレスは彼女が大いなる地や海の女神であることを示しています。映画『崖の上のポニョ』のポニョのママ、グランマンマーレとかみたいな感じですね。デッカい女性、めっちゃ好き(個人的好み)。

 

 実は、ディミトリに関しては作中でもかなり大地母神的なものと結びついた表現が繰り返されています。

彼の異常が最も日常にあらわれている部分、彼と一体のドゥドゥーのキーポイントにもなっている「食事の楽しみ」は、「女帝」アルカナの項でも述べたように地母神の領分です。食事と関りが深いのは「戦車」のイングリットもですが、「イングリットと食事」は活動するための日々の糧を摂ることをあらわしています。ディミトリも「食事は腹が膨れればOK」と言っており、つまりディミトリは「エネルギー摂取」と「食の喜び」が切り離された、食の欲望の反転状態にあります。

フェリクスが彼を繰り返し呼ぶ「猪」という言葉もキーワードです。イノシシは西洋においては多義的なシンボルです。拙著『いただき! ガルグ=マクめし』で野菜や食肉の「天に近く貴い」「地に近く卑しい」といったランク付けについてお話ししましたが、ブタやイノシシは土に落ちているなんでも食べる雑食性のためかなり「卑しい」寄り、蔑みの意味での「獣」的な動物です。フェリクスが理性的な人間であることともあわせると「猪武者」のような「浅慮」という意味ももちろん含みます。フェリクスの口の利き方は相当な悪口ということになります。

しかし同時にイノシシは太古から狩猟の主な対象であり、それこそフェリクスのような戦士らしい戦士階級にはてごわい対戦相手として、そしておいしいお肉の供給源として親しまれてきました。日本で「しし肉」と言った場合猪肉や鹿肉のことをさすように、「ライオン?は住んでないけど名前だけは知ってる、なんか強くてカッコいいやつでしょ」状態の地域では猪と獅子は近い意味をもつシンボル、すなわち「獣たちの王」でした。そういったわけで、イノシシやブタは西洋を含むさまざまな文化で大地の神の使いとされてきました。

 

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 そもそも「ディミトリ」という名前自体が、現実世界ではギリシャ神話の農作物の豊穣を司る大地母神デメテルに由来するものです。ファーガスのような中世ヨーロッパ方式の社会では農業による領地経営が基本、よき領主やよき王とは農地が荒らされないよう守り、うまく農地を区分けし民の労働を差配して実りをもたらす農業指導者の性質をもっていました。農産を中心とした中世の治世は力の管理でもあったのです。

しかし、「女教皇」や「女帝」のアルカナの項でも述べたように、大地母神(グレートマザーの元型)は優しく甘やかなだけの存在ではありません。テリブルな側面(恐ろしい怪獣)ももっています。ディミトリにはデメテルのグレートな側面と、テリブルな側面がまるごとあらわれています。

(グレートマザー、テリブルマザーの物語元型については↓こちらの記事↓でも)

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デメテル女神は、最近の作品ではスマホゲーム『Fate/Grand Order』に登場したような貞淑で豊満で穏やかなメルセデス系の女性の姿のイメージをもちます。母のように人類を愛し、豊かな土地をあらわす深緑の衣、実りをあらわす金色の麦の穂の飾りをつけた、たいそう優しくて怖くない、無害そうな清楚なおねえさん、のように、普段は見えます

しかしながら、デメテル女神の神話は荒れ狂う嵐の側面とセットです。もっとも有名なのが彼女が娘を探して嘆き歩き回った事件です。デメテルには最愛のコレー(清き処女を意味する)という娘がいたのですが、自分の兄でもある冥界の神ハデスに娘は見初められて強引に冥界に連れ去られて妻にされてしまったのです。デメテルはこれにハチャメチャに激怒。神々が止めるのもいっさい聞かず、髪を振り乱しぼろぼろの衣に身をやつした老婆(テリブルマザー)の姿になって下界に降り、嘆き叫びながら大地を放浪し、その間大地の実りはストップしてしまったのです。これにはさすがに困り果てたゼウスが娘返すようにハデス兄さんに言っとくからさ……ととりなし、娘と再会したデメテルは喜びに再びほほえみ、地上には作物が芽吹くようになった、これが冬と春がこの世にあることの由来である……という神話です。

コレーが「強い男神に冥界に連れ去られた」というのは、神なので一応死んでないって話にはなってますけど「凌辱されて死んだ」ということの比喩のようなものです。愛する者が尊厳を無視され死んでしまったことに激怒し、荒ぶる姿に変身し災害の化身となって放浪生者に実りをもたらす重要なお役目を放棄したディミトリの放浪の5年間はデメテルの神話の再現です。

コレーはデメテルという「大地」「か弱きもの」自身の無力さ、清らかさ、処女性をあらわす存在であるともされます。普通の人は自分とは違う国や大義を奉じる者だしとか、もう死んじゃったしとか、あまり知らない人だしとかで多くの他人を自分の問題から切り離しながら精神衛生を保っていますが、ディミトリと「弱者」や「死者」は直接つながっていて、その数は無限です。大地そのものが、踏みにじられた弱者や累々と積み上がった死体でできているようなものだからです。

 

ランドルフ「お前に……家族の情など、わかるまい……! 血も涙もない化け物め……!」

ディミトリ「化け物はお前もだろう、将軍。それに気づいていないだけなお性質が悪い。将である以上、そうして命乞いをする者たちを、容赦もなく殺してきたのだろう? ……それとも、この期に及んで自分の手は汚れていないなどと嘯くのか?」

ランドルフ「それは……戦争だからだ。国のため、大義のため、家族のために……!」

ディミトリ「大義や家族のために死体を積み上げるのも、死者のために死体を積み上げるのも……とどのつまり、同じ人殺しだ」

 

 コレーが尊厳を凌辱され死んでいった罪なき弱者の比喩だと言いましたが、彼女の出生じたいもデメテルが弟ゼウスに無理矢理迫られてできた子です。人の足の下にある「大地」の女神にはギリシャ神話においてガイア→レアー→デメテルという三段階の系譜がありますが、だんだんと立場が弱体化というか「優しく」なっていきます。優しい大地、無辜なる者は男性的権力によって抑えつけられ、尊厳を無視されることに耐え、そして耐えられなくなってすべての弱者と死者の代理人としてブチ切れるようになります。

デメテルは「ハデスは煮え切らない性格なんで焚きつけてやったんだよ、カップル成立~!」とか「まあまあハデスは娘さんの嫁入り先としてはいい感じじゃないですか~、そんな不満?」とか言われて激怒し、さらに娘を探し泣きながらさ迷ってる状況にもかかわらずポセイドンに迫られ襲われて激激激怒し、怒りと復讐の女神エリニュスという荒ぶる神格をあらわします。自分の元に帰ってくることになった娘コレーももはや無垢なるコレーではなく冥界の王妃ペルセポネとなってしまっており、一年の3分の1は冥界に滞在しなければなりません。その間デメテルはまた嘆き悲しみ、大地は冬に閉ざされます。踏みにじられたもの、死んだ命、失われてしまった信頼は永遠にもとには戻らないのです。だから「力」の女神は辛抱強く忍耐するのだし、また猛烈に怒り復讐もします。どちらも理由は同じです。

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 流された血、傷つけられた尊厳に対する怒りと復讐は、刑法が未発達あるいは機能しない状況においては唯一の秩序の遂行方法です。解放王ネメシスの名前の由来であるギリシャ神話の復讐の女神ネメシスも、「正義を回復するための復讐」「不法に対する神罰」を司っています。ファーガスにあたるゲルマン系民族やヴァイキング、その他世界各地の古代の慣習では、同族を傷つけられ殺された一族が加害者一族の誰かを同じ目にあわせる「血の報復(血讐)」こそは族長が一族を守るために果たすべき政治的役割でした。

「感情に振り回されるのは王として責務を果たせてない」「王には向いていない」と評されがちなディミトリですが、彼は誰よりも王の責務のために生きており、ただ「彼の民」はスケールが大きすぎるだけです。

足の下に踏まれて普段見えない弱者たち、すでにむごたらしく死んでしまった者たちもまた彼の民であり、その数と無念は生者の存在感をゆうに上回りディミトリを押し潰します。ディミトリがペルセポネーの嘆きの声を聴き怒りに叫ぶとき、土の下のすべての無念が彼の体を借りて血の嵐を巻き起こします。

人が獣という不可解なまでの無限の力をもった存在と相対するとき、愛を返してもらうには辛抱強い愛で向かうほかないですが、逆に刃には強力無比な爪が、血には血の雨が返ってきます。そしてそれは自分の心の中の、弱く不完全で間違いを繰り返す獣の部分に関しても同じです。

本当は傷ついて動けなくなった優しい少年にすぎなかった彼が立ち上がって歩き出すためには、その暴威の力に頼るしかありませんでした。「嵐の王」である猪の牙をつかみ、一番振り回されてなんとか抑えようとしてきたのはディミトリ自身だったのです。

 

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感情教育

 ディミトリの「力」のアルカナは「均衡の段階」の最初らしく「大地の化身」である獣の部分と、「それを手懐ける理性」である人間の部分のダイナミックな均衡でできています。そのためディミトリの「感覚」はあまり人間っぽくないというか、精霊や神様じみていて、「人間っぽくするために努力するね」ってひたむきにがんばる人外の者みたいなコワカワイさが結果的に愛くるしく尊いことになっています。

 そしてディミトリは人間が大好きです。特に主人公先生を妙に大事にしているのは、第一部での先生とのコミュニケーションのキモが「だんだんと感情に目覚めていく先生」であったからです。

 

……今だから言う。先生が学級に来た頃、俺は先生が、少しばかり……怖かった。
笑ったり、怒ったりしないし、かといって感情を抑えているようにも見えなかった。
最初は、俺たち生徒に関心がないだけかと思ったんだが、それも違うようだったし……何を考えているのかわからなくて……あまり人間らしさを感じなかったというか……。

――ディミトリ

 

 ディミトリがいとおしむ「人間らしさ」とは、感情に振り回され、復讐に燃えたり、悲しくて死にたくなったりして足をもつれさせて不格好に転びながら、それでも2本の脚で立って歩こうとする愛と勇気の輝きのことです。まさにそれこそがファイアーエムブレムシリーズを貫く切ない人間賛歌のテーマ、「ファイアーエムブレム 手強いシミュレーション 愛と勇気の物語」です。

 

VSドゥドゥーくん

 ディミトリとドゥドゥーは「力」のアルカナをあらわす一体の存在です。こうした「二者」や「均衡」をあらわすアルカナでは紋章持ちでないキャラクターも補完的な構図に入っていることがあります。「戦車」はイングリットとアッシュを「白と黒の対照的な馬」としており「正義」はフェルディナントにカスパルが「天秤の両皿」として対置されています。「力」におけるディミトリとドゥドゥーの構図は「美女と野獣」です。

『眠れる森の美女』や『人魚姫』が「恋人たち」アルカナの意味をあらわす物語であったように、『美女と野獣』は「力」のアルカナを象徴するそのものズバリな物語です。無欲で聡明な娘と孤独な野獣が少しずつコミュニケーションを重ね、心を開き合い、信頼関係と愛によって野獣の呪いが解けるというお話です。

 

「俺に対する礼儀を弁えさせるために読み書きを教えてやったわけではない。お前を士官学校に通わせたいと言ったのも、従者としてではなく、友人として、だ」

ド「ですが殿下、ご理解ください。おれは殿下の友人ではなく、従者なのです」

 

 ディミトリとドゥドゥーにはこの物語の「美女」と「野獣」の役割が交錯しています。表面を見ると、もちろん恐ろしげで寡黙なくまさんじみた異民族であるドゥドゥーが「野獣」でディミトリという輝く美青年がそれに粘り強く読み書きや友愛を説くことが「美女」です。

 

「それに、お前を庇って負った傷を、消してしまうのも勿体ないからな。あの傷は誇りだ。……俺のような者にも生き延びた価値があったのだと思える」

「殿下、そんな仰りようは……」

「ドゥドゥー、お前は俺に救われたと言うが、あの日、俺もお前に救われたんだ。……誰も救えず、俺だけが生き延びて。生きている価値も理由もないと思っていた。だが、俺はたった一人……お前を救えた。それだけがずっと、俺の支えだった」

 

 しかし内面的にはディミトリのほうが孤独に荒れ狂う野獣であり、ドゥドゥーこそは心優しく辛抱強く、草花の世話や料理を愛するディズニープリンセスです。ドゥドゥーはディミトリが立つ柱となった心と愛の証であり、味の好みがわからなくなっていて作り甲斐がないはずのディミトリのためドゥドゥーは食事という愛を注ぎ続け、ディミトリの心の悲しい野獣の部分にも寄り添い、愛の薔薇を世話し続けました。

 自分の心に話しかけるように、自分の中のすべての愛に許しを請うように、ディミトリはドゥドゥーに話しかけます。彼らはお互いがお互いの心であり、自分のことを大切にできなくても、不器用にいたわり合います。相手に託した自分の心を。

 

VSアロイス氏

「だがしかし、ディミトリ殿がこれほど声を上げて笑うなど、珍しい」

「……事実、あまり得意ではありませんので。こうして声を上げて笑うのは久しぶりです。アロイス殿、やはりあなたはこちらの芸に磨きをかけるべきではありませんか」

「こちらの芸、とは……いやいや、要は私の冗談がつまらんと言っているだけでは……」

 ディミトリの支援会話の中でシリアスとギャグのミックスが異彩を放っているのがアロイス支援です。なんだこれは。スベり芸という概念を提唱するディミトリ。

最後にディミトリはアロイスをこそ冗談の師として仰ぎたいと言い出すのですが、もちろんそれはアロイスの冗談の腕前を評価し直したからではありません。アロイスの「スベり芸」自体の素晴らしさを知ったからです。

 ディミトリは堅物すぎると周りに言われます。ローレンツとかのように貴族規範の鎧をつけているからではありません。ディミトリは感情の欲動という「獣」をよく制御して適切に出力するようにしているので、要は爆笑したり、不作法をしたり、ついふざけたりという人間臭い「獣のチラ見え」がないからです。それはディミトリがよく頑張っていてえらいね要素なのですが、人を愛するディミトリは「もうちょっと柔らかくできたほうがいいかな、どうしたらいいのかな」と考えています。そこでアロイスのスベり芸です(えっ?)。

アロイスのスベり芸は爆笑を誘うものではないので、「人の中の獣の欲動にうったえるものではない」です。ツボって笑いが止まらなくなるやつではない。ならば何にディミトリが笑ったのかというと、アロイスの一生懸命さになごんで笑ったのです。

アロイスのスベり芸が疲れ果てて心すさんだ兵士たちに生きる気力を沸かせたのは、冗談が面白かったからではありません。アロイスのたしなむ「ダジャレ」というものの性質自体がそうですが、言葉とは合理的な意味だけを伝えるものではありません。アロイス芸は言葉で遊ぶことを通して、励ましの気持ち、愛を伝え、人の心をなごませ包み込むあたたかさです。

 蒼月ルートでディミトリがたどり着いた「対話する」という方法も、話したからって解決方法がまとまるわけではありません。実際エーデルガルトとの会談でも二人の理論は特に交わることはありませんでした。獣と人の間にもはっきりと言葉は通じません。しかし、「話す」ことによって気持ちが、愛が、信頼が伝わり合うことこそ、対話という理性の本当の目的なのです。

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青き獅子の心臓

 蒼月ルートのテーマとなる人間性は、上で述べたように「対話する理性」「言葉による切り分け」「かたちも利益もない信念」でした。だから蒼月ルートの主人公はある意味ディミトリという獣を適切にトリミングする剣・フェリクスであるともいえるのですが、それでも蒼月ルートはディミトリの物語であり、ファーガスの王はブレーダッドです。切れ味鋭い「剣」はあくまで不完全な人間の心が使う道具であり、フェリクスにとっての「不完全な人間の心」とはディミトリのことだからだ、と「皇帝」アルカナの項でも述べてきました。

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 ディミトリは世界の大多数を占める「弱い人間」、確たる信念を持つことができず、あれとこれとを切り分けられず、感情に振り回されて間違い、すぐに膝が折れてしまう、ふつうの人間――つまり、われわれ――たちのための王です。ブレーダッド家の中興の祖・獅子王ルーグもおそらく、弱く踏みにじられる人々のために泣き叫びながら立ち上がり、その爪と牙を振るったのでしょう。

 

紋章がないからとマイクランを廃嫡したゴーティエ辺境伯は、間違っていると思う。
……だが、長く続く慣習には、それだけの理由があるものだ。
仮にこの世の誰もが紋章を軽んじるようになれば、どうなると思う。紋章を継ぐ血はすぐに淘汰され、脅威に抗うための刃も錆びついてしまうだろう。
……長年繰り返されてきた議論だ。誰もが正しく、誰もが間違っている。

――ディミトリ

 

 エーデルガルトが「人間は理想に向かって前進できるはずだ」と考えて世界を革命したことも、人間への愛の輝きでした。ディミトリは革命ではなく、どちらかというと伝統や慣習を重んじる「保守的」な道をゆく王です。「人間は弱くて間違う生き物であり、その社会もいつも宿命的に不完全だ」と考え、それでもそういう人間たちを愛したからです。

 

バークはこう考えました。頭のいい1人が書いた設計図とか思想よりも、多くの無名の人たちが長い時間をかけて紡ぎ上げてきた経験知であったり良識、それは伝統や慣習として姿を現すものですが、そういうものにまずは依拠してみるのが重要じゃないか、と。(中略)左派の革命のように、「これが正しい答えです。この通りにやって下さい」と言うのではなく、歴史の中の様々な叡智に耳を傾けながら、徐々に変えていく。つまり「永遠の微調整」です。漸進的な改革を常にやり続けていくのが保守的な世界認識だ、と。

(中略)間違っているかもしれない。だから、いろんな人たちの意見を聞いてみよう、と。少数者の意見に「なるほど」と思えば、その意見を反映して合意形成をしながら一つ一つやっていく。これが伝統的な保守政治家のスタイル。だから、「議論」とか「対話」を重視してきた。

――江川紹子『「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学』より、中島岳志へのインタビュー(太字は記事表記ママ)

 

 現代日本においては「保守」という言葉が「旧態依然をよしとする」「復古主義・権威主義・排他的な」という意味で使われがちですが、保守的政治とは本当はそういうものではありません。ディミトリもまた、変えるのが怖いからとか怠惰によって伝統や慣習を守ろうとしているのではありません。よりよき世界を目指すために、自分たちが永遠に不完全な「獣」であることを認め、伝統や慣習というかたちで残されてきた名もなき死者たちの叡智の力を借りて微調整し続けていこうというのがディミトリの「堅忍」の美徳です。

 

 当ブログの記事『青き獅子の心臓』の表現の繰り返しになりますが、嘆きと怒りを利用され教会に反乱を起こしたロナート卿や民兵たちを殺さなくてもよかったのではないか、とか、ディミトリがエーデルガルトと何か他の方法で理解し合える道があったのではないか、とか、ディミトリも「何か」と言っているように、それがどんな方法なのか、ディミトリには見当もつかないし、われわれにもわかりません。「信念」とは夜空の月のように遠く、永遠に見上げ続けるものです。

話し合いですべてが解決することはないし、解決したと思ったら別の誰かが苦しむことになる。互いに傷つけ合わずに譲り合い、認め合うなどという理想は、人がそれぞれに心をもって生きていることとは矛盾するのかもしれません。なぜなら人間の心は、永遠に不完全で制御しきれない獣だからです。

自分が生きているあいだには、もしかしたら永遠に、答えは見つからないのかもしれません。しかし、それでも……。

それでも、と、決着のつかない理想、返事が返ってこない人に、愛の手を伸ばし続ける不断の、途方もない努力が、ディミトリの「力」です。

 

 

 

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