冬の街の、小さなテーブルを歩道に出したベーカリーで午ご飯を食べることにした。
リークとチックピーが入ったクリーミートマトに玉蜀黍のスコーンが付いたスープと、
ベーコンとチェダーチーズのパイ。
店は、小さな煉瓦造りのスタンドアローンの建物で、
「元はコミュニティ・ジェイルかな?」
と言うと、モニさんは
「そんなこと、あるわけない」と笑っています。
なぜ、そんなことない、のかは、いつもと同じで教えてくれない。
ガメが、また、ヘンなことを言う、で済ませてしまいます。
7月も後半になって、やっと空気が冷たくなってきて、気温も16℃辺りから12℃くらいまで下がってきて、少しは冬らしくなった。
それでも真冬なのにTシャツ一枚で丁度いいので、やってくる夏は、どうやらずいぶん暑くなりそうです。
北半球では、現に、地中海沿いは炎が広がるように炎暑が拡大して、普段は避暑地を目指す友人たちが、めいめい、ピレネーの山奥や、南半球を目指して移動してしまっている。
それにしても、ここのスープ、おいしいね、と述べると、モニさんが頷いている。
頷いているが、心は、違うところに向かっていたようで、なんだか、わしの背後に目をやっている。
ふり返ると、そこには、二三人のひとたちが、ばらばらに、みっつほどの箱を重ねて抱えて歩いています。
ばらばらなのは、歩み去る方向で、もっいるものはみっつの箱と、ひとつのバッグで同じである。
声が聞こえてきて、「また来てください。遠慮しては、ダメだよ」と大きな声で述べている。
見ると、例の黄色とオレンジ色の作業ジャケットを着た、マオリの女の人の警備員が、
箱を抱えたひとたちに呼びかけている。
驚いたことに、どう見分けるのか、道の反対側を通行する人たちにも、
「食べるものはあるの? ここでは無料のランチを配っているのよ。
遠慮しないで、持っていきなよ」と声を掛けています。
声を掛けられた人は、例外なく、方向を転換して、道路を横断して、コミュニティセンターらしいおおきなコンクリートの建物のなかに消えてゆく。
お礼を述べている老人がいる。
片手をあげて、ありがとう、の気持ちを伝える若者がいる。
見ていて、悪い癖で、涙が滲んできてしまった。
どんなに一所懸命やっても、ダメなときはダメで、そういうときには、なにをやってもうまくいかない。
自分が世界にとって、何の価値もない、「余計な」人間に思えてきて、頭がだんだん、どんよりしてきて、ますます、やることなすこと、うまくいかなくなってゆく。
そうすれば、当然のように「貯え」は乏しくなり、家賃は払えなくなって、
つまみだされるようにして、アパートを追い払われる。
初めは何よりも尊厳の問題であったのに、あっというまに、空腹をいかに満たすかという問題に変わって、足掻いても足掻いても、すり鉢型の砂の罠に落ちたけもののように、明るい場所に出られないで、絶望だけが膨らんでいく。
押し潰されそうだ、とおもったときに、タイミングよく、巧く、救いの手を差し伸べられるかどうかが機能する社会と、機能を持てない社会の岐れ目でしょう。
この広い世界には、いろいろな国があり、様々な社会があって、なかには生活保護を受ける人間を指して「われわれのカネを盗むやつがいる」という信じがたい傲慢と冷酷さに満ちた、文明の光のかけらもない社会も存在する。
信じてくれない人がおおいが、未開な社会とは、そういうもので、そもそも社会がなんのために存在するかさえ、理解できない人が増えると、本末が転倒して、社会のために個人が存在することになって、そのなかでも教育を受けられなかった人たちのなかには、自然権が義務を果たした見返りだと主張する人まで現れる。ちょっと考えれば判るが、社会への義務を果たさない人間は、牛さんや、セミとおなじ存在だという主張です。
知識として知ってはいるが、幸いなことに、現代社会は、そこまでの蒙昧からは脱したので、ただ懸命に、「いまは調子が悪い」仲間に、世界の地べたに腹ばいになって、必死に手をのばして、いちどとらえた地の底に落ちようとする仲間の手を離すまいとする。
その手をつかんだ人間が、ずるずると奈落に呑み込まれないように、二番目の人、三番目の人が、足をつかみ、引っ張りあげて、なんとか救おうとする。
「そうやって、やってきたが、もう自信がないんです」と、若い人と話していたら、急に涙ぐんで述べだしたことがある。
「もう他人を助ける余裕がない。自分で生きていくだけで精一杯なんです。
自分で自分を軽蔑する気持ちで、いっぱいになる」
世界は競争が激しくなって、昨日まで「うまくやっていた」人が、あっというまに転落する。
落ちた落とし穴から、這い上がれなくなる。
世界から余裕も余白も失われて、まるでお互いの身体をつかみあって、引きずり落とそうとしながら、崖を這い上がるようなことになっている。
人口が80億人というような世界では、根源的な問題として資源が絶対に不足するので、いままでと同じ観点や考え方で、世界が成立しうるわけがない。
互いの競争で生産力を増し、効率をあげて、世界が拡大していくフェーズは、すでに終わっているのかもしれません。
日本の人などは「おれたちは強い。この世界では強いものが勝つのだ」の信奉者なので、吹き出してしまいそうだが、人間は、ついに助けあわなければ、誰も生き残らない段階に達したのかもしれない、と、このごろ、よく考える。
W. H. Audenは、有名な詩、September 1, 1939に、
We must love one another or die.
と書いたが、次の版では詩句を消してしまおうとした。
理由は、「人間が互いに愛しあうなんて不可能だから」でした。
別のところでは
We are all here on earth to help others; what on earth the others are here for I don’t know.
と述べていて、人間には相互に理解しあう能力などないのではないか、と生涯、深く疑っていた、この人は、しかし、一方では、人間などは、お互いに助け合えなければ、ひとり残らず亡びる運命にあることも、よく判っていた。
マオリ族の警備員の女の人は、職分ではないのだから、失礼な応答が返ってくるときの嫌な気持になる危険を冒して、
通りすがりのひとたちに「ここには無料のランチがある。あなたは必要としてはいないか」と述べる必要はなかった。
警備員の仕事は、当たり前だが、警備で、落魄した老人が箱を抱え込んでベンチに座り込んでいるところに歩いていって、励ましたり、話を聴いてやったりする必要もなかったはずです。
当たり前のことだが、ひとりひとりの親切心が、自由社会を、なんとか、かろうじて成り立たせているので、肩をそびやかして、自負心があるんだかなんだか判らないが、他者への一片のempathyも持たない人間には、日本でいえば、日本語の、あの不思議な表現「社会人」を名乗る資格などない。
立場を転じて、社会の側から見れば、empathyやintegrityを持たない人間は、一見、有用そうで、その実、社会を根底から破壊する、破壊者にしかすぎないからです。
ベーコンとチェダーチーズのパイが、あまりにおいしかったので、テイクアウェイの分も頼んで、
帰り際に、警備員の女の人と話しました。
わしとモニと警備員の人と、どんな話をしたかは内緒だが、帰り際、海の人たちの末裔らしく、でっかい身体の警備員の女の人は、びっくりするくらいおおきなハグをくれた。
でっかすぎて、もう少しで、買ったばかりのパイを落っことすところだった(^^;)
風がいっそう冷たくなった街を、駐車場まで、
「まだ、だいじょうぶだ。きっと、まだ、なんとかなる」とおもいながら歩きました。
声を枯らして、ここには救いの用意がある、と述べ続けるひとがいるあいだは、
まだどこかに人間性の希望は生きていて、暗闇のなかで、光を保っているのだと信じています。
手を差しのばして。
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