政府の愚かさが国民を殺す、というと、なんだかおどろおどろしくて、安物の反政府言説めいているが、かつてのトランプのアメリカ、ブラジル、インド、日本は、なにしろ現下の現実が安物めいているので、プラスチックな表現が、ぴったりあってしまう。
最近は、なにしろ事情がよくわからなくなっていることもあって、日本の、あれこれの問題に口を出すのは、控えている、というよりも、自分で日本語ファンとして、それじゃダメなんじゃないの?とおもうが、心的、物理的距離が生む必然、関心が薄くなっていて、いろいろなことを言わないですませてしまっているが、読む方は少しは読んでいて、世にも珍妙な「PC検査抑制論」は取り分け興味をもって初めから読んでいた。
論自体は、いろいろ専門家として、半可通の一般人と違う見解をみせたい虚栄心はわからなくはないが、児戯の範疇というか、噴飯物で、ここで解説する必要もなさそうです。
6ヶ月もすれば日本語人にも、自動的に、霧が晴れたように事情が見えるようになって、唖然とさせられるだろうけれども、闇夜の鉄砲というイディオムそのまま、なにしろどこに致死性のウイルスが偏在しているか、手探りもしないで対策しようというので、多分、背景には、初期において日本とアメリカの「専門家」に特にその傾向が強かった「COVID、COVIDと騒ぎすぎる。要は、単なる悪性のfluではないか」と、いまは唱えていた「専門家」がいちように口をつぐんでいる。「コロナなんてfluみたいなもん」説が背景にはあるのでしょう。
そんな大規模PCR検査みたいに、いまの医療体制をおおきく変更しなければならないことを、わざわざやらなくたって、戦前につくった、日本が誇る「保健所」体制で十分対処可能ですよ、ということだったのだとおもいます。
いまから振り返っても、遠いことで、見えにくくなっているけどもね。
ほんとうは、全然、十分でなかったのだけれども、そこが日本文明の顕著な特性で、十分でなくて、逼迫してくると、想定にあうように現実、この場合は陽性を疑われる人間の数を、想定の規模の身丈にあわせて、無理矢理すくなくしていった。
コロナ?
あんた、なんでもかんでもコロナじゃないかと言い出したら、わたしらの医療商売は、あがったりですぜ。
やめてもらえませんかね。
熱がある?
息が苦しい?
そのくらい我慢しろよ
ということで他国ならPCR検査を数回おこなって、陽性になったら、処理プロセスに乗せる患者を、自宅でうんうん唸らせておくほうを選んだ。
なぜかって?
だって、そっちのほうが都合がいいんだもの。
愁訴する人間をいちいち真に受けてたら、疫学なんてなりたたないのを、あんた、知らないの?
いまから振り返ると、他国が、想像する日本の事情はこうです。
英語としては、実は、かなりヘンな言葉なのだけれども、マス・マスキング、という。
語感に逆らった無理矢理な単語の作り方から言って、アメリカ人たちがつくった言葉でしょう。
いちど品川駅の朝の光景が、ニュージーランドのニューズに出ていたことがあって、拡幅された、改札から北口階段を経て横断歩道に出るところだったが、何千人という通勤人が、ひとり残らず、文字通り、ひとり残らずマスクをしていて、見ているほうは、一瞬、マスクをしていない人を見ると、みんなで示し合わせて電車が入ってくる線路に突き落として、内緒内緒で始末しているのではないか、と考えてしまうくらいの例外のなさです。
5年前だったか、欧州の帰り途に、ストップオーバーで東京に立ち寄って、定宿の帝国ホテルから麹町の、なんだかそこだけは意識して放射能汚染されていない食材だけを厳選して食事を提供しているから、そこで夕食を食べてくれ、予約はもういれてあります、と家宰さんに指示されたレストランに、歩いていく途中、皇居の内堀を通ったら、なにかがおぼえている東京の光景と異なっている。
なんだろう?
と考えて、あらためて観察すると、自分が知っている日本の日常の光景とは逆に「ガイジン」たちがマスクをしていて、日本人はしていない。
ああ、福島第一事故で飛散した放射性物質が付着した土埃が、春一番に乗って大気中に拡散されている、という、あれか、と気が付いて、西洋と日本との考え方の、視覚的な対比に、おもしろいなと思ったことがあった。
日本のひとは、印象として、マスクが大好きで、病院の外科病棟にでも出かけなければマスク姿の人間を拝めない社会に育った、わしとしては、初めのころは、ぎょぎょぎょっ、な気持ちによくなったものだった。
すぐ、なれちゃいましたけどね。
軽井沢銀座で、サンバイザーをひきおろして、でっかいマスクをして、肘まである長い手袋をしている女の人を見ても、動揺しなくなっていった。
他のいろんなことと一緒に「日本の習俗」として「理由はわからん箱」に解決の見通しのない未決案件としてしまっておいた。
フルニカブを着て、ニュージランドのケンブリッジ、日本でいえば、どこだろう? 松本くらいになるのかしら、農産物の集散地の、ワイカトの街で暮らした白い女の人によると、表面で見るのとは違って、ニカブ姿では、ずいぶん地元住民の嫌がらせに遭ったらしいが、そのひとが、たいへん面白いことを述べていて、頭からすっぽりブルカをかぶって、通りを歩くと、安心できて、なんだか自分が守られているような、透明人間になって、誰からもあれこれ品評されない存在になったような気持ちだというのです。
ニカブという繭におおわれている。
アラブ学を専攻した日本の女の人もtwitterでまったく同じ趣旨のことを述べていた。
仮説としては、日本の人もマスクをすることで、自己防御の感覚を得ているのではないか。
なんちて。
ことほどさように、日本の人はマスクをすることに抵抗がないので、世界でも稀なマスマスキング、ATOKの変換によれば益々キングで、日本人はコロナの広がりを、なにしろPCR検査さえ抑制してしまうくらいなので、数自体はうそっぱちに決まってると世界中の人間が考えているが、それにしても路地に屍体が並ばない程度には、抑えられていたように見えます。
実際、そのころは、わしなども「日本の人らしい」と笑ってみていることができた。
国民のひとりひとりが、職人気質的な、アスペルガー人的な努力で、手を洗い、マスクをして、「自分で気を付ける」涙ぐましい努力をして、唖然とするほどバカタレな政府や自治体、医療「専門家」の痴愚をカバーしている、というのは、実は他国の人間が、戦争からビジネスの諸事万端において、日本に対してステレオタイプ的に持っているイメージでもある。
ところが連合王国で盛んに報告されているように、新しいUK変異株は、イギリス人の憎たらしい国民性を反映して、マスクの効果がないのですね。
ゼロではないけれども。
クリムゾンキングの宮殿をプリントした、おちゃらけたマスクでは、早晩、く、苦しい、酸素をくれ、になってしまう。
のおんびり書いてきてしまったが、日本は、どうやら、衆目の一致するところ、地獄の門の前に立って扁額をみあげている。
Lasciate ogne speranza, voi ch’intrate.
という、例の、あれです。
汝ら、ここより入れるものは一切の希望を捨てよ
経済の女神さまに色目を使いながら、おもいつきで、言葉の綾のようにして、防疫をする、という、ペストの昔以来、絶対にやってはいけません、な曖昧な笊政策を取り続けた結果、日本は、イタリアを先頭に地獄の門をくぐった他の国々が出口から出始めたいまになって、地獄の門から入っていくことになってしまった。
マスマスキングと国として持ち前の幸運で、1年の猶予が与えられて、そのあいだ起きていたことは、最近の日本ではお馴染みの光景、現場の医療従事者の「聴き取りにくい声」をかき消して、イソジンが効く、夜遊びをするやつが悪い、非科学的なことだけが共通な、言葉遊びの屁理屈の応酬で、この問題についても、見事に、ああでもないこうでもない、「何もしないためならなんでもする」、世界に稀な国民性を発揮して、評定に終始して時間が過ぎてしまった。
三十代で失職する人がおおくなった。
こういう例があります。
なにしろ会社にいて居職(いじょく)をするような文化業種なので、コロナが日本でもやばくなりそうだから、在宅勤務を考えてもらえないだろうか。
そのためにIT機器その他は、自費で用意します。
結果は、口には出さないまでも、50代や60代の会社幹部たちは、傍目には明らかで、「若い女のくせにナマイキだ」という気持ちも先に立って、「きみには営業のひとたちが、毎日出社して、きみたちがつくったものを売るために感染リスクを冒して対面で仕事をしているのが目に入らないのか」と言われた。
ちょっと正直に述べて英語社会では考えられないが社長が直々に呼びつけて幹部ふたりと三人で、密室に閉じ込めておいて、声を荒げて、怒鳴りつけたそうでした。
もっと堪えたのは同僚の男社員たちが、幹部のお墨付きを得たということか、安心して、すっかり冷笑的な態度をむきだしにして、当人がインタースクール出身だからなのか、世界を標準に戦う「グローバル戦士」と揶揄いだしたそうで、そこまでいじめがひどくなれば、まあ、誰だってやめる。
やめないのは人間性に海兵隊戦闘員的な、たたきこまれた欠陥がある人だけでしょう。
見事に失業してしまった。
失業してみると、日本語の世の中は再就職や起業どころではなくて、我慢ができなかったあんたの自己責任で、ネット喫茶での寝起きも視野に入ってきそうなくらい、目の前が真っ暗になっている。
さらによろしくないのは、現今の日本の「コロナ下の生活習慣」は、弱毒性、というのがいいのか、毒、はそぐわないので、弱病性、なのかしら、いまから思えばかわゆいものだった初代のCOVID19をウイルスのイメージとして出来ている。
オタンコナスのボリスの連合王国とおなじで、手を洗う、マスクをする、人と、あのヘンテコリンな日本語で言えば「密」の状態を避ける、とやっているうちに初代とは異なって強毒性に変わったコロナに冒されて屍体が文字通り山をなすことになる。
こういう厄災においても国民性は出るというか、立ち上がりが最悪だったアメリカ合衆国は、ワクチンが出来て、生産に馬力がかかりだすと、すさまじいまでの冨の力で、数ブロックを一挙に買い上げて更地にして、あっというまにコロナ専用病棟をつくる。
怒濤のように社会へ出てくるワクチンを接種させまくって、どんどん終熄に向かっている。
今回ばかりは内心「イギリス式」のケチケチ策を反省したのでしょう、連合王国ですら、ワクチンを戦争中の日本軍パイロットのシャブなみに打ちまくって、一週間で一桁すくない2400人だかに感染者数を減らしてしまった。
お下品な言葉でいえば「勝負に出た」のですね。
仕事もなく、したがって収入のあてもなく、はっきり言ってしまえば突然変異株への無知によって、平然と至近距離で対面で話しかけてくるハロー事務所で、8時間も、わしがコロナウイルスなら大喜びしそうな環境で、日本名物、次から次へ、いったいどの程度必要なのかもわからない書類に署名と捺印しまくって、きみは、家に帰って、疲れ果てて潜り込んだ、ベッドのなかで、涙が頬を伝うのを感じている。
まるで、わたしの頬じゃないみたい、と考えている、
きっと、このわたしの肉体は、わたしではなくて、誰かほかのものなのではないかしら。
きみは自分の魂の部屋を点検してみて、冗談でも誇張でもなくて、そこにただ「絶望」だけがあるのを再確認している。
あのですね。
余計なことをいうと、問題の最大の本質は「1年間のサバイバル」なんです。
コロナで死ぬのは困るが、これはハンディキャップみたいなものだとみなしたほうが、より現実的であるとおもわれる。
どうやって定職への復帰なしに1年を生き延びるか。
そんなバカな、ときみは言うかもしれないが、1年で解決すると仮定してよいとおもいます。
その理由は、そうね、いま5月だから、わし誕生日がやってくる11月の終わりになったら、また記事に書くのではないか。
いま書いても信じてもらえそうにないもの。
1年。
必ず、生きていてください。
いいことは、あるんだよ。
理性が身につくと、現代では、なかなか信じられないが。
日本語を通じて、一緒に歩いていければ、並んでムダ話をしながら一緒に行きたい。
これから述べようとする言葉がおおげさにすぎると思う人は、このブログをしばらく読まない方がいいと思う。
事態はビンボ人個人にとっては、切迫しているんです。
死なないで!
また、必ず、会えるからね
Categories: 記事
無駄話する為に生きる
生きてたら、
いつか会えるかもしれないしね。
11月生まれって初めて知ったわ
会えるよ。ということだけは少なくとも疑ってない。ことのひとつ。この世界において。
無職のいろんなものからニカブで顔を守りたい日本人女性より。