▶ ヤン・コマサの映画『 聖なる犯罪者 』( 2019 ) を通じて "回心" を神学的・哲学的に考える

 

 

公開  2019年
監督  ヤン・コマサ
脚本  マテウシュ・パツェヴィチュ
出演  バルトシュ・ヴィェレニア    ( ダニエル )
    ウカシュ・シムラト       ( トマシュ神父 )
    トマシュ・ジェンテク      ( ピンチェル )
    ズジスワフ・ワルディン     ( ヴォイチェフ神父 )
    エリーザ・リチェムブル     ( マルタ / リディアの娘 )
    アレクサンドラ・コニェチュナ  ( リディア / 町の教会の管理人 )

 

 
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章  犯罪者からキリスト教司祭へ

 

少年院でトマシュ神父の説教に感銘を受け信仰に目覚めるダニエル ( 1~8 )。

 

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キリスト教の司祭になりたいという相談をするが、犯罪の前科がある者は無理だと言われる ( 9~12 )。

 

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釈放後、製材会社で働くことになっていたダニエルだが、そこへ向かう途中で立ち寄った教会で身分を偽り、自分は司祭だと告げる。教会のヴォルチェフ神父はダニエルを気にかけて泊まるように言う ( 13~16 )。

 

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ヴォルチェフ神父が体調を崩したため、教会管理人のリディアからどうするのか聞かれる ( 17 ) が、現代の若者的な振舞いとして、スマートフォンで手引きを参考にしながら告解を行うダニエル ( 18~22 )。

 

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告解の場面を何とか乗り切ったダニエルに対して、告解の形骸化を憂いながら ( 23~26 ) 体調が戻るまでダニエルに代理司祭を頼むヴォルチェフ神父 ( 27~30 )。おそらく、このシークエンスにはヤン・コマサによる 司祭の制度的形式性を疑問視する秘かな主張 が込められている。もちろん、それは司祭という存在が駄目だということではなく、司祭の振舞いが信者の本音に敢えて触れない事によって事態を黙認しているのを揶揄するもの。

 

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この場合、事態の黙認とは、この町で起きた交通事故の犠牲者たちの扱いに関するものなのです。犠牲者たちは、被害者6人と加害者1人、の7人 ( 7人全員亡くなっている ) なのですが、加害者1人は教会の共同墓地に入れてもらえず、事故現場に飾られた犠牲者たちの追悼写真に入れられる事さえ許されていないという状況であり、ヴォルチェフ神父でさえ、それを肯定しているという状況な訳です ( 31~36 )。

 

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その後、ダニエルは同じく少年院を釈放されてきたピンチェルに見つかり、正体を周囲にバラされたくなければ金を払えと脅される。そのような状況で、ダニエルは代理司祭としてミサを行い、驚く事にそこで自分が殺人者であることを告白する ( 37~40 )。そしてさらに赦しという愛を説く ( 41~44 )。

 

これはダニエルの自己弁明とも受け取れなくはないのですが、どちらかというと、先に述べた交通事故の加害者を赦すべきだという司祭としての信仰的立場からの主張だと考えるべきでしょう。もちろん、常識的な立場からすると、事故の被害者の親族らが加害者を許せないのは当然で、共同墓地に埋葬するなんてとんでもないという話になりますね。

 

しかし、ヤン・コマサはストーリーの中に被害者たちも事故の前に飲酒した状態で車を運転していた事実があることを差し込んできて私たちの見方に揺さぶりをかけてきます。しかし、それ以上に重要なことは 加害者を赦す事が出来ないのであれば信仰とは一体何なのか という無意識的メッセージを投げかけているという事です。ここで、だから加害者を赦すべきだという安易な解答を用意していない ところに、ヤン・コマサの、そしてこの作品の、巧妙さがあるのですが、それについては以下で考えていきましょう。

 

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ミサの後、ダニエルは町の人々に対して交通事故の加害者スワヴェクの共同墓地での葬儀を行うと発言する ( 45~48 )。静まり返る人々 ( 49 )。

 

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 2章  聖人と犯罪者

 

教皇庁からの命令でダニエルの様子を見に来たトマシュ神父 ( おそらくピンチェルの告発がきっかけ )。激高してダニエルに食ってかかる ( 50~51 )。自分が代わりに葬儀のミサを行うから引き下がるようにダニエルに言いつける ( 52~55 )。

 

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司祭の真似事が終わった現実を悟ったかのような表情を見せるダニエル ( 56 )。振り返り、自分の背後に祭られているキリストの磔像を眺める ( 57~58 )。そして上着を脱ぎ裸体を見せるダニエル。言うまでもなく、ここでダニエルの姿はキリストの磔像と重ね合わされている ( 59~61 )。

 

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さて以上の重要な場面をどう解釈すべきでしょう。ここで思い起こすべきは、『 聖なる犯罪者 』のポーランド語原題『 Boże Ciało 』、ラテン語経由の英語タイトルでは『 Corpus Christi 』なのですが、これは "聖体の祝日 / 聖体祭" と呼ばれるものであり、文字通りに言うなら、『 キリストの身体 』なのですね。特にカトリックのミサにおいては聖別されたパンとブドウ酒が典礼中にキリストの身体と血に "聖変化する" という教義があるように、聖人の身体は脱俗物的な "聖なるもの" として見做されます。

 

しかし、ここでヤン・コマサはそのようなキリスト教教義に忠実であることを示そうとしているのではありません。この映画を作った時、ヤン・コマサは宗教界から司祭の地位を貶めていると批判されたりしたらしいのですが、それどころか彼はもっと過激なことに、聖人と犯罪者を存在論的地位において重ね合わせている のです。聖人と犯罪者を対極的なものとして結びつけて描き出したのではなく、聖人と犯罪者を同一のものとして描き出す というエキセントリックな手法によって観る者の思考を一時停止させてしまったのです。それ故に多くの人は以下のラストの場面をどう考えるべきなのか分からず、56~61 の場面を以てある種の感動を呼び起こす作品だ ( 確かにこの場面ではヤン・コマサは意図的に感動を演出するという狡猾さを見せてはいるのですが ) などという中途半端な感想を抱いたりする。

 

しかし、ラストの場面 ( 62~63 ) は、私たちに感動を超えて、解釈をさらに先に進めさせるものになっています。少年院に連れ戻されたダニエルは因縁のある相手 ( ダニエルが少年院に入るきっかけとなった殺した相手の兄 ) と決闘して彼を殺してしまう再び殺人を犯す事で当初の犯罪者の地位を再確認する地点に舞い戻ってしまった のです。

 

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 3章  道徳の彼岸としての奇蹟



以上の事を考慮するならば、( 56~61 ) の場面でキリストの磔像とダニエルの裸体の重ね合わせとは、キリストとダニエルの即興による感動的説話 ( 興味深い事に、結果的に陥れたとはいえピンチェルはダニエルの説話に感動したと言わせる演出をヤン・コマサは行っている ) が、例え聖人と犯罪者という相対するものであれ、奇蹟という "出来事" を切り開いた空間に存在した人間として同じも として考えられるのです。そのような空間における同時性を担保するものとしてキリストの磔像とダニエルの肉体が "共-聖なる物" として描かれているのであり、もっと言うならば、キリストの肉体がダニエルの肉体へと "聖変化した" と解釈することも出来るでしょう。

 

確かに、聖人キリストと犯罪者ダニエルを聖なるものとして扱う事に嫌悪を示す人も多いでしょう。しかし、この映画はそのような道徳次元への侵犯のみを目的としたものなのでしょうか。もしそれだけであるのなら、もっとキリスト教を徹底的に堕落的なものとして描くことも可能だったはずです。ヤン・コマサはこの作品では道徳的侵犯によってキリスト教の信仰それ自体を破壊しようとしたのではなく、本来、"回心の奇蹟" が誰に対しても現れうるという普遍的可能性 が、交通事故を巡る町の人々の振舞いという事例を通じて、すぐに閉ざされてしまう事のどうしようもない必然性 を描き出している のです。

 

もう少し、哲学的考察を深めていきましょう。ヤン・コマサはこの作品において、誰に対しても現れる可能性がある回心の奇蹟 ( 当然、これが現れない人達の方が普通なのですが ) を、瞬間的な出来事であるという意味での奇蹟として無意識的に描いているのです。この場合、"出来事" というのは人間主体が経験する内面世界に収まるものなのではなく、人間主体を超えて、人間を横断する 外部的出来事だ という事です。

 

そのような 出来事の "物的外部性 ( これは神学的意味を超えた 人間の経験という行為自体の超越論性 に結びついている )" に貫かれるからこそ、人間主体はそれまでの 自分の内面の束縛性 を超えて回心する事が可能になる ( 例えば、聖パウロの回心など ) ( A )。その回心は内面的閉塞を超え、善悪を超え、道徳を超え、人間性を超える ( どのような人間であれ ) 瞬間的な出来事であるからこそ、開かれると同時に閉じられて消滅するものなのです。

 

こう考えていくと、キリスト教における信仰行為とは、回心の奇蹟という瞬間的出来事を無意識的に保存する再認化行為・記憶化行為であるかもしれないと精神分析的に解釈することも出来るでしょう。しかし、ヤン・コマサは、そのような回心の奇蹟は瞬間的なものであるからこそすぐに消滅する事を、ダニエルの犯罪行為への回帰で以て冷酷に描き出し、この作品を閉じたのだといえるのです、犯罪者でさえ聖人に重なる瞬間があるというスキャンダラスな示唆と共に〈 終 〉。

 

 

( A )

ここで "物的外部性"という唯物論的言い方をする事の意味を説明しておきましょう。例えば、人間主体の宗教的経験を ジャン=リュック・マリオン ( 1946~ ) のように現象学的還元に沿って "与え" という神的概念に収斂させ表面的に哲学的形式化を装ったとしても、結局の所、それは神秘体験という宗教的経験の超越論化・神学化でしかない。それでは哲学的思考は神学の中で消滅しまう事にしかならない。

 

哲学的に問題なのは、経験の内容 ( 神秘体験であれ何であれ ) ではなく、経験という行為自体の現実界 ( ジャック・ラカン的な意味での ) であり、その経験行為の形式自体が人間主体に宗教的経験を絶対化させているのです。経験行為における 瞬間的開かれ それまでの主体にとっての世界を別様に経験させる超越性を現わさせる事 を ジャン=リュック・ナンシー ( 1940~2021 ) は上手く語っている。彼は "関係" を脱構築しながら、その関係から現れる "開かれ" について次のように言う。

 

 私がアドラシオンとして示すのは、関係 ー われわれのあいだの関係、自己関係、世界への関係 ー のうちで、それを無限へと開くものを考慮するということに尽きる。その開かれがなければ、関係 rapport ( その十全な意味に於いて。おそらくこの語だけがその意味を担うのだ ) は失われ、ただの結びつき relation、つながり liaison、連結 / 接続 connexion だけになってしまうだろう。これら三つの用語が前提としているのは、主体あるいは実体は互いに結びつくが、その結びつきはしたがって存在の後に生成するものであり、存在に従属するということである。だが関係 rapport は存在に優先するのだ。その関係こそが実は存在の意味を開くのであり、しかも「 主体たち 」はそのことに全く疑念や不安を抱かない。なぜなら関係とは、すでに与えられている主体たちのあいだに生じるのではなく、関係こそが主体たちを可能にする、つまり彼らを創り出すのだから。

 

ジャン=リュック・ナンシー 『 アドラシオン キリスト教的西洋の脱構築 』 訳 / メランベルジェ眞紀 新評論 ( 2014 ) p.161~162

 

そして、その経験は人間を外部から横断するが故に、一見、人間を受動的にするが、その瞬間的受動は人間主体にそれまでの自分、自分の時間、人生、を遡及的に刷新し改めさせるという意味で能動的なものでもあるのです。それこそが経験の超越性であり、"超越論的 経験的二重体" としての人間を産み出すと考えられるのであり、実際、回心後のパウロは自分を刷新し新たなキリスト教主体として人生を全面的に書き換えてしまっているのです。

 

 ガラ 1:15-16 でパウロは自分のダマスコ体験のことを召命体験として物語っている。彼は福音を全世界の民に告げ知らせねばならない。そのために彼は母親の胎内からすでに選り分けられていたのであり、ダマスコの手前で実際にそのために召し出されたのだと言う。〈 中略 〉。従って、パウロはガラ 1:16-17 においてダマスコ体験を、そこで自分には預言者の務めが神によって定められていたことを発見した出来事として描き出しているわけである。ここで興味深いことは、キリスト教の教会を迫害していたパウロ ( ガラ 1:14 ) がほかでもないキリスト教の伝道者となったという人生の巨大な断絶にもかかわらず、自分の人生は母親の胎にあった時から一貫して連続していると見ていることである。律法に対して人一倍熱心なあまりキリスト教徒を迫害していた時代の自分についてさえ、パウロは神はすでにその時の自分を選り分けていたと言うのである!

 

ゲルト・タイセン『 原始キリスト教の心理学 初期キリスト教徒の体験と行動 』 訳 / 大貫 隆 新教出版社 ( 2008 ) p.293

 

人間を横断する "物的外部性" …… この哲学的表現を神学的に言い換えるなら、"" になる。これについてゲルト・タイセンは次のように言う。 

 

 さらにグンケル ( *B ) によれば、パウロが彼の教説によって初めてその霊の意味を変更し、人間の生活全体に「 原理的かつ道徳的な清めと聖化 」を付与する力としたのである。ルドルフ・ブルトマン ( *C ) はそのグンケルの見方を受けて、個々の教会共同体で一般的に広まっていた霊の捉え方とパウロがそれに加えた神学的な解釈を区別した。それによれば、パウロは霊について二通りの見方を知っている。すなわち、状態的な意味でのそれは、「 すべてのキリスト教徒が洗礼において ( 中略 ) 受けた霊の贈与のことであるが、より緊急な意味では、特別な瞬間に人間を外部から捉える力のこと である 」と言う。〈 中略 〉。すなわち、状態的な意味に理解される霊は通常宗教的経験に、緊急の意味でのそれは極限宗教的な経験にそれぞれ関係すると言える。前者の霊は日常的な生活の営みを導く力、後者の霊はその生活の中へ外部から侵入してくる力 である。パウロにおいて特徴的なことは、生活の中へ外部から緊急に非合理な力として侵入してくる霊を日々の持続的な生活の中で実を結ぶ力に変容し、後者を「 霊において 」生きられる生活に変えようとする点にある。

 

ゲルト・タイセン『 原始キリスト教の心理学 初期キリスト教徒の体験と行動 』 訳 / 大貫 隆 新教出版社 ( 2008 ) p.163~164

(*) 下線は当記事作成者である私によるもの。

 

( B )

ドイツの神学者 ヘルマン・グンケル ( 1862~1932 ) のこと。

 

 「 霊 」が宗教的経験を表す概念であることは、ヘルマン・グンケルによって発見された。それまで「 霊 」は、ドイツ観念論の意味で、神および人間の自己意識の同一性を表すものとして理解されていた。グンケルはそれに反対して、パウロの念頭にある教会共同体の中での「 霊 」は、第一義的には、もっと非合理な力であって、啓示、預言、異言、いやしの能力として顕在化することを論証したのである。それに対して、霊についての教説は二次的なものであるとした。

 

ゲルト・タイセン『 原始キリスト教の心理学 初期キリスト教徒の体験と行動 』 訳 / 大貫 隆 新教出版社 ( 2008 ) p.163 

(*) 下線は当記事作成者である僕によるもの。

 

(C )

ドイツの新約聖書学者 ルドルフ・カール・ブルトマン ( 1884~1976 )。聖書の非神話化解釈と実存論的解釈を土台とする実存論的神学を推し進めた。彼が教職にあったマールブルク大学の同僚教授には哲学者マルティン・ハイデガー ( 1889~1976 ) がいて交流があった。そしてハイデガーとの関連で言うなら、同大学で彼らの講義を受けていたのがハンス・ヨナス ( 1903~1993 ) とハンナ・アーレント ( 1906~1975 ) であるのは知られた話ですね。