ギレルモ・デル・トロの映画『 パンズ・ラビリンス 』を哲学的に考える

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監督 : ギレルモ・デル・トロ   

公開 : 2006

出演 : イバナ・バケーロ  ( オフェリア )

   : アリアドナ・ヒル  ( カルメン 〈 オフェリアの母 〉 )

   : セルジ・ロペス   ( ビダルフランコ軍大尉。カルメンの再婚相手 〉 )

   : ダグ・ジョーンズ  ( パン 〈 牧神 〉 )

   : マリベル・ベルドゥ ( メルセデス 〈 小間使い 〉 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 パンズ・ラビリンス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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 1.  〈 幻想 〉と〈 現実 〉f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain この映画通常思われている以上に哲学的な深みがある少なくとも僕はそう感じましたね大学などのアカデミックな哲学界では哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですがこの映画はその素人的な身振りは間違っていない事を示しています

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り人生をどう考えてどう生きるのかという問題がその人にとって第一義的な哲学であるのは当然ですそれ無くして自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし逆に言うとこの世界をどう理解するかは自分の人生をどう考えどう生きているかという事によって左右される

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   なぜこんな話をするのかというと 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には一定の〈 距離 〉があるからです人間誰しも成長していく過程で社会という〈 現実 〉に参加するようになる生きていくために …… 。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   その際人はその〈 現実 〉に適応するために水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )ではどう作り変えるのかそれは僕が思うにそれまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね自分の〈 世界 〉とは端的に言って〈 幻想 なのですがその 幻想 〉の改変 ( 哲学的、精神分析的にいうなら "幻想の横断 " ) を実行する という事になります

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   そういう言い方をするとすごく崇高な印象を持つかもしれませんが実際には各人の体験度合いによってはそれは横断というよりは切り刻む切り裂くという耐え難い経験である場合もある はずですこの時各人において興味深い事が起きます自分の〈 幻想 〉を横断して 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   以上の事をアカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると幻想 〉とは主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素  〉としての価値しかないもちろんここには最初に述べたように人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈 孤独 〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない御自分の人生哲学についてはどうぞ御勝手にという訳です

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画が興味深いのはそんな幻想 〉を〈 要素 〉ではなくひとつの〈 世界 〉として提示している 所です外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど幻想 〉も〈 世界 なのですつまり 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないしましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない幻想 〉と〈 現実 〉は並列的に人が生きるに足る〈 世界なのでありもし同時に生きにくいのであればそれは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   これを哲学的に非難しようとするのならその人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですねそれが出来ないからアカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです 1 〉自分の人生を背負うならば人生を生き抜くために幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だ と言えるでしょう

 

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 2.  〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   ギレルモはこの映画を魔法の王国が地底にありそこに住んでいるお姫様が地上の人間界を夢見て抜け出すという形で始める魔法の王国は太陽がなくわずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1 8. )。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら現在の話を始めていく ( シーン 9 14. )。一応ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末がそれとなく仄めかされている

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われてオフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り地下へと降りていく

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   ここでオフェリアは迷宮の守護神パン 2 〉 に出会うオフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる ( シーン 21 26. )。ここからオフェリアは日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になる のですがギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します現実 〉においてはフランコ政権下におけるスペイン内戦をオフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き幻想 〉の〈 世界 〉においてはオフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この辺りはギレルモのこの映画を政治的に解釈しようとする人にとっては打ってつけなのかもしれませんしかし僕はそのような解釈は部分的にしか同意出来ませんなぜならギレルモはあくまでも個人の〈 幻想 〉の世界を擁護しようとしているのであって政治的物語はあくまでもそのための対比としてしか機能していないと考えるからですそうでなければギレルモのオタクカルチャーへの愛着はうわべだけのものでしかないという事になるでしょうそれにしてもこのパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   途中の過程は省略しますが最終的にオフェリアは魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されますしかし連れて来たのはいいもの弟の血が必要だと言われ拒否した結果王国への帰還の話は無かった事になるそして子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。でもギレルモはこれだけで話を終わらせませんここからが大切なのですがオフェリアの死は揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらずギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとする のです

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   死に行く意識の中でオフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によってそれが可能になったという訳ですさてこの場面をどう解釈すべきでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   現実逃避という事でしょうかいやそれでは十分な説明にならないなぜなら〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからですそれにオフェリアは死の直前まで弟を守るという現実的な行動を採っていたならばこの場面はオフェリアは現実的な死の際にも自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で彼女の主体的な振舞いで満ちている と解釈すべきです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって大きな教訓ではないでしょうか厳しい現実を前にして幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのかそれとも 〉にも関わらず自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのかという訳ですもちろんそれは他の誰でもなく自分にしか分からないのですが …… 。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   この後ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   ラストの一輪の花は幻想 〉の象徴 だというべきでしょう

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の偉大な哲学者はニーチェですねニーチェそれまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残したそれはマルクス主義的な革命のメッセージではなく読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 ) べきだという人生論的メッセージ だった ( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが他人の人生を背負う代わりに自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『 この人を見よ 』)

 

 

2 〉

f:id:mythink:20210212192015j:plain   パンとはギリシャ神話における森や山牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神ローマ神話ではファウヌス文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある最も有名な所でフランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 』。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシー『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 』。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) 』は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名

 

 

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