映画 『 ゴールデンボーイ ( Apt Pupil ) 』
公開 1998 年
監督 ブライアン・シンガー ( Bryan Singer : 1965~ )
原作 スティーヴン・キング ( Stephen King : 1947~ )
出演 ブラッド・レンフロ ( Brad Renfro : 1982~2008 ) トッド・ボーデン
イアン・マッケラン ( Ian Mckellen : 1939~ ) クルト・ドゥサンダー
デヴィッド・シュワイマー ( David Schwimmer : 1966~ ) エド・フレンチ
『 ユージュアル・サスペクツ 』、『 XーMEN 』シリーズ、『 ワルキューレ 』の監督で知られる ブライアン・シンガー がホラー作家スティーヴン・キング原作の『 ゴールデンボーイ 』を映画化した作品。彼の事を知っていても ( 現在では幾つもの性的トラブルでゴシップ的に有名になった感がありますが )、この作品を観る人は今ではほとんどいないでしょう。それくらい地味な印象の作品。しかし、この作品で描かれる〈 悪 〉のモチーフは、彼の映画作りの一端を間違いなく成しているし、その〈 悪 〉が私達の日常の中に常に潜んでいる事を主人公トッドの変貌と共に明るみに出すその描き方は、ショッキングというより淡々と成されている。そこには〈 怖さ 〉というより〈 不気味さ 〉があるのですが、そこに気付かない人は不気味なものに対して無感覚になっているとさえ言えるでしょう。
ちなみに『 ゴールデンボーイ 』という日本における映画タイトルは、小説の邦訳タイトルを踏襲しようという配慮から来ているのでしょうが、作品のイメージを伝えているとは言い難いですね。というのも "pupil" という単語が、教え子、弟子、門下生、などの "師匠との絆" 的なニュアンスがある事を考慮すれば、原作タイトルの『 Apt Pupil 』とは『 出来のいい教え子 』という意味になり、作品中で描かれる ドゥサンダーとトッドという〈 悪の継承 〉にまつわる師弟関係を含ませた皮肉的な表現 に他ならないからです ( もちろん、この映画の英語版タイトルも『 Apt Pupil 』)。それが『 ゴールデンボーイ 』になる ( 商業的なタイトルとしては響きがいいのかもしれないけど ) と、師匠であるドゥサンダーとの絆は消え失せ、トッドの単独性しか示せていない物足りなさを露呈してしまっているという訳です。
1章 ナチスの "悪" に同調していくトッドの "悪"
原作と同じく、この映画でも一番の見所といえば、トッド ( ブラッド・レンフロ ) に強要されてナチスの制服を着用したドゥサンダー ( イアン・マッケラン ) が、最初は嫌がっていたものの、かつての強制収容所の副所長としての血が騒ぎ、次第にその気になって軍隊式行進を行う場面ですね。
アーサー・デンカーと名乗る老人が、実は元ナチスのクルト・ドゥサンダーである事に気付いた高校生トッド・ボーデンは、正体をばらされたくなければ、自分の言う事を聞くように脅す。
「 着てみろよ 」 by トッド
「 わしを苦しませおって。張り倒すぞ 」 by ドゥサンダー
「 ユダヤ人の苦しみにくらべたら何でもない 」 by トッド
言われた通り、ナチスの制服を着て軍隊式行進を始めるドゥサンダー。次第にかつての姿の戻ったかのように熱を帯び、ナチス式敬礼まで行ってしまう ( 8~9. )。その余りの迫力にトッドは自分が言い出したにも関わらずひいてしまう。
「 やめろ! 」 by トッド
「 気をつけろ 坊や 」 「 これは危険な遊びだ 」 by ドゥサンダー
ここに至るまでのポイントは、トッドが元々、無邪気な少年で、ドゥサンダーと出会ってから悪に目覚めていくという設定ではなく、彼はドゥサンダーと出会う前から既に〈 悪の萌芽 〉を自分の内側に抱えていた ( *A ) という事です。映画の冒頭で、トッドは高校の授業でナチスによるホロコーストについて知るという場面があります。
通常ならば、多くの生徒はナチスの非人道的な虐殺という事実から、たとえ形式的にであれ、倫理的な教訓を引き出すのですが、稀にその倫理性よりも、命の尊重から懸け離れた野蛮な好奇心 ( ユダヤ人がどんな殺され方をしたのか、などの詳細を知りたがる欲望 ) ( *B ) を優先させる特異な生徒がいる。それがトッドだったという訳です。
つまり、ここには 過去に実在したナチスの悪とは別の、1人の少年の中に存在する〈 悪 〉が、ナチスの〈 悪 〉と出会い、覚醒していく過程 があります。トッドは強制収容所での殺しの詳細を聞くなどしていたドゥサンダーとの関係に終止符を打とうする ( 学校の成績が下がってきたため ) が、もう手遅れだとドゥサンダーは言う、つまり、お前はもう悪の領域に踏み込んでいるという事ですね ( 23~24. )。
「 君は まだ人を殺すことを決心できないでいる 」
「 殺すパワーはあるか?」 by ドゥサンダー
「 こんなことは終わりだ 」 「 もうここへは来ない 」 by トッド
「 はじまりと終わりに乾杯 」 by ドゥサンダー
「 勝手にしろ 」 by トッド
「 わからんのか わしらは互いに地獄の底まで一緒だ 」 by ドゥサンダー
この後、ドゥサンダーは自分の命に保険を掛ける意味 ( これまでの関係を清算すべくトッドが自分を殺さないように ) で、トッドに、自分達のやり取りを記した手紙を銀行の貸金庫に預けていて、自分が死ねばそれが公開される事になっていると脅す ( 結局、手紙の件はドゥサンダーの嘘なのですが )。
ドゥサンダーは、あるきっかけで家に招きいれた浮浪者をナイフで殺そうとする。刺された浮浪者はドゥサンダーの家の地下へと転げ落ちたが、ここでドゥサンダーは心臓発作を起こしてしまい、後始末が出来なくなってしまう。動けないドゥサンダーは電話でトッドを呼び出す。トッドはドゥサンダーと距離を置いていたが、銀行の貸金庫にある手紙の件が気になり助けに行かざるをえなかった。トッドはドゥサンダーを死なせないために、救急車を呼ぼうとするが、息を吹き返した浮浪者を殺してしまう・・・。
その一連の流れは、トッドの中の "潜在的な悪" がドゥサンダーによって引き出され、現実へと実在するようになった事を示す象徴的なシークエンスですね。それはトッドが自らの手で殺人を犯したという事だけでなく、それがばれない様に隠蔽し、自らの立場を守ろうとするズル賢さを同時に発揮するという "悪と知が結びついた恐ろしさ" を示しています。つまり、"生き延びようとする悪" という事です。これこそ、イスラエルの追求から逃げて生きるドゥサンダーの存在様式であり、それを継承しようとしているのがトッドという訳ですね。
入院したドゥサンダーは、トッドに手紙の件は嘘だと告げる。その後、ドゥサンダーは隣のベッドの元強制収容所の捕虜だったユダヤ人に正体を見破られ、訪れたイスラエル機関とFBIの人間にエルサレムに送還する ( 裁判にはかけられるものの、それは死刑を意味する。例えば、実際のイスラエルによるアイヒマン裁判は余りにも有名 ) と言われ自殺してしまう。
( *A )
このようなトッドと同様の少年悪を描いたB級サスペンス映画が『 危険な遊び ( 1933 ) 』。子役時代のマコーレー・カルキンとイライジャ・ウッドが共演している。
ジョセフ・ルーベンの映画『 危険な遊び 』( 1993 )を哲学的に考える
( *B )
そこにあるのは、他人の殺害の中に、自分を満足させてくれる何かがあるかもしれないと期待する歪んだ欲望に他ならない。
2章 引き継がれて生き延びる悪、トッドあるいはカイザー・ソゼ
トッドの高校の卒業式で、カウンセラーのエドはトッドの両親との会話から、かつて面会 ( ドゥサンダーはトッドの成績が下がった時に、トッドの両親にバレないように、トッドの祖父だと偽って会っている。両親はこの事を知らない ) したトッドの祖父であるはずの男が、元ナチスのデンカー ( ドゥサンダーの偽名 ) だった事を知るに至る。真相を確認すべくエドはトッドの所に向かう・・・。
しかし、トッドは怯むどころか逆にエドを、"性的関係の強要" という嘘の演出で以って脅す。自分を守る為なら何でもする男になっていたトッド・・・・・。
「 ぼくが初めてか?」
「 成績を裏取引し電話番号を教え 会いにくる 」 by トッド
「 何の話だ?」 by エド
「 男子生徒に手を出すとは 」 by トッド
「 思い入れたっぷりに握手したな 」 by トッド
「 まさか 私が君に何かしたと言うつもりか?」 by エド
「 必要なら何だってやる 」 by トッド
「 私は君を助けようと 」 by エド
「 悪い噂を流せば汚名は一生消えない。どうだ エド 」 by トッド
このシークエンスでのトッドのズル賢さは、ブライアン・シンガーの前作『 ユージュアル・サスペクツ 』の犯人であるキント ( ケヴィン・スペイシー ) と共通するもの があります。左の手足に麻痺のある ( 自分が犯人ではないと思わせるための演技 ) キントが巧みな嘘を語り通し ( それこそが映画のストーリーとなっていた事が最後に分かる ) 警察の取調べから解放され、徐々に姿勢を正しながら歩いていく姿は、彼こそが真犯人のカイザー・ソゼである事を示す有名なラストシーンですね ( 43~48. )。
『 ゴールデンボーイ 』を見た後では、トッドこそ、カイザー・ソゼの少年時代だったのではないか と想像したくなるほど、"生き延びる悪" という存在が2つの映画の共通モチーフとしてある事が分かります。原作者スティーヴン・キングの凄い所は、"少年" というものを、未来に開かれた希望などではなく、そんな価値観を打ち砕くが如く、"社会を脅かす悪の萌芽" として描いている所です。社会を混乱に陥れる悪の存在とは、遠い世界の住人ではなく、最も身近な存在でありながら、時として理解不能な行動をする "怪物" である事の象徴として少年を取り上げているという訳です。
原作では、トッドは最終的に銃による無差別殺人という狂気の行動に出て警察に殺される ( 邦訳ではそれが上手く伝わっていないけど ) ので、後味はよくないとはいえ、キングなりのケジメをつけているといえるでしょう。ところがブライアン・シンガーは映画では変更を加えています。トッドはキレて自分の立場を危うくするようなマネをせず、冷静にエド ( 原作ではトッドに殺されてしまう ) を脅迫するのですね。つまり、ブライアン・シンガーは、カイザー・ソゼと同様に トッドを生き延びらせるという選択をして、原作との差別化を図っている のです。
この事は何を意味するのでしょう? 一見すると、原作のラストの方がセンセーショナルですが、映画の方がより不気味だといえます。社会に混乱をもたらす〈 悪 〉が排除される事なく、いつ爆発するか分からない危険物として留まっている事を示してるからです。いや、正確に言うなら、社会からそのような〈 悪 〉を取り除く事の不可能性が示されている という意味で、映画は原作以上に救いが無いと言えるし、それは同時に、よくある映画的な結末よりも、決着の無い、より現実的な方向に近づけたものだと言えるでしょう〈 終 〉。
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