女の子にもなりたくないし、男の子にもなりたくない
ただ自分自身でありたいだけ
『Gender Queer: A Memoir』は、マイア・コベイブの自叙伝であり、生い立ち、幼少期から思春期、青年期にかけて音楽や漫画、LGBTQという概念との出会いを通して、自分自身の内面と「性」のあり方に向き合う過程と、葛藤や戸惑いなどの心模様を織り交ぜながら丁寧に描いています。成長の過程で経験する身体の変化や、家族や身近な人たちとの関わり合いや、多様なジェンダーのあり方の実践する人たちとの対話を重ねていく中で、自らのジェンダーやセクシュアリティのあり方をどのように表現したら良いのかを模索し、「彼」および「彼女」の二元論に巻き込まれてしまう人称代名詞に対して違和感を抱き、「ノンバイナリー ・ジェンダー」というジェンダー自認を持つにいたっています。
マイアにとって初の長編作品となる本作は、ノンバイナリー ・ジェンダーとして生きる人の等身大の姿と経験を映し出しており、性別二元論の枠組みを窮屈に感じる人、社会の中で強制されるジェンダー規範に対して違和感を抱く人、自分自身のあり方を偽らずに生きたいと願う人の心に共鳴する要素に充ちています。
もし私がトランスジェンダーなら、「男の子になりたい」じゃなくて、「私は男の子だ」と言っているんじゃない? そっちの方がもっとしっくりくる?
そしてもしトランスジェンダーなら、私はゲイの男の子? あるいはストレート(ヘテロセクシュアル)の男の子? もしくはバイセクシュアルの男の子?
セックスをしたいと思っているかどうかよくわからない、って以外は。それって、私はアセクシュアルってこと? アセクシャルだとしたら、私のジェンダーは問題にもならない?
そうだとしたら、私はただ女の子だってことだけど、女の子だって感じもしないし、私って何?
大学生の頃、自分自身のジェンダー・アイデンティティをたとえとして最もはっきりと表現するのは天秤だった。
片方には私の許可も得ずに、巨大なお守りが置かれている。
私は絶えず、もう一方の皿に、重りを置いて天秤を下げようとしている。
しかし、最後の目的は、男性性ではなかった。目的はバランスをとることだったのだ。
「〜らしさ」の価値観を問い直し、自分自身として生きる
発起人・小林美香(こばやし・みか)
「Gender Queer」を初めて読んだ時の感想は、私自身のことが描かれているように感じるところがたくさんあるということでした。実際に幼少期や思春期に近い経験をしたことがあるわけではないにせよ、成長する過程でジェンダーに関して押しつけられる価値観に対して、反発や違和感を抱いたり、窮屈に感じたりすることは多かったように思います。
マイアがこの作品の中で描いているのは、私も含む多くの人が多少なりとも抱くであろうこのような違和感を見過ごすことなく、葛藤しながら心と身体に向き合い、歩みを進める道を拓いてきた過程です。マイアは小説や漫画、映画の中で描かれる物語の中に自分に近い人や憧れの人、仲間だと思える人の姿を見出すことで、自分だけがこんなふうに悩んでいるのではないと気づき、またさまざまな人との出会いや学びを通して、気持ちが軽くなったり、視界が開けたりする経験を積み重ねたことを、漫画の中で私たちに教えてくれます。マイアは好きなもの、親しい人とのやり取り、出会ってきた人々、学んできたこと、生まれ育つ中で見てきた景色、こういった日々の経験を、些細なことも含めて丁寧に描いています。こういった描写を通して、マイアの存在が、遠い外国にいながらも仲間のような存在として感じられることも、この作品の魅力です。
タイトルの「Gender Queer」が示すように、この作品の核にあるのは、「クィア」、すなわち「性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらない性的なアウトサイダー」としてのあり方です。しかし、この作品はそのことを限定的に捉えているというよりも、人それぞれによって異なる「性」のあり方を、どのように向き合って生きていくか、周囲の人との関わり合いの中で、どのように気づいて見出していくのか、「個人」としてのあり方や生き方を示すことに主眼が置かれており、その姿勢の中に「クィア」であることが、カテゴリーやラベルではなく、個人の経験として浮かび上がってきます。
ジェンダーのラベルのあり方がしっくりこない、あるいはジェンダーに限らず、周囲から暗黙のうちに押しつけられる「〜らしさ」の価値観を問い直し、自分自身として生きるということを考えてみたい、そう願う人に届いて欲しい一冊です。