PROFILE
プロフィール
- 名前清武 弘嗣(キヨタケ ヒロシ)
- 生年月日1989/11/12(33歳)
- 出身地大分県
- 身長/体重172cm / 66kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
父がサッカーしていたのと、4つ上の兄もサッカーをやっていたので僕も自然とボールを蹴っていました。初めて蹴った時の記憶はないですが、ビデオを見返すと、3、4歳くらいでドリブルしていましたね。チームに入ったのは小1です。明治北小学校にあった明治北SSCという少年団に入りました。自分も憧れていた三浦アツさん(三浦淳宏)を育てた新庄道臣先生が元々監督だったのですが、僕が小4の時に明治北小の教頭になって、そのタイミングで父が明治北SSCの監督になりました。小学校時代の思い出は、4年生の時に出た全日(JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)です。ハーフナー マイク選手のいた札幌FCと対戦して負けるなど、全敗して、「全国って凄い」、「もっとやらないといけない」と思い、翌年の全日では3位になれました。明治北SSCはゲーム中心の練習で、月曜以外は毎日練習していました。基本は攻撃ですが、ポジションは全部やっていました。PKの時はGKもやっていましたね(笑)。
-中学~高校-
中学時代は、カティオーラFCに入ります。新庄先生が作ったチームなので、明治北SSC出身の選手は自ずとカティオーラに上がる感じでした。ただ、当時は新庄先生が教えるわけではなく、僕はなかなか合わなかった。走りの練習や、とにかく体力作りのトレーニングが多くて馴染めず、サッカーを楽しめなかったんです。そういった中で、中3で大分トリニータU-15に移りました。きっかけは、弟の功暉です。元々、カティオーラとトリニータはライバル関係であり、父が今まで築いてきた新庄先生との関係も考えたら、自分から「トリニータに移りたい」とは言えなかった。ただ、一つ下の功暉もカティオーラに入ってきて、秋ごろに「合わないから、トリニータに行く」とハッキリ言ったんです。「コイツ、スゲェな」と。そんな功暉に助けられて、僕もトリニータU-15に移ることになりました。当時のトリニータU-15のコーチが吉武(博文)先生で、父とも知り合いで父が相談してくれたら、最初はセレクションとして1週間ほど練習生で入りました。そこからはめちゃくちゃサッカーが楽しくなりました。同級生の井上裕大とコンビを組んで、FWをやっていました。中3は僕にとって分岐点でしたね。2年分を取り戻すように、楽しくサッカーできました。中学生の思い出としては、中1の時に日韓W杯があり、大分で開催されたイタリア対メキシコとセネガル対スウェーデンを見に行きました。当時の作文に、「将来は日本代表になってW杯に出たい」と書きました。中3の時、トリニータU-18の練習に参加させてもらいました。梅崎司くんや周ちゃん(西川周作)が高3にいて、衝撃を受けました。「こんな人たちがいるんや。絶対ココに上がりたい」と思いました。ただ、大分トリニータU-18での3年間は、苦しかったですね。1年目は、小手(小手川宏基)と2トップを組んで点も決めて、順調だったんですよ。ただ、2年目以降は、ほぼサッカーしていません。病気して入院したり、高2の10月から高校卒業まではケガでサッカーしていません。高2の10月に第五中足骨を折って、12月に一度くっついたのですが、その後、翌年の2月に参加させてもらったトップチームのグアム合宿で左足の小指が折れました。すぐ日本に帰ってトップチームのドクターに手術してもらったのですが、3ヶ月経っても骨がくっつかず、「再手術しかない」と。保存治療の選択肢もあったのですが、2ヶ月で治るかも知れないけど、完治するか分からなかった。再手術は骨移植だったのですが、確実に半年はサッカーができない。再手術すれば治る可能性は高かったのですが、次にサッカーできるのは早くて12月。トップ昇格は難しいし、大学の推薦もないから無理やなと思って、サッカーを辞めようと思ったんです。子どもが好きだったので、保育士を目指そうと思っていたら、「トップに上げてやるから手術をしろ」と当時の強化部の原(靖)さんに言ってもらいました。多分、“トップチームのキャンプでケガをしたから、治るまで面倒を見てあげるよ”ということだったと思うのですが、僕からしたら、「ありがとうございます」という感じでした。こんなにケガばかりする選手、トップに上げても未知数だったと思うし、トップ昇格できたことは周りに感謝です。
-プロ以降-
高3の12月に、骨は完全にくっつきました。プロ1年目は最初からサッカーできました。今の時代とは違って怖い先輩もいて、練習もピリピリしていました。一つのミスもできない、みたいなプレッシャーを感じていました。1年目の思い出は、J1デビュー戦でJ1初ゴールを決めたことです。2年目に出場数を伸ばしたのですが、チームが第4節から14連敗して勝てず、選手を入れ替える中で出場数も増えた感じです。途中から就任した(ランコ)ポポヴィッチ監督との出会いも大きかった。若手に厳しく、練習量も多かったのですが、自分がいかに甘く考えていたかを思い知らされました。「調子に乗らず、ひたむきにやれ」みたいな感じで、僕は一度3ヶ月、干されました。そこで気付けて、その3ヶ月は誰より練習した自負があります。心身を鍛えることができました。プロ3年目の10年にセレッソに移籍します。キャリアの中でもターニングポイントになりましたが、最初は大分に残る気満々でした。地元のチームですし、中3で僕を救ってくれて育ててもらったクラブ。トップに上げてくれた感謝もあったので、もう一度、自分が中心になってJ1に上げたい気持ちもありました。ただ、ポポ(ヴィッチ監督)がいなくなることも確定し、色々考えた上で最後はセレッソに行くことに決めました。セレッソからのオファーに関しては、後から聞いた話では、セレッソは当時、自分ともう一人の選手で迷っていたらしいです。僕は当時から(香川)真司くんと仲が良かったのですが、真司くんが小菊さんに「絶対にキヨの方がいい」と言ってくれたようです。それを聞いた小菊さんが強化部に言ってくれたのか、僕に声がかかりました。それが、僕がセレッソに来ることができた経緯です。真司くんとの出会いは年代別代表でした。当時からズバ抜けていて、手の届かない存在でした。10年は、真司くん、乾(貴士)くん、アキちゃん(家長昭博)。この3人が2列目にいたので、僕はやることをひたすらやるしかなかった。夏に真司くんがドルトムントに移籍して、自分が試合に出るようになりました。真司くんのようにはできないけど、自分の役割を全うしようとプレーしていましたね。セレッソに来た10年からの3年は濃かったです。あの時は疲れもなく、イケイケでした(笑)。試合ができる喜びの方が大きく、楽しかったですね。11年は、結婚もして、日本代表にも選ばれて、人生としても転機でした。結婚するということは、一生面倒を見るということ。頑張らないといけないと、プレッシャーもありました。当時は大分と大阪で離れていたのですが、結婚を機に大阪に呼びました。責任感は増しました。代表デビューに関しては、まさか試合に出られるとは思っていなかったです。岡ちゃん(岡崎慎司)が前半でケガをして、家長くんと松井大輔さんと僕にアップの声がかかりました。家長くんが「キヨ、あるぞ」と。「あるわけないじゃないですか」って言っていたら、(アルベルト)ザッケローニ監督に呼ばれました。「えっ?」みたいな感じでした(笑)。そしたらアシストもできて、自信になりました。ロンドン五輪に出た12年も充実していましたね。めちゃくちゃ楽しかったです。この夏にドイツへ移籍することになりました。元々、海外志向はなかったので、凄く悩みました。ただ、僕は単純な人間なので、ニュルンベルクの強化部長が僕に13番のユニフォームを見せてくれた瞬間、「行きます」と(笑)。実際に行ったドイツでの4シーズンは、めちゃくちゃ楽しかったです。行って良かったと思いました。生活もサッカーも日本とは文化が違う中で、いい経験ができました。家族も呼んでみんなで暮らして、両親も招待できました。ドイツにいた4年は全て中心でやらせてもらったので、充実していました。ポジションはずっとトップ下でした。ハノーファーも良かったですよ。当時の監督が(酒井)宏樹に、「どんな選手だ?」と聞いたようです。宏樹が推薦してくれたおかげもあって、プレーすることができました。最後の半年は(山口)蛍も来て、短かったですが、3人で過ごした期間は濃かったです。
海外での5シーズン目は、スペインのセビージャに移籍しました。開幕前の、レアル(マドリード)との(UEFA)スーパーカップからスタメンで出させてもらって、デビュー戦となったリーグ開幕戦で1ゴール1アシストできました。当時のセビージャはサンパオリ監督、コーチにリージョがいて、ポジションを取りながらボールを保持して試合を進めるサッカーで、その中で自分がどうプレーするか難しかったですが、ドイツとはまたスタイルも違って、楽しかったです。ただ、2試合目のビジャレアル戦がそんなに良くなかった。その後、日本代表での活動期間中に(サミル)ナスリが来て、一気に序列が下がりました。そこからあまり試合に出られなくなり、厳しい世界だなと。翌年、セレッソに復帰します。「日本に戻るならセレッソ」という思いはずっとありました。受け入れてくれたチームには感謝しかないです。戻った年に二冠を獲れたことは本当に嬉しかったです。ただ、個人としてはケガが続き、特に繰り返した18年は本当に引退しようかなという思いもありました。ケガを気にして100%で走れないし、それだと若手に示しもつかない。何よりサッカーをやっていても自分が楽しくない。もう引退やなと。ただ、父から「ケガしてもいいやないか。全力でもう一回やってみろ」と言われて、そこからはケガを気にしなくなりました。父の言葉は大きいですね。ロティーナ監督の下でプレーした19年、20年は新たな引出しも増えました。特に20年は8得点8アシストできて、いいシーズンでした。セレッソでのシーズンは、今年でトータル10年目になります。来た当初を考えると、ここまで長くいることは想像できませんでした。移籍1年目、「サッカーってこんなに自由なんだ」とサッカーの楽しさを教えてくれたのがこのクラブでした。その時からずっと印象は良いままです。キャプテンも5年連続でやることになりました。自分自身も結果を残さないと生き残っていけないプレッシャーもありますし、チームとしても、リーグを獲るならこの1、2年だと思っています。いいメンバーも揃ったし、練習の強度も高い。謙虚にやるべきことをやっていけば、結果は出ると思います。個人的には、セレッソに来た10年は頭も使わずイケイケでした。自由気ままにやっていましたが、今は経験値も増えて、あの時よりは頭も使えるようになりました。色んな監督にも出会って、色んなサッカーをやってきて、それも全て含めて今はサッカーを楽しめています。まだまだ、これからもサッカーを続けていきたいですね。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
きよ2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
25.54 スパイクのこだわり
adidas5 げん担ぎ・ルーティン
筋トレをする6 遠征に必ず持っていくもの
iPad7 オフの過ごし方
家族時間8 ストレス解消法
サウナ9 サッカーを始めた年齢
6歳10 サッカーを始めたきっかけ
父と兄がやっていて11 影響を受けた指導者
新庄先生12 仲の良い選手/理由
山口蛍.水沼宏太/刺激し合える選手13 チームメイトの意外な一面
為田選手/反り腰14 今季対戦が楽しみなチーム:チーム名
横浜F・マリノス/王者だから15 将来の夢(サッカー面)
怪我をしない事16 もしサッカー選手じゃなかったら
幼稚園の先生17 あなたにとってサッカーとは
人生18 今季の目標(サッカー目標)
タイトル19 セレッソ大阪の好きなところ
メリハリがある20 セレッソ大阪のイメージ
明るい21 大阪の好きなところ
住みやすい22 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
とり天23 自分の性格
明るい24 初めての給料の使い道
覚えてない25 好きな映画のジャンル
いろいろ26 好きな音楽のジャンル
いろいろ27 好きな食べ物
お肉28 この世で一番好きなもの
家族29 今一番欲しいもの
サウナ30 最近チャレンジしたこと
体の改造31 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
指導への道32 子どもの頃の夢
サッカー選手33 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
練習34 誕生日にもらって嬉しかったもの
何でも嬉しい35 ほっとする瞬間
家36 将来の夢(プライベート)
子供達が元気で成長すること