PROFILE
プロフィール
- 名前中原 輝(ナカハラ ヒカル)
- 生年月日1996/07/08(27歳)
- 出身地熊本県
- 身長/体重169cm / 66kg
- ポジションRENTAL
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
サッカーを始めたのは4歳です。父が地元のクラブチームの監督をやっていたので、自然と始めた感じで、気付いたらやっていました(笑)。4つ上の兄と庭でボールを蹴っていた覚えもあります。地元の熊本県山鹿市は、自然が豊かで、温泉も有名です。幼稚園から小学校まで山鹿FCJでプレーしました。小4から小6まで父に教えてもらっていました。自分だけ怒られていた記憶もあります(苦笑)。ドリブルが大好きで、試合でもボールを持てるところまで持っていく子どもでした。キックも比較的、蹴れていたと思います。左利きで、ポジションはトップ下でした。当時、日本代表で10番だった中村俊輔選手が好きでした。プレーの動画も見ていました。九州のトレセンにも入っていたので、小学校の卒業文集には、「サッカー選手になりたい」と書いていたと思います。
-中学~大学-
中学は、ルーテル学院に入りました。私立なので、最初は考えていなかったのですが、小学校の県大会で優勝したりしていたので、声をかけてもらった感じです。部活動の中ではサッカーに力を入れていた学校で、全国にも出たり、頑張っている学校です。僕は全国大会には無縁だったのですが、九州のリーグに参加させてもらって、ある程度、点も取っていたので、中3の時にU-15の日本代表候補に選んでもらったこともありました。高校はそのままエスカレーターで上がりました。高校でも全国大会には出ていません(苦笑)。ポジションはずっと攻撃で、トップ下やサイドでした。チームとしてはそんなに強くなかったのですが、自分は好きにやらせてもらっていました。そういうチームだったからこそ、仕掛けることや、打開する力が身に付いたのかも知れません。家と学校が離れていたので、高校では、少しでも学校に近い場所に住もうということで、アパートを借りて父と2人暮らしをしていました。父とは基本的にサッカーの話しかしません。当時は試合について、いつもアドバイスをもらっていました。
高卒で、鳥栖と北九州の練習参加に行かせてもらったのですが、入団できず、大学は推薦で駒沢大学に入らせてもらいました。高校の監督が駒沢大出身で、そういう縁もあり練習参加することになり、取ってもらった感じです。昨年、2部に落ちてしまったのですが、ずっと関東1部リーグで戦っている、歴史ある大学です。1年目はほぼ試合に出られず、寮生活が大変だった記憶しかないですね(苦笑)。2年から出させてもらいました。ポジションはサイドハーフでした。右も左もやりました。プロになることしか考えていなかったので、大学時代は結果を意識してプレーしていました。ただ、3年までは全国大会とは無縁で、このままではダメだと思いながら、4年では勝てるようになって、インカレで準優勝できました。熊本には、3年から練習参加させてもらっていました。ずっと見てもらって、地元でプロになれたことは嬉しかったです。加入が決まっていた大学4年の時にJ2からJ3に落ちて、「マジか」みたいな思いはありましたが(苦笑)、監督に渋谷(洋樹)さん、コーチにキタジさん(北嶋秀朗)、チカラさん(藤本主税)がいて、サッカーを知っているいい指導者に教えてもらえたことは、僕の中で大きかったです。
-プロ以降-
1年目は、開幕スタメンをつかんで年間を通して試合には出させてもらったのですが、点が1点も取れなくて…。いいところまでは行くけど点が取れず、チームも昇格できず、苦しみながら戦った1年でした。2年目が転機でした。6得点6アシストできたのですが、一気に点が取れたのは、大木(武)監督が来てサッカー自体が攻撃的になったことが大きいです。[4-3-3]のウィングだったので、高い位置を取ることや得点も求められました。大木さんには、「ウィングが機能しないと、このサッカーはダメだから」とずっと言われていました。大木さんの、スピーディーかつボールを大事にするサッカー、距離感の良いサッカーが僕には合っていたというか、やり易さを感じながらプレーできました。それが数字にもつながったと思います。ポジションはずっと右のウィングでした。3年目に山形へ移籍します。大木さんとの出会いは大きかったですし、J2に昇格していたら熊本に残っていました。ただ、僕も大卒で若くなかったので、上のカテゴリーからのオファーを断る理由がないというか、チャレンジしようと思って決めました。最初は勝てなくて、監督が代わりました。石丸(清隆)監督の時は出たり出なかったりでしたが、ピーター(クラモフスキー監督)に代わってから、ずっと使われるようになりました。コーチをやっていた横浜FMでも攻撃的なサッカーをされていた方なので、やっぱりそういう攻撃的なサッカーが僕には合うのかなと。「攻撃でクオリティーを出してくれ」という監督と2年連続で巡り合えたことは大きかったです。もちろん現代サッカーは守備も大事ですが、やっぱり攻撃が自分の武器なので。山形も[4-3-3]で、両ウィングは張るサッカー。熊本での2年目と立ち位置も似ていました。熊本でハマったプレーをそのまま山形でも出せた感じです。山形でも、ほぼ右サイドでした。坂元(達裕)選手が抜けたタイミングで入ったのですが、タツとはタイプが違う。ポジション、左利き、背丈は同じですが、強化部の方からも、「タイプは違うからな」と言ってもらいました。自分は自分なので、(周りから比べられることは)あまり気にしていなかったです。
セレッソに移籍する前、ピーターからは、「残ってくれ」と言われました。やりがいもあったのですが、山形に移籍を決めた時と同じで、上のカテゴリーに行くチャンスがあればチャレンジしたい気持ちがあったので、移籍を決めました。J3からJ2はそこまで大きな差は感じなかったですが、J1は、やはり選手の質が違いました。攻撃でも守備でも、個でどうにかできる選手が多いと感じました。その中でも、昨年1年でやれる部分と伸ばさないといけない部分は分かったので、今年はさらに良くしていくだけです。キャンプも、昨年に比べると今年は自分の持ち味を出せている手応えはあります。僕は周りの選手と距離感よく攻撃を作っていくタイプなので、お互いの良さを知ることは大事。今年は右だけでなく左でプレーする機会もあります。左ではサイドに張るだけではなく、中でプレーする回数も増えます。そこも強みにしていきたいですし、ライバルは多いので、試合に出られるなら、どこでもやっていきたいです。昨年は途中から試合に関われなくなった悔しさもあるので、今年は年間を通して試合に出続けることが目標です。攻撃的なポジションをやっている以上、5点は取りたいです。将来的な目標は、日本代表に入ってみたい思いはあります。セレッソで、このメンバーがいる中で試合に出続けて結果を残せば、そういう可能性が巡ってくる環境にいるとは思うので。チャンスをつかんで、数字を残し、選手としてより高いレベルに向かうことが今年の目標です。
CAREER
経歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
ひかる2 利き足
左足3 足のサイズ(cm)
26.54 スパイクのこだわり
フィット感5 げん担ぎ・ルーティン
左足からスパイクの紐を結ぶ6 自分のプレーの特徴
カットイン7 遠征に必ず持っていくもの
iPad8 オフの過ごし方
買い物9 ストレス解消法
寝る10 サッカーを始めた年齢
4歳11 サッカーを始めたきっかけ
親、兄12 影響を受けた指導者
親13 仲の良い選手/理由
毎熊、上門/大阪来てから一緒にいることが多い14 チームメイトの意外な一面
鈴木徳真/お喋り15 憧れの選手
家長選手16 今季対戦が楽しみなチーム/理由
サガン鳥栖/知り合いが多いので17 この人にだけは負けられない
全員/負けたくないので18 将来の夢(サッカー面)
タイトル獲得19 もしサッカー選手じゃなかったら
普通に仕事してる20 あなたにとってサッカーとは
今の自分を作ってくれたもの21 今季の目標(サッカー目標)
ゴール、アシストを多く残したい22 セレッソ大阪の好きなところ
みんな仲良いとこ23 セレッソ大阪のイメージ
育成がいいイメージ24 大阪の好きなところ
楽しいとこ25 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
馬刺し26 趣味・マイブーム
サウナ27 自分の性格
落ち着いてる28 生きていて1番ワクワクする瞬間
サッカー29 人生で1番悔しかったこと
サッカーで負けた時30 初めての給料の使い道
特に使ってない31 好きな芸能人/アーティスト/芸人
Vaundy32 好きな女性のタイプ
よく笑う人33 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
ワンピース34 好きなキャラクター
サボ35 好きな映画のジャンル
なんでも36 好きな音楽のジャンル
邦楽37 好きな食べ物
寿司38 苦手な食べ物
漬物39 この世で一番好きなもの
美味しいご飯40 この世で一番怖いもの
高い所41 今一番欲しいもの
腕時計42 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
まだわからない43 子どもの頃の夢
サッカー選手44 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
練習45 誕生日にもらって嬉しかったもの
なんでも嬉しい46 ほっとする瞬間
実家に帰った時47 いつもつけている香水(銘柄等)
Jo MALONE48 将来の夢(プライベート)
1人じゃないといいですね笑