PROFILE
プロフィール
- 名前原川 力(ハラカワ リキ)
- 生年月日1993/08/18(29歳)
- 出身地山口県
- 身長/体重175cm / 72kg
- ポジションRENTAL
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
3つ上の兄がいて、兄の友達に入れてもらってサッカーを始めました。4、5歳ですね。幼稚園でレオーネ山口のスクールに入りました。楽しくて、そのまま中学までそのチームでお世話になりました。小学校時代も、チームメイトも上手かったですし、チームの方針として、基本的にボールを使った練習ばかりだったので、楽しかったですね。技術的にも伸びて、ナショナルトレセンにも行っていました。ポジションはずっと中盤です。前も後ろもやったことがないです。団子サッカーとかしていても、その中に入っていかないような子どもでした(笑)。
-中学~高校-
中学もレオーネ山口です。中学時代もずっとボールに触っていました。戦術的なことより個人のスキルを伸ばすチームだったので、僕に合っていたと思います。中学時代もずっと中盤です。中3の高円宮杯(JFA全日本U-15サッカー選手権大会)で、全国初出場でベスト4まで行きました。(山中)亮輔のいたレイソルや、セレッソとも対戦しました。当時、(久保)裕也と同じ学校でした。彼は部活だったのですが、朝練は同じグラウンドでやっていました。ただ、一緒の空間にはいましたが、特に何か2人でやっていたわけではありません(笑)。裕也とは、小学生時代からトレセンでも一緒でした。山口は田舎なので、遠征もそんなに行かないですし、色んな地域から選手が集まるトレセンで刺激を受けることが多かったです。
高校は京都(サンガF.C.U-18)に行きました。いくつか選択肢はあったのですが、寮費がかからず親に負担をかけずに済むこと、あとは環境面や卒業後の進路まで見据え京都の高校(立命館宇治高等学校)に決めました。兄も高校から東福岡に行って寮に入っていたので、自分も自然と外に出る感じでした。高校時代はサッカー的にも一番成長した3年間でした。同学年がみんな上手かったですし、学校でも練習でも寮でも四六時中一緒なので、誰かが寮で筋トレしたら、みんなやる。その環境にいれたことが良かったですね。同期に久保裕也、高橋祐治、杉本大地。一つ上に駒井選手や宮吉選手がいました。裕也とは京都で一緒になりましたが、たまたまです(笑)。高1では、クラブユース選手権でベスト4まで行きましたが、セレッソに負けました。扇原選手や杉本健勇選手がいました。京都がアカデミーに力を入れ始めた時期だったので、僕らの代や1つ上の代はトップチームに上がった選手はいっぱいいて、各々は上手かったですが、高2、高3となかなか大会では勝てなかったです(苦笑)。高3で2種登録しました。京都はトップとアカデミーの距離感が近く、プロを目指しやすい環境でした。練習場も隣で、「ちょっと行ってきて」みたいな感じで、高1や高2でプロと練習していました。ドゥトラ選手やディエゴ選手が凄かったのを覚えています。ポジションは、高校時代もずっと中盤でした。昔から点を取るというより、ゲームを作る方が向いていたのだと思います。
-プロ以降-
プロ1、2年目は一番キツかったですね。ある程度やれると思ってトップに上がったのですが、全然、出られませんでした(苦笑)。当時のボランチは、チョン ウヨン選手、工藤浩平選手、中山博貴選手。みんな上手かったです。ベンチには入るけど試合に出られない時期が続いていたので、毎月のように「レンタルで出してくれ」と強化部の方に言っていました(笑)。1年目、J2の第25節・愛媛戦でプロデビューできました。逆転勝ちした記憶があります。ただ、最初の2年は試合に出られず、チームとしても2年連続昇格プレーオフで負けてしまったので、悔しさの残る2年間でした。3年目に、愛媛にレンタルで行きました。この年がキャリアの一つの転機です。32試合に出て、やっぱり試合に出ないと意味がないと、改めて思いました。翌年は京都に復帰します。愛媛でのプレーが認められ、「帰って来い」と言われました。愛媛で10番を付けていたので、復帰した年は京都でも10番を付けました。ユース出身としては初めてでした。ただ、大したプレーもできず、チームの順位も下で、うまくいかない1年でした。この時期はリオ五輪を目指す年代別代表でもプレーしていました。最終予選がホーム&アウェイではなく、ノックアウト方式になったので、プレッシャーを感じていたことを覚えています。出場権がかかった準決勝のイラク戦、後半アディショナルタイムに(南野)拓実のクロスからゴールを決めました。オリンピック出場を決める決勝点だったので、ホッとしました(笑)。ただ、本大会は初戦のナイジェリア戦しか出られず悔しかったです。この代表で一緒にやっていたメンバーが昨年のワールドカップに出て活躍していたので、刺激は受けました。
プロ5年目にフロンターレへ移籍します。アカデミーから育ててもらった京都を離れて、完全移籍でした。フロンターレでは試合には出られない1年でしたが、練習からバチバチやる環境で、中盤の選手が全員上手く、自分も技術的に上手くなったと思います。次の年に鳥栖へレンタルで出ます。「ここで活躍できなかったら終わり」という気持ちで行きました。追い込まれていましたね。リオ五輪も終わって、ここでやらないとこのまま落ちていく感覚がありました。開幕戦でFKを決めて、最終的にキャリアハイの7得点を決めることができました。(活躍できた要因は)追い込まれていたことが良かったんじゃないですか(笑)。あと、マッシモ(フィッカデンティ監督)が信頼して使い続けてくれたことも大きかったと思います。鳥栖での4年間は、監督が代わることもありましたが、どの監督にも使ってもらえました。鳥栖に行ってからですね、守備や走れるようになったのは。マッシモにも、そこを求められていたので。それまではアタッカー色の強いボランチでしたが、鳥栖でプレーの幅が広がりました。その後の金 明輝監督も、勝っても負けてもブレない監督だったので、選手としてはやり易かったです。
鳥栖での4年を経て、21年にセレッソへ移籍します。鳥栖では素晴らしいシーズンを過ごしましたが、環境を変えたい思いがありました。嫁も大阪出身なので、関西がいいなとずっと思っていて、そういうことも含めて決断しました。セレッソはうまい選手が多い印象がありました。鳥栖では、前めのボランチで点も取れていたのですが、セレッソではアンカーの役割が多い。アンカーはアンカーで楽しいですが、攻めている時に後ろを見る回数も多く、シュートも打てたら珍しい。もう少し攻めたい気持ちはありますが、幅は広がっていると思います。守備もうまくなったと思います。昨年は左肩を脱臼して、初めて長期離脱しました。めっちゃ不安でしたね。「下手になっているんちゃうか」と思って、オフもずっと動いていないと気が済まない感じでした。復帰した当初はボールスピードに慣れず、しんどかったですが、手術前と比べても肩の違和感はなく、今はもう大丈夫です。ボランチは途中から出て流れを変えるポジションではないと思うので、スタメンで出ないと意味がないと思っています。ポジション争いからやって、試合に出たいです。でもまずは、今年はケガをしないこと。ケガせず、毎日練習をやって、試合をやっていたら、すぐに感覚は戻る自信はあります。そうなれば、自ずとポジションも付いてくると思います。チームとしては、2年連続ルヴァンカップ決勝で負けているので、今年こそタイトルを獲りたいですね。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
りき2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
26.04 スパイクのこだわり
フィット感5 げん担ぎ・ルーティン
作らない6 自分のプレーの特徴
キック7 遠征に必ず持っていくもの
ケアグッズ8 オフの過ごし方
寝る9 ストレス解消法
寝る10 サッカーを始めた年齢
4歳11 サッカーを始めたきっかけ
兄の影響12 仲の良い選手
全員13 憧れの選手
イニエスタ14 今季対戦が楽しみなチーム/理由
ガンバ大阪/ダービーだから15 将来の夢(サッカー面)
今年は怪我をしないこと16 もしサッカー選手じゃなかったら
サラリーマン17 あなたにとってサッカーとは
全て18 今季の目標(サッカー目標)
勝つ19 セレッソ大阪の好きなところ
適当なところ20 セレッソ大阪のイメージ
わちゃわちゃしてる21 大阪の好きなところ
優しい22 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
ふぐ23 自分の性格
マイペース24 人生で1番悔しかったこと
負けた時25 座右の銘、好きな言葉
努力26 初めての給料の使い道
覚えてない27 好きな芸能人/アーティスト/芸人
新垣結衣28 好きな女性のタイプ
穏やか29 好きな映画のジャンル
洋画30 好きな音楽のジャンル
全部聞く31 好きな食べ物
寿司32 苦手な食べ物
ナスビ33 この世で一番好きなもの
寿司34 この世で一番怖いもの
おばけ35 最近嬉しかったこと
トレーニングに合流できたこと36 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
ピラティス37 子どもの頃の夢
サッカー選手38 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
勉強39 思い出の一品(食べ物でも、身につけるものでも可)
時計40 誕生日にもらって嬉しかったもの
ケーキ41 ほっとする瞬間
寝る前42 いつもつけている香水(銘柄等)
シロ43 将来の夢(プライベート)
ゆっくりする