日本の鉄道網をつくった重要人物! 広軌化を巡って後藤新平と対立した「原敬」の偉大さとは

キーワード :
,
日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物として知られる原敬。そんな原は、日本の鉄道網の整備に大きな役割を果たした人物でもあった。

挫折した広軌化計画

三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』(画像:東京大学出版会)
三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』(画像:東京大学出版会)

 原の地元の岩手県では「鉄道速成即政友会」とまで言われるようになり、その他の地域でも鉄道建設のために政友会に期待する声が集まるようになる。

 こうした政友会の伸長は、井上馨に

「政友会ニ向ツテハ大打撃ヲ加ヘナケレバ、国家ノ為ニナラヌ」(213ページ)

と言わせるほどで、これが「政友会膺懲(ようちょう。こらしめること)」を意図する井上によって推された第2次大隈内閣の成立につながっていく。

 そして、第2次大隈重信内閣についで成立した寺内正毅内閣において、後藤が再び内相兼鉄道員総裁となって鉄道広軌化に取り組むこととなった。しかし、寺内内閣の事実上の与党は政友会であり、後藤の計画が通る余地はなかった。

 寺内内閣は米騒動を契機として退陣すると、原が自ら首相となり、政友会による本格的な政党内閣を率いて鉄道政策を進めていくことになるのだ。

 1921(大正10)年、原内閣は149線もの地方線の新設を目指す鉄道敷設法改正案を議会に提出する。貴族院の反対によってこの改正案は審議未了となったが、原が亡くなった後の高橋是清内閣のもとで鉄道敷設法改正案は成立する。この計画に沿って日本の鉄道網が整備されていくとともに、鉄道の広軌化計画は完全に挫折したのだ。

 しかし、鉄道の広軌化は、戦後になって標準軌と同じ1435mmの軌間である新幹線が建設されることで、その一部が実現したとも言える。「新幹線の父」とも呼ばれた十河信二は後藤の薫陶を受けた鉄道官僚であった。一方、原が整備した鉄道網は、人口減少やコロナによる乗客の減少によって、その維持が難しくなっている。

 2022年7月25日、地方鉄道のあり方を議論してきた国の検討会が、輸送密度1000人未満の区間に関して、バスなどへの転換も含めて協議を進めるべきとする提言をまとめた。鉄道広軌化問題における原と後藤の対立から100年以上がたったが、今再び、国家的利益と地方的利益の間で鉄道をどのように整備・維持していくべきかが問われていると言えるだろう。

全てのコメントを見る
notification icon
プッシュ通知で最新ニュースをお届けします!