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無職転生 - 異世界行ったら本気だす - 作者:理不尽な孫の手

第16章 青年期 人神編

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第百六十四話「エリス・グレイラット 前編」

 朝起きて、ノルンと一緒にランニングと素振りをして。

 帰ってきたらルーシーの面倒を見ているシルフィに抱きついて。

 リビングに行き、アイシャとリーリャに挨拶をして。

 寝ぼけまなこで起きてきたロキシーの髪を梳いて三つ編みにしてあげて。

 庭でビートと見つめ合っているゼニスを、食事ができたと呼びにいき。

 家族みんなで食事を取る。


 何事もなかったかのように、平和な日々が戻ってきた。



 だが、もちろん、何も無かったわけではない。

 俺は確かにオルステッドと殺し合いをした。

 完膚なきまでにボロボロにされて敗北し……そして、生き残った。


 それが証拠に――俺は、掌を見る。

 グッと握ってみると、掌は確かに指先の感触を返してくる。

 両手、共に。


 あの後。

 俺がオルステッドに頭を垂れて忠誠を誓った後。

 オルステッドは約束通り、俺に治癒魔術をかけてくれた。

 俺の両腕はみるみるうちに再生され、久しぶりに五体満足の肉体を取り戻した。

 オルステッドはさらに何やら俺に術を施した後、己の身につけていた腕輪を俺へと渡した。

 それから、「お前の魔力が回復した頃、また連絡する」と言って、去っていった。

 俺の左手には、現在もその腕輪が嵌っている。

 この腕輪がどんな効能を持つものなのかはわからない。

 魔力の回復を助けるものなのか。

 それとも、ヒトガミからの覗き見を防止するためのものなのか。

 すでにあれから10日が過ぎているが、ヒトガミは夢に出てこない。

 龍神の加護を得れば、ヒトガミの干渉を防げるとオルステッドも言っていた気がするから、後者だろうか。

 はたまた、なんの意味もない、龍神配下の社員証のようなものなのかもしれないが。


 なんにせよ、俺はオルステッドに敗北し、その軍門に下った。

 ヒトガミを裏切り、あっち側についた。

 この腕輪を外す事は無いだろう。


 ヒトガミを裏切った事に後悔は無い。

 正直、スッキリした。

 『やってしまった』という感情より『やってやった』という思いが強い。


 もう、後には引けない。

 今後、オルステッドがどんだけ嫌な奴でも、そっちを裏切るわけにはいかない。

 一蓮托生だ。

 例え、これがヒトガミの思惑通りだったとしても、もう遅い。


 でも、個人的な感想としては、オルステッドの方がヒトガミよりも信じられる気がする。

 彼からはなんというか、ルイジェルドと似たような感覚を受ける。

 ルイジェルドのような高い誇りも、子供を慮るような気配も無いが。

 でも、まだ、高みの見物で自分は何もしないヒトガミよりは、物事に体で向かっている雰囲気を感じる。


 ともあれ、肩の荷がおりた。

 胸のつかえが取れて、楽になった気がした。

 実際には楽になんてなっていないのかもしれないが、一つの山を超えた気分だった。


 その後。

 その場にいたシルフィやロキシーと話をした。

 シルフィには泣かれ、ロキシーからはお説教をされた。

 あんな危険な相手とは思っていなかったと後悔され、また、オルステッドの配下になった事への不安の意を示された。

 でも、あの場では仕方がなかった、こうするしか無かったと言うと、

 彼女らも、一応の納得はしてくれた。



 シャリーアに戻ってきて。

 家族には無事を、協力してくれた者たちにはオルステッドとの戦いに敗北し、その軍門に下ったことを伝えた。

 ちなみに、ペルギウスが一番ほっとしたような顔をしていた。

 まあ、誰しも、あんなのと敵対したいとは思わないだろう。


 その途中、会う人全てにギョっとした顔をされた。

 何かと思って聞いてみると、俺の頭髪が白く染まっていたらしい。

 よくわからないが、シルフィと似た現象が俺にも起きたようだ。

 現在は、根本から茶色の毛が生えつつあるから、一過性のものだろう。

 仮に一過性でなかったとしても、シルフィとお揃いなら、何も問題ないが……。



 元の生活に戻り、10日。

 ヒトガミが何を仕掛けてくるかわからないため警戒していたが、今のところは何もない。


 かなり体調も良くなってきた。

 枯渇した魔力が回復しているのを感じる。

 そういえば、オルステッドは、俺のこの体の魔力の秘密も知っているような感じがした。

 ラプラスの因子がどうとか……。


 まあ、そのへんはオルステッドが必要とあらば教えてくれるだろう。

 今は待てばいい。


 さて、それはいいとして。



 なんの変哲もない生活に、一つの変化があった。



---




「おかわり!」

「エリス姉、もうスープ無いよ」

「そう、少ないわね!」


 食卓には、今までいなかった人物が一人。

 赤い毛を持った、背の高い女だ。

 背の高い女というか、エリスだ。


 彼女は当然のようにうちについてきて、

 当然のように客間を占領し、

 当然のように一緒に暮らし始めた。


 ちなみに、ギレーヌはうちの近くに宿を取った。

 今の状態のゼニスを見てショックを受けたせいか、俺達に遠慮したからかは、わからないが。


 とにかく、エリスだけが残った。 


 彼女は出かけている日もあったが、基本的には、家にいた。

 家にいて、シルフィが料理をする所を見たり、ロキシーの授業の準備を見たり。

 アイシャやリーリャの家事を見たり、ゼニスとルーシーの二人をじっと見つめたり。

 とにかく、動いていない時は、家族のことをじっと見ている場面が多かった。

 そして、シルフィやロキシーが何かをするたびに、難しい顔で口をへの字に曲げるのだ。


 久しぶりに見たエリスは、随分と様変わりしていた。

 なんというか、格好良くなっていた。

 女にしては背が高く、姿勢もいい。

 服装もなかなかにキマっている。

 ギレーヌと似たような皮の上着に、動きやすそうな黒のインナーとズボン。

 それらが、傍からみても十分に鍛え上げられているとわかる肢体を包み込んでいる。

 でも、決して太ましくはなく、ギュっと圧縮されている感じだ。

 見ているだけで惚れ惚れする。


 さらに特筆すべきはその胸と腰と尻。

 ボン、キュ、ボンである。

 顔も五年前と比べると幼さが抜け、キリリとした美人の顔立ちになっている。

 少女ではなく、すでに大人の女になったのだと一目でわかる変わりようだった。


 そんな外見の変化も相まってか。

 俺は彼女と会話する機会をもてなかった。


 決戦の報告を関係各所にしている間に、機を逸してしまった。

 というのもあるが、なんでか知らないが、彼女を見ているとドキドキするのだ。


 何度か話をしようとは思ったのだ。

 でも、どうにも、タイミングが掴めないというか……。

 彼女に対して何かを言おうとすると、その鋭い眼光に胸がドキドキし、気付いたら目線をそらしてしまうのだ。

 その後もしばらく動悸は収まらず、早鐘をうつ心臓が収まるまで、随分な時間を要するのだ。


 これはもしかして……恐怖?

 いや、冗談冗談。


 これはきっと、恋だ。

 どうやら、俺はエリスに惚れてしまったらしい。

 惚れ直してしまったらしい。

 我ながら単純だと思うが、絶体絶命の瞬間に颯爽と登場したエリス、オルステッドを抑え、命を掛けて俺を守ろうとしたエリス。

 彼女の姿は、今もなお、俺の目に焼き付いている。

 あれで惚れない方がおかしい。


 今の俺は、恋する乙女だ。

 乙女デウスだ。

 天使となった高校二年生だ。



 でも、だ。

 これは、家に帰ってアイシャから聞いた話になるが。

 エリスは、この数年間、俺と一緒にオルステッドと戦うためだけに、剣の聖地で過酷な修行に耐えてきたらしい。

 その原因は、赤竜の下顎における、オルステッドとの戦いによるもの。

 次回、似たような事のためにと乱魔を覚える俺を見たエリスは、俺が打倒オルステッドを視野にいれていると勘違いしてしまったらしい。

 当時の俺とエリスでそれほど差があったとは思えないが、

 エリスは俺の横に並び立つには実力的に吊り合わないと判断し、修行に出た、というわけだ。


 そんなエリスの立場からすると、現状は俺に裏切られたようなものだろう。

 出張か海外の単身赴任のつもりで、剣の修行に赴き、帰ってくると、好きだった相手が別の女と一緒になっていた。

 浮気、不倫。

 そこには行き違いがあったし、その事についても説明はなされている。

 理解もしているはずだ。


 でも、心中、穏やかではいられないはずだ。

 エリスの性格で言うと、ナイフを腰溜めに構えて突進してきてもおかしくないぐらいだ。

 そんな俺から「惚れなおしたから俺の嫁になれよ」と言うのは、ちょっとなんか、違う気がする。


 また、どうにもエリスの動きも不気味だ。

 彼女が何を考えているのか、わからないというか……。

 ほら、こう言っちゃなんだけど、エリスって、ワガママで自分勝手じゃん?

 もっとこう、周囲の事を考えず、行動に出るイメージがあったんだよね。


 ルーデウス!

 好きよ!

 結婚してあげるから、夜に部屋に来なさい! 

 今夜は眠らせないわ!

 ルーデウスは私のものよ!


 みたいなね。


 それが、何も言ってこない。

 自己主張をしないというか、なんというか。

 驚くほど、静かだ。


 もしかして、だが。


 先日、彼女は命を掛けてオルステッドから俺を守ろうとしてくれた。

 きっと、その時まで、エリスは俺に多大な幻想のようなものを抱いていたのかもしれない。

 五年間、俺もエリスのように、強くなるための努力していると信じていたのだ。

 けれど俺はそうじゃなかった。

 俺なりに頑張ってきたつもりだが、そうじゃなかった。

 俺はオルステッドに完膚なきまでにやられ、エリスは俺が無様に這いつくばっている所を見たはずだ。

 それに加えて、二人の奥さんだ。

 剣の聖地で剣王にまでなったエリスが、そんな俺に幻滅したとしてもおかしくはない。


 何も言わないのは、もしかすると、近日中に出て行こうと思っているからかもしれない。

 別れの言葉を、考えているかもしれない。


 なんて考えると、どうにも、俺から声を掛けるのが、怖い。

 断られるのが、怖い。

 あのかっこいいエリスに「あんたなんて、もうどうでもいいわ!」なんて言われたら、俺は凹む。

 それはそれで、結末としては正しいのかもしれないが、ものすごい喪失感を覚えるだろう。

 でも、もしそうなら、もっと早い段階で言われて……。

 うー、あー。


 とにかく話し合いをしなきゃいけないのは確かだ。

 じっくりと腹を割って話して、今後の事を話し合うのだ。

 と、思うのだが、中々タイミングが掴めない。

 堂々巡り。


 俺からは言葉が出ず、エリスからも何も言わず、ズルズルと毎日を過ごしている。


 できればオルステッドからの連絡までに、話し合って精算し、スッキリしたい。

 けど、どうすればいいのかわからない。

 このまま、ズルズルとエリスとの共同生活が続いてしまうのだろうか。


 なんて思っていた時、ふとロキシーに聞かれた。


「それで、エリスとの結婚祝いはいつ頃するのでしょうか」


 と。


「結婚祝い、ですか?」

「はい、わたしもやってもらいましたし、当然やるのでしょう? 当日には休みを取りますので、今のうちにいつ頃になるかを教えていただければ、と……」


 ロキシーの言葉に、俺は口をつぐんだ。

 その様子に、ロキシーは眉をひそめた。


「まさか、まだ何も言ってないんですか?」 


 俺はバツの悪そうな顔をしていたと思う。

 もう家族内での話は付いている。

 迎え入れる準備はできているのだ。

 アイシャはもちろん、あのノルンですら、エリスが家族の一員になることは認めている。

 それどころか、ノルンはよくエリスとルイジェルドの話をして盛り上がっている。

 あの二人は、思いの外、相性がいいらしい。


 誰も反対する者はいない。

 あとは俺が腹を決めるだけだ。


「ルディ、逃げてはいけませんよ。エリスは待っているんですから」


 ロキシーが指を一本立て、お姉さんぶったポーズを取った。


「待っている?」

「そうです。彼女はルディが「俺の胸に飛び込んでこい!」と言ってくれるのを待っているんですよ」


 ロキシーはそう言いつつ、両手を広げるジェスチャを取った。

 可愛い。


「エリスがそんな事を思うかなぁ……ていうかそれ、ロキシーの願望じゃなくて?」

「なっ! 人が真面目に言っているのに茶化さないでください!」


 ロキシーはぷんすかと擬音のつきそうな顔で両手を振り上げた。


 ……思わず茶化してしまったが、そうなのだろうか。

 エリスは、俺から何か言うのを、待っていてくれているのだろうか。

 そういうタイプだったろうか。


 いや、ロキシーが嘘を言うはずがない。

 これこそが本当の啓示、神の助言だ。

 ロキシーに後押しされたなら、俺に迷うという選択肢は無いはずいだ。

 勇気を出そう。

 俺から行こう。

 きちんと話して、話し合って。

 それで断られたら、ロキシーとシルフィになぐさめてもらおう。


 よし。


 と、その前に。

 ふと、俺は両手を広げて、言ってみた。


「ロキシー、俺の胸に飛び込んでこい」

「だから茶化さないでくださいと……」


 ロキシーは言葉を途中で止めた。

 俺の顔を見て、周囲をキョロキョロと見回した。

 誰もいないことを確認。

 そして、振り上げた両手を肩の位置まで降ろし、ぴょんと飛び跳ねて、俺の胸に飛び込んできた。

 やや目立つようになってきたお腹が、俺に押し付けられる。


「あんまり飛び跳ねるとお腹の子に触りますよ、お姫様」

「お腹の子供も、少しぐらい運動させてあげないとひ弱になってしまうから、いいんです」


 ロキシーの囁くような声が耳をくすぐる。

 そういうもんだろうか。

 そういうもんか。

 そういう事にしておこう。


 というわけでしばらくイチャつこうかと思い、ロキシーを膝に乗せて、椅子に座った。

 その時、ふと目線を感じた。


「……ん?」


 扉の影から、家政婦のように半身になって俺を見ている奴がいた。

 その目は爛々と輝き、俺の目を射抜いていた。

 ――エリスだった。


「きゃぁ!」

「ど、どうしましたルディ」


 慌ててロキシーを抱きしめると、エリスはぷいっと目を逸し、廊下の闇へと消えていった。


 怖い。

 何も言わないのが、怖い。


 は、話をするのは、明日にしとこう。



---



 翌日。

 俺はエリスと話をすべく、彼女の姿を探していた。


 エリスの姿はすぐに見つかった。

 彼女は、庭で素振りをしていた。

 なぜかノルンも一緒だった。

 学校はどうしたのだろうか。


 エリスはノルンに、「そうじゃないわ、こうよ」などといいつつ、剣の振り方を教えていた。


「だから、そうじゃないって言ってるでしょ! なんでわからないの!?」

「そんな事を言われても、どこがダメなんですか」

「どこって……」


 エリスは感覚派だから、ノルンも教わるのは大変だろう。

 感覚派の天才ってやつは、自分のやっていることを理解していないからな。

 と、思っていたのだが――。


「左手の力が足りないのよ、剣を振る時に右手だけで振ろうとしているから、剣先がブレるのよ」


 あれ?

 なんか今、幻聴が聞こえた。


「もっと左手を意識して……左手だけで振るつもりでやってみなさい。そしたら綺麗に振れるから」


 もしかして、これ、エリスが言ってんの?

 エリスが口パクしてて、ギレーヌがアテレコしてるとかじゃなくて?


「なるほど、わかりました」

「わかればいいのよ」


 二人はそう言って、仲良く、素振りを再開した。

 ノルンの素振りが、若干よくなっている気がする。


 ……まあ、エリスも剣王だ。

 昔、ギレーヌも、感覚だけでは剣王になれなかった、といっていた。

 エリスもまた、剣王になるまでに、合理的な考え方という奴を手に入れたのだろう。


 それにしても、エリスの素振り、速いな。

 剣の根元あたりから残像すら見えない。


 そして、美しい。

 エリスの素振りをする姿は、惚れ惚れする。

 見ているだけでため息が出てしまいそうだ。

 凛々しい横顔に、張り付いた汗。

 ギュっとしまった肉体と、躍動する筋肉……。


 あっ!


 すごいことに気づいてしまった。


 エリスが剣を振る。

 そのたびに、彼女の張りのいい胸が、フルンと揺れるのだ。

 ゆっさゆっさという感じではなく、フルンと微振動。

 これは恐らく、剣の振り方に無駄が無いから、上半身がほとんど動かないからこその微振動なのだ。

 ていうか、ノースリーブのシャツというか、スポーツブラみたいなのを着けているけれど、もしかして胸部装甲(ブラジャー)は付けていないのだろうか。

 素振りのたびに、コンコンと視線が打ち付けられてしまう。

 トンカチのような素振りだ……!


「……?」


 ふと、エリスの胸の揺れ……じゃない、素振りが止まった。

 どうしたのだろうと顔を見ると、こちらを見ていた。


 口をへの字に曲げて、足を肩幅に開いて、あごをくっとあげて。

 ああ、これで腕を組んでいれば、懐かしいポーズになるな。

 と、思った所で、彼女が手に持っているものに気づいた。


 オルステッドとの戦いの時にも使っていた、切れ味のよさそうな真剣である。


 俺は、ひとまずその場を退散した。

 いや、刃物を持っている相手に難しい話をするのは……ね!



 ――二時間後。


 トレーニングが終わった時間を見計らって、もう一度エリスを探す。

 すでに庭に姿はなかった。

 ならば水浴び中かと脱衣場を見てみると、ノルンの服しかなかった。


 家中を探してみるも、どこにもいない。

 どこに行ったのだろうか。

 早々に着替えを終えて、出かけてしまったのだろうか。

 なら、帰ってくるのを待つか。

 いや、家で話すこともない、出かけたなら、追いかけよう。


 そう思いつつ、ひとまずトイレに入ろうとドアノブに手を掛けようとした瞬間。

 向こう側から、勢いよく扉が開いた。


「あっ」

「……!」


 エリスだった。

 目と鼻の先に、驚いた顔をしたエリスがいた。


 目鼻立ちの整った、キリッとした顔立ちの美人。

 やや湿った波打つ赤髪が肩に掛かり、流れるように胸元へと落ちている。

 胸元では、シャツが汗でぬれて張り付いていた。

 シャツからは、谷が見えた。ブラックホールのように視線を吸い込む、深い谷。

 谷があれば山がある。

 盛り上がった二つの山がある。

 山には汗でシャツが張り付き、頂点には、はっきりとわかるポッチが浮かび上がっていた。

 つまり、俺の目に映っているのは理想郷だ。


「な、な、なによ……」


 エリスの戸惑う顔。赤い顔。可愛い表情。

 俺は無意識に手を伸ばした。

 重量のある塊と、その頂点にあるやや硬い部分に触れた。


 あ、柔らかい。


 ――次の瞬間、エリスの肩がフッとブレて、俺の意識がとんだ。



---



 気がついた時、俺の後頭部はやわら硬いものに包まれていた。

 いつも使っている枕よりは硬い。

 けれど、なんだか暖かくて、弾力のある枕だった。

 ついでに、頭をサラサラとなでる感触がある。


 膝枕だ。

 そう気づいた時、俺はまだ寝ぼけていた。


「うーん、むにゃむにゃ、もう食べられないよ」


 寝ぼけた振りをして寝返りをうちつつ、足の根元にある三角形のポイントに顔をうずめる。

 そこで大きく深呼吸をしつつ、尻を撫で回す。


「ひゃぁ!」


 あれ?

 この尻の形、シルフィではないな。

 シルフィはもっとこう、小さくて、細くて、手に持てるんじゃないかってぐらい脂肪が少ないもんな。

 匂いも、ロキシーのものとは違う。

 ロキシーの匂いは嗅ぐと安心感を憶えるものだが、この匂いはちょっと汗臭くて、嗅いでいると頭の後ろあたりから危険信号が飛んでくるような気がする。

 でも嫌いじゃないし、それになんだか懐かしいような。


 ハッとした。

 ゆっくりと目を開けて振り返る。

 膝枕の主を見る。

 二つの山の向こうから、鋭い目がこちらを睨みつけていた。

 エリスだ。


 エリスは俺の頭をガッシリと掴んだ。

 ひねりつぶされる――。


 シルフィ、ロキシー。

 先立つ不幸をお許しください。


 しかし、次の瞬間、俺の頭はやや強くも優しい手つきでなでられていた。

 キュッと体を縮まらせながら、エリスを見る。

 彼女は口を尖らせつつ、顔を赤くしつつ、そっぽを向きつつも、怒ってはいなかった。


「あの、エリス……さん?」

「エリスでいいわよ」

「エリス……その、ごめん」


 謝ると、頭をガッと掴まれた。

 ああ、先立つ不幸をお許しください。


「……別に……私も、悪かったんでしょ?」

「うん。まあ……ね」

「手紙、読んだわ。ルーデウスも、辛かったのよね?」


 頭をガッチリと固定されたまま、俺はエリスの言葉にうなずく。

 お前は何も悪くないよ、といえるほど、俺も大人ではない。

 あのとき、俺たちはすれ違った。

 当時、俺は傷つき、今はエリスが傷ついている。


「ねえ、ルーデウス」

「なんでしょう」

「……」


 エリスは、口をつぐんだ。

 何を言っていいのか、わからないといわんばかりに。

 話し合いはしなきゃいけない、そう思いつつも、しかし言葉は出てこない。

 俺にとって、エリスにとって、五年間は長すぎたのかもしれない。


「ルーデウスは、あの二人を、その、愛してるのよね?」

「ああ、愛してる」


 断言すると、エリスの手に力が篭った。


「私よりも、好きなのよね?」

「……ああ」


 そう言うと、エリスが悲しそうな顔をした。

 しまった。

 言葉を選ぶべきだったかもしれない。

 比べちゃいけない。 

 俺は、エリスだって好きなのだ。

 惚れなおしてしまったのだ。


「私の事は、もう、嫌い?」

「そんなことはない。たださ……ちょっと離れていた期間が長すぎて、どう接していいか、わかんないというか、なんというか」

「私は今でも、ルーデウスが好きよ。ルーデウスに愛されたいわ」


 エリスの顔は真っ赤だった。

 今のはもしかして、いや、もしかしなくても、愛の告白だ。

 どう答えるべきだろうか。

 すでに答えは決まっていたはずだ。

 だが、その前に、事実確認をしておかなければいけない。


「でも、俺にはもう、二人も妻がいるんだ」

「……」


 エリスはむっとした顔で、立ち上がった。

 俺は膝枕から転がり、床に落ちた。


 どうやら、ここはリビングであったらしい。

 部屋には誰もいない。

 家にはノルンもシルフィもいるはずなのに、誰もいない。

 気を利かせて、二人きりにしてくれたのだろうか。


 エリスは這い蹲る俺を見下ろしていた。

 腕を組んで、足を肩幅に開いて、クッとあごを上げて。

 初めて出会ったときと、同じポーズで、見下ろしていた。


「ルーデウス。外に出なさい、決闘よ!」

「えっ! 決闘!?」


 埃を払いつつ立ち上がりつつ、慌てて聞き返す。


「そうよ! 決闘して、あなたが勝ったら、私は出て行くわ!

 それで、私が勝ったら……」


 エリスは、俺をビッと指差して言い放った。


「私が勝ったら、私も愛しなさい!」


 なんだか妙な事になった。

 そう思いつつ、俺は頷いた。

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