第百五十九話「手紙、届く」
北方大地が最西端。
剣の聖地。
裂帛の気合の篭った声と共に、木剣の打ち合う音が聞こえる場所。
道行く人々の半数は道着か、あるいはそれに準じた服を好み、手には木剣と手ぬぐいを持っている。
時折、剣士風のいでたちをした者も現れるが、町に滞在するとなると、修行のしやすい格好に着替える事がほとんどである。
そんな町の最奥。
一面の雪景色の中にある、大きな道場の入り口。
そこでも、剣士風の衣装に身を包んだ、一人の女が立っていた。
黒を基調とした動きやすそうな上下。
その上から、剣神流の剣聖に与えられる、伝統的な上着と外套を羽織っている。
腰には大小の二本の剣が差され、そのうち一本は、遠めにも素晴らしい剣匠が作ったものだと予想できるほどの存在感を放っている。
これほどの剣を持てるのは、剣神流の高弟、それも剣王クラスの猛者に違いあるまい。
その姿は彼女の波打つ真紅の髪と相まって、獅子を想起させる。
道行く人が見れば、十人の内、九人は道を譲るだろう。
彼女こそが、剣王。
『狂剣王』エリス・グレイラットである。
しかし、そんな彼女は、己の威風堂々たる服装を見下ろし、不安そうな顔をしていた。
「ねぇ、ニナ、本当におかしくないかしら?」
「はいはい、全然おかしくないわ。凄く立派よ」
赤毛の獅子の前に立つのは、濃紺色の髪を括った道着姿の女――ニナである。
彼女は、聞き飽きたといわんばかりに、獅子に返事をする。
「今のあなたは、誰がどう見ても、立派な剣王様よ」
「でも、ルーデウスはもっとフリフリした服がいいって言ってたわ」
「あのねぇ」
ニナはあきれ果てた声音で、ため息をついた。
「私に、あなたの男から見ておかしいかどうかなんて、わかるわけないでしょ?」
「そうだったわね……」
「なんでそんな哀れそうな目で見るのよ。私だってジノと……いや、それはいいけど」
ニナは首を振り、指を一本立てた。
「大体ね、この辺にそんなオシャレな服が売ってるわけないでしょ。
どこだと思ってるのよ。そんなフリフリした服が着たいんなら、町で買いなさいよ」
「それもそうね」
エリスはニナの言葉に納得し、うなずいた。
だが、このやり取りは今日だけでも、すでに五度目の事である。
「それに、今服装の事を心配してもしょうがないでしょ。
魔法都市シャリーアまで、どれだけ急いでも一ヶ月は掛かるんだから」
「……」
「服よりも、会う時に、ちゃんと清潔にしてるのが大事でしょ。
お風呂に入って、髪もちゃんと梳かして、香油で整えて……ええと。
汗臭い女なんて嫌われるに決まってるんだから」
「ルーデウスは、私が汗をかいても、嫌な顔一つしなかったわよ」
「まあ、そういう所に理解が無いと、あなたの相手はできないわよね……」
「むしろ、汗びっしょりの下着の匂いとか嗅いで、喜んでたわね」
「変態じゃない!」
その言葉に、エリスは少しむっとした顔で言い返した。
「ルーデウスは変態じゃないわ、ちょっとエッチなだけよ」
「でも、あなたの匂いを嗅ぐなんて……どう見ても変態よ!」
「……」
エリスはそういわれ、己の二の腕に鼻を近づけて、すんすんと匂いを嗅いだ。
だが、おろしたての服と、石鹸の香りがするだけである。
彼女は旅を前に風呂に入ったばかりである。
「変態じゃ、ないわ」
「……まあ、ちょっと今のは言い過ぎたわ」
「……」
二人はそれきり、黙ってしまった。
寒空の下を冷たい風が吹き抜け、二人の髪を揺らした。
「……ギレーヌ、遅いわね」
「どの子を連れて行くかで揉めてるのかもしれないわよ」
「そうね」
ニナの言葉に、エリスはうなずく。
「……そういえば、あなたの彼氏の噂、ちょっと聞いたわ」
「どんなの?」
「ルーデウス・グレイラットは、目が飛び出すって」
「ルーデウスなら、やりかねないわね!」
「……それから、胸の小さい娘が好きだって」
ニナはそう言うと、エリスを見た。
エリスもまた、己を見下ろした。
そこには、剣士にあるまじき豊満な胸があった。
「………………大丈夫よ」
そういうエリスの顔は、やや青かった。
「それから、伝説の迷宮を踏破したとか、不死身の魔王を滅ぼしたとか、七大列強といい勝負をした、なんて噂も聞いたわね」
「そう、さすがはルーデウスね。そうでなくっちゃ」
エリスの顔に赤みが差した。
ルーデウスが自分と同じように頑張っていると聞いて、嬉しかったのだ。
「かなりのバケモノよね。普通なら信じられないところだわ」
「でしょう?」
エリスは胸を張り、口元をニヤケさせてフフンと鼻息を吐いた。
「でも、ちょっと変な噂も聞いたわ」
「どんなの?」
「ルーデウス・グレイラットは女たらしで、いつも違う女を侍らせてるって」
エリスのニヤケ顔が固まった。
「なんか、強いからって好き放題してるって話も聞くし……」
「……」
「ねえ、エリス、もしかしてなんだけど」
ニナは小さな声で、言った。
「あなた、忘れられてるんじゃないの?」
ニナの左手が高速で動いた。
次の瞬間、バシッという音と共に、エリスの拳が受け止められた。
「……」
拳は受け止めたものの、エリスの苛烈な瞳を受け止めきれず、ニナは目線を逸らした。
「ごめんごめん、ただの噂よ」
エリスは拳を引き、腕を組んだ。
足を肩幅に開き、胸を逸らして、口をへの字に結んだ。
そして顎を上げて、フンとそっぽを向いた。
「……」
「……」
「ギレーヌが来たわね」
エリスの視線の先に、四頭の馬がいた。
それらの先頭に立つのは、獣族の女である。
剣王ギレーヌ・デドルディア。
齢にしてすでに四十近いであろう彼女は、変わらず頑強な体を持ち、二頭の馬の手綱を引いていた。
さらにその後ろ、馬を引くのは、妙齢の美人である。
旅姿であるものの、流れるような髪から、見るものを虜にするような色気が出ている。
水王イゾルテ・クルーエル。
彼女の引く馬には、水神レイダ・リィアの姿もあった。
「待たせたな」
ギレーヌはそう言うと、荷物が積まれた馬の手綱をエリスへと渡した。
「また喧嘩か?」
「ニナが悪いのよ」
エリスが口を尖らせていうと、ニナは肩をすくめた。
それを見て、ギレーヌは「そうか」とつぶやき、ふっと笑った。
「やれやれ、ガルの坊やは見送りにも来ないのかね」
馬上から声がする。
この場で最も強い老婆は、道場の方を見て、不機嫌そうな顔をしていた。
「お師匠様。剣神様はお酒に弱いお方ですゆえ」
「昨晩の酒が残っとると? いい歳をしてはしゃぎおって……そうじゃニナ。今なら勝てるかもしれんぞ、挑んでみてはどうだ?」
馬上の老婆はそう言ってニナをけしかけるが、ニナは苦笑しただけだった。
「いいえ、剣神になる時は、正々堂々正面からと決めていますので」
「……あんたは、まっすぐでいい子だねえ。なに、あんたなら、そう遠くない未来に勝てるよ。頑張りな」
「はい。これまでの指導、無駄にせぬように精進します」
ニナはレイダへと頭を下げてから、イゾルテへと向き直った。
「それで、あなた達はこれからどうするの? 途中まで、エリスと一緒なのよね?」
「はい。アスラ王国に戻ります。私は、剣術指南役としてお城に招かれる事も決まっていますので」
「あ、そうなんだ……寂しくなるわね……」
ニナがそう言うと、イゾルテは柔らかく微笑んだ。
「ニナも、もしアスラ王国に来る事があったら、訪ねて来てください。町を案内しますから」
「嫌よ。私みたいな田舎者がアスラ王国になんて行っても、変な事やって笑われるだけだもの」
ニナがそう言いつつ鼻を掻くと、エリスがフンと鼻息を吹いた。
「フン。私達を笑うやつなんて、たたっ斬ればいいんだわ」
エリスの物騒な言葉に、ニナは自分たち三人が何者なのかを思い出し、くすりと笑った。
剣王と、水王と、剣聖。
そんな三人を笑うような輩は、彼女らの及ばない強者か、あるいはものを知らぬ愚か者だけであろう。
「エリス。そろそろ行きましょう」
「わかったわ!」
エリスの元気な返事に、イゾルテは苦笑して馬へと飛び乗った。
エリスもまた、自分の馬へと飛び乗る。
馬は乱暴に跨がられて、嫌がるように身をよじったが、エリスがポンと首筋を叩くと、またたく間におとなしくなった。
「みんな、達者で」
いつしか、ニナの瞳には、涙が浮かんでいた。
この数年。
エリスが来てからの事を思い出していた。
嫌な出会いだった。
屈辱から始まり、何度も苦渋をなめさせられた。
しかし、そのおかげでニナは悔しさをバネにする、という事を学べた。
イゾルテが来てからは、彼女の柔らかな物言いや助言に、何度も助けられた。
二人がいなければ、自分は今もまだ、そこらの剣聖と同じ立ち位置にいただろう。
剣王になるか、というステージには、上がれなかったに違いあるまい。
つまり二人がいなければ……。
「ちわーす。郵便です、サインお願いします」
と、そこに脳天気な声が響いた。
ニナは感動の瞬間をぶち破られ、少々イライラとしつつも、声のした方を向いた。
そこには、もこもこの防寒具に身を包んだ、脳天気そうな男が立っていた。
彼はこの場にいる人々の事など知らないという顔で、白い息を吐きつつ、カバンから一つの封筒を取り出そうとしていた。
「もう、誰からよ」
「えー……と、エリス・ボレアス・グレイラット様宛ですね」
という言葉で、エリスは眉を潜め、続いての言葉で目を見開いた。
「ルーデウス・グレイラット様からです」
「ルーデウス!」
エリスは即座に馬から飛び降りて、男から封筒を奪い取った。
そして、そのまま封筒をやぶこうとした所、男が慌てた顔でエリスの肩をつかんだ。
「ちょっと、サインお願いしますよ。それがないと、報酬が……」
「どこによ」
「あ、ちょっとまってくださいねっと」
男はカバンから、領収証のようなものと黒檀の棒を取り出し、エリスに渡した。
エリスは黒檀の棒を持ち、数秒考える。
文字を思い出しているのだ。
そして、さらさらと汚い字でエリス・グレイラットという名前を書いた。
男はその文字をまじまじと見て、なんとかエリス、という文字列を確認すると、「よし」と頷いた。
「はい、どうも……と。いやー、割りのいい仕事だったなぁ……」
男はそれを受け取ると、意気揚々といった感じで、きた道を戻っていった。
エリスはそんな男の行方などどうでもいいと言わんばかりに、封筒にとりかかった。
すぐに封を切ろうとして、エリス・ボレアス・グレイラット様と書かれた文字が目につく。
確かに、ルーデウスの文字である。
(ルーデウスったら慌てものね、もう私はボレアスなんて名乗ってないのに……あ、知らないのかしら)
なんて思いつつ、裏に書かれたルーデウス・グレイラットという文字を見る。
相変わらず、几帳面だけど、どこか抜けているように感じられる文字。
かつて、この文字を見ながら、なんども書き取りをさせられたことを思い出し、エリスは口端を持ち上げた。
そして、封筒の端を爪で引っ掻いて開こうとして。
開かない。
カリカリ、カリカリと三度ほど引っ掻いてから、エリスは腰の剣に手を掛けた。
手紙を中空へと投げつつ、エリスは剣を抜き放った。
「ハッ!」
一閃。
手紙はバラバラに……なることはなく、綺麗に端だけを両断して、エリスの手元に戻る。
エリスは切れ端をポイ捨てしつつ、中の便箋を取り出した。
そして、ワクワクといった表情で、それを読み始める。
読み始め、読み進め。
しかし、その表情が、見るみるうちに不機嫌そうなものへと変化していった。
「ね、ねえ、エリス、何が書いてあるの?」
「……………………」
ニナがそう聞くが、エリスは答えない。
怖い顔をしたまま、紙面に目を落とすだけである。
「ねえったら」
「うるさいわね! ちょっと習ってない字が多いから、読めないだけよ!」
「あ、そう……」
「ニナ、あなた読んでよ!」
「えぇ、私、文字とか読めないんだけど」
「なによ! 文字が読めないといざという時に困るわよ!」
「偉そうに言って、あなたも読めてないじゃない!」
そんな口喧嘩に、イゾルテも馬から降りてくる。
「まあ、落ち着いてください。私が読みますから」
「あ、うん。お願い」
イゾルテの提案に、エリスは素直に手紙を手渡した。
イゾルテは紙面に目を落とし。まずはゆっくり、自分で読み始める。
しかし、その顔は、次第に険しいものへと変化していった。
そして最後まで読んでから、怒気の篭った声を放つ。
「……なんなんですか、この人は!」
「な、何よ。何が書いてあるの?」
「エリスさん。あなた、こんな人のために、今まで頑張ってきたんですか……ああ、なんて可愛そうな……ミリス様、お救いを……」
イゾルテはそう言うと、手を組んで空を見上げた後、哀れみの目でエリスを見た。
「悪いことは言いません。エリスさん。シャリーアなどに行かず、私達と一緒にアスラに行きましょう。あなたのような方が、悪い男に騙される事はありません」
「いいから、何が書いてあるか教えなさいよ! ぶった斬るわよ!」
「わかりました。いいですか、こう書いてあります」
エリスが腰の剣に手を掛けた所で、イゾルテは怒りの声音で、手紙を読み始めた。
『前略 エリス様。
ルーデウス・グレイラットです。
我々が別れてから、早いものでもう五年になります。
私の事を、覚えているでしょうか。
私はあの時の事を、忘れる事はないでしょう。
あなたとの初めての夜。私はあなたと添い遂げようと心に誓っておりました。
しかし、朝目覚めた時、あなたはいなかった。
その時の喪失感、虚脱感は私の心に深い闇をもたらしました。
辛く、切なく、儚い三年間でした……。
無論、今はその事を恨むつもりはありません。
ですが、深く落ち込んだ私の気持ちも理解していただければ、幸いに思います。
さて、こうして筆を取ったのは、ある人物にエリスの気持ちについて言われたからです。
私はてっきり、あなた様は私を切り捨て、一人で旅立ってしまわれたものだと思っていました。
ですが、その人物は、それは私の勘違いで、エリスの心は常に私に向いているというのです。
私には現在、二人の妻がいます。
どちらも暗く落ち込んだ私を救い上げてくれた方です。
エリスとの事が私の勘違いだったとしても、私が深く落ち込んだのは事実であり、彼女らが私を救ってくれたのもまた事実です。
ですが、もし、エリスが本当に、以前と変わらぬ気持ちでいてくださっているのなら。
私と結婚し、私と一緒に暮らしたいと思ってくださっているのなら。
私には受け入れる準備があります。
エリスにとっては不本意でしょうが、今の二人と別れるつもりは無いため、三番目の妻という形になります。
もし不本意であり、どうしても許せないというのなら、私にはあなたの拳を受け入れる覚悟があります。
2~3発で勘弁してもらえればな、と思っています。
でも、できれば、私はあなたと喧嘩はしたくありません。
仮に家族になれないのだとしても、友人として良い関係を築ければ、と考えています。
以上です。
ルーデウス・グレイラットより』
「……」
その文面を聞いた時、エリスは固まっていた。
固まったエリスを見て、イゾルテが気炎を吐く。
「ひどい男ですよね! すでに二人も妻がいること自体がおかしいのに、三人目でもいいなら別にいいよというこの態度! 女をナメているとしか思えません!」
「そう? かなりエリスに配慮して書いていると思うけど……?」
ニナは文面を見て顔をしかめつつも、そう反論した。
「配慮!? 久しぶりの手紙に、愛しているの一言もないんですよ!?
それなのに受け入れるとかなんとか上から目線で!
私はこのルーデウスという人物が好きになれません!」
「エリスに捨てられたと思って、三年も辛い思いをしたって書いてあるんでしょ? ほったらかしにしたエリスにも責任があるのよ!」
「そんなのは方便に決まっています! どうせエリスさんの剣術の腕や、体が目当てなんです!」
「いや、それだけが目当てでエリスを側に置くのは、ちょっとリスクが高すぎるんじゃないかしら……」
ニナは唸り、イゾルテはぷんぷんと怒る。
エリスは腕を組んだポーズのまま、空を見上げていた。
その瞳には、もはや何も写っていない。
空は青く、心は真っ白だった。
「あれ? もう一枚ありました」
と、そこで、イゾルテが封筒の中に、もう一枚の便箋が入っているのを発見した。
彼女はそれを取り出し、音読する。
「ええと……なになに」
『追伸。
私はこれから、龍神オルステッドに戦いを挑みます。
勝てるかどうかはわかりません。
この手紙が届いた時、私はすでにこの世にはいないかもしれません。
もし、生きて帰ってこれたら、話の続きをしましょう』
それを読みきった時、イゾルテの顔は固まっていた。
ニナも固まっていた。
その表情は戦慄である。
龍神オルステッドに戦いを挑むという単語に、ただただ戦慄を覚えた。
だが、エリスの口元にだけは、笑みが浮かんでいた。
その瞳は光を取り戻し、決意と狂気の炎が宿っていた。
「急がないと、遅れちゃうわね」
そう言うと、エリスは馬へと飛び乗った。
この時、彼女の頭には、すでに一つのことしか残っていなかった。
「行くわよ、ギレーヌ!」
エリスはそう叫び、馬を走らせる。
馬は雪を蹴り飛ばしながら走り、それをギレーヌが追った。
二人は先ほど手紙を届けてくれた男を弾き飛ばしつつ、あっという間に遠ざかっていった。
ニナとイゾルテは、ただただ、あっけに取られてそれを見送るしかなかったという。