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ラーメン好きですよ。以下引用ラーメンは人なり最終回山田拓美(5?歳)ラーメン二郎 三田本店(東京都港区)ラーメン屋が生んだ都市伝説(前編)この連載を始める際、ジャンボ氏と「どの店にお願いをしようか」と話し合った事がある。その時、「是非とも話を聞いてみたい店」として、「三田二郎」の名前が挙がった。挙がったと同時に、「とはいえ、三田二郎の話を聞くのは難関だろう」とも、我々は予想した。三田二郎といえばラーメン業界屈指の有名店であり、人気店である。にもかかわらず、近年、テレビはおろか雑誌の取材すら一切受けていないと聞く。最近でも、二郎に関する雑誌の記事はあるものの、いずれも伝聞で、ご主人に直接取材した例はない。そんな三田二郎から話を聞くことが可能なのだろうか、これは大きな不安要因だった。紆余曲折あった後、今回運良く、ご主人、山田拓美さんから直接お話を聞くことが出来た。これも山田さん始め関係各位のご協力、助言の賜物である。文頭にあたり、今回の取材が出来たことを、関係各位に感謝したい。三田二郎は、ラーメン伝説の宝庫である。というか、これほどカリスマ性が高く、かつ真相がベールに包まれている店は、全国どこにもないだろう。まさに三田二郎は、「都市伝説そのもの」と言い切って差支えないと思う。読者諸氏にあっては、「伝説の真相を知りたい」という要求も多いとは思うが、残念ながら、今回の取材内容の中に「二郎伝説のベールを剥ぐこと」は、含まれていない。まあ「全く触れない」わけではないが、少なくとも、「謎解き」をテーマに扱うことは、避けることにした。というのも、山田さんの方から、「伝説は、伝説のままの方がおもしろいじゃないか」と言われたからである。確かにそれはもっともだと思った。というわけで、伝説の真偽をただすことを期待された方には、申し訳ないけれど、今回は謎解きには触れずに、話を進めたい。ならば、今回、我々はどのような取材を試み、読者諸兄に何を紹介すればいいのか。前から考えていたことなのだが、筆者にとって「二郎最大の謎」は、個々の伝説の真偽ではない。伝説そのものよりも、「なぜ二郎だけが、伝説を生むのだろうか。」という事の方が不思議だった。確かに、二郎は有名店だし、人気店なのは言うまでもないが、二郎以外にも人気店、有名店はいくつもある。二郎の顔である山田さんは、個性的な店主だが、ユニークな人物像の店主だって、他にもいる。なのになぜ、二郎だけが飛び抜けて「伝説の店」なのだろうか。一般論を言えば、「超有名店、人気店にもかかわらず取材拒否なので、真相が分からないから」というのが、一つの答えだろう。また、「一部の常連客以外は、山田さんとコミュニケーションがなく、一般客は山田さんと常連客との会話から情報を仕入れる。」という「お店の事情」も考えられる。しかし、それらは、いずれも理由の「一部」に過ぎない。三田二郎が「伝説の店」である本当の理由は、ラーメンそのものの強烈な個性と、作り手「山田拓美」氏のお客を惹きつける魅力にある。つまりお客が「単なるお客であることに満足できず、もっといろんな事を知りたい」と感じさせる力が、三田二郎には確かに存在するからだと思う。それはすなわち、作り手である山田さんの魅力が作り出したものではないだろうか。今回の取材で、つくづく思ったことなのだが、「山田さんの人柄」は、驚くほど「二郎のラーメン」に似ている。山田さんは、今までの、どのご主人とも違う、独特の人物だった。上手く伝えることは難しいのだが、敢えて言えば「豪快でいて繊細」「おおらかであり、かつ、こだわりでもある」こんな感じだろうか。二郎のファンならば、「それは二郎のラーメンのことじゃないか」と思われるかもしれない。それほど山田さんは、二郎のラーメンのような人なのである。付け加えるが、山田さんの中にある二律背反の要素は、矛盾になっていない。言葉で言えば矛盾するようなのだが、実際には、それが違和感なく一つの人柄になっているのだ。これは二郎のラーメンが豪快さと繊細さを併せ持っていることを思い起こすことで理解してもらえると思う。そんな三田二郎の魅力を、うまく伝えることが出来るだろうか。言葉で表現する難しさを痛感しながら、今回は書かせてもらう。生い立ち「生まれた場所?東京だよ。木場で生まれて深川育ちってね。ほら、勝鬨橋のすぐ下だよ。」山田さんは昭和1?年3月17日、江東区深川に生まれた。兄弟はなく、一人っ子で、しかも父親の顔を知らない。父親は出征したまま戦死、一度も顔を見る機会がなかったのである。山田さんは婦人服の仕立てをしていた母親の、女手一つで育てられることになった。その後、小学校2年まで木場で暮らした後、母親の都合で、4年生まで世田谷区太子堂、それから世田谷区野沢と、山田さんは住まいを変えている。「子供の頃?学校行かなかったなあ。だって遊んでる方がおもしろいじゃない。」山田さんは、子供の頃、力自慢の少年だった。何しろ小学校6年の時すでに身長172㎝、体重65㎏という体格で、当時神社の祭礼でよく行われていた相撲大会では、小学校5年、6年と無敵の強さだったという。その強さを見込まれ、鳴門海(前の竹縄親方)から「ぜひ角界に」とスカウトされたほどである。「ところが、そっから成長が止まっちゃったんだよねえ。でも、あの時、お相撲さんになっていたら、今ごろ理事長だよ(笑)」山田さんの角界入りは幻に終わったが、大相撲、学生相撲を問わず、今でも、相撲好きなことは変わらない。和食の職人へ中学を卒業後、山田さんは和食の職人を目指し、大森海岸にある「松浅本店」に勤めることになった。「子供の頃から、料理を作るのが好きだったんだよ。で、お袋のつてで松浅に入ったんだ。」ここから約10年間、山田さんは、和食の料理人として働くのだが、その道のりは、平坦とは言えなかったようである。「7年ぐらい松浅を出たり入ったりしてたよ。え、意味?だから、プイとやめてよそへ行って、そこで『修行が足りないかなあ』と思うと、出戻ったりを繰り返したんだよ。松浅はいい店で、給料は上がらなかったけど、文句一つ言わず、置いてくれたよ。」「なにしろ30軒ぐらい渡り歩いたかな。結構不義理した店もあったね。」「俺はそんなに腕は良くなかったなあ。でも、めちゃめちゃ手は早かった(仕事が速かった)けどな。」昔の和食の世界は、今以上に厳しい徒弟制があった。何しろ1日早く入った先輩は、一生の先輩だったり、上の命令は絶対だったりと、理不尽なことも多かったという。そんな中で、山田さんは行く末に不安を感じるようになった。「今、テレビとかに出ている有名職人は、そこで辛抱できた人たちだけど、それは、ほんのひとにぎり、何百人に一人で、ほとんどのヤツは消えていくんだよね。で、俺はその何百人に一人には、成れないとわかったんだよ。」ラーメン「次郎」始まるそんな時、24歳の山田さんに転機が訪れる。都立大でテナントを借りていた、山田さんの叔父さんが、「店をやってみないか」と持ちかけてきたのである。「店って言っても2坪しかないんだよ。家賃が15000円で、権利金が45000円だったかな。おでんか焼き鳥か、屋台のラーメンぐらいしかできない広さだね。で、最初は焼鳥屋でもやろうかと思ったんだけど、俺は酒飲みだから、酒を置く商売は自分で飲んで店を潰しちゃう(笑)と思ったんで、じゃあ、ラーメン屋にしようと決めたんだよ。」当時、山田さんは40万ほどの自己資金があったので、施工は友達の大工に頼んで、10万円で済まし、ラーメン屋は出来上がった。屋号は「ラーメン次郎」。「二郎」ではなく「次郎」である。「当時、『ラーメン太郎』ていうインスタントラーメンがあったんだよ。それにあやかるつもりで『同じ太郎では申し訳ないから、ラーメン次郎』に決めたんだ。」ところが、お客は全然来なかった。それもそのはず、山田さんは、ラーメンを作ったことはおろか、ろくに食べたこともなかったのである。「当時はラーメン屋もなかったし、取り立ててラーメンが好きでもなかったから、ほとんど食べたこともなかったんだよ。『まあ、屋台のラーメンぐらい簡単だろう』とタカをくくって、我流で作ってたんだよな。それこそ『思うがまま』(笑)ってやつだよ。」最後の客「半年ぐらい、全然客が来なかったよ。休まずにやったんだけどね。でも半年目に、これじゃあしょうがないと思って、やめることにしたんだ。「廃業」と決めた日。山田さんは来ないお客をあきらめ、一升瓶を買い込んで酒を飲みながら店番をしていた。そんな時、4人組の学生が店にやってきたのである。「『ラーメンくれ』って言うんだけど、だいぶ酔っぱらってたんで『ラーメン屋はやめたから、もう作んない。欲しけりゃ勝手に自分で作れ』って言ったんだ。そしたら面白がって、学生がラーメン作ったんだよ。それ食って『おまえら、俺より上手いなあ』(笑)とか言って。それで酒を買い足して、そいつらと酒盛りをやったんだよ。」学生達は口々に「このラーメンはうまくない。」「こんなラーメンじゃあ、おじさん、売れるわけないよ。」と正直な感想を言った。それを聞いた山田さんは、「だから廃業するんだ。」と切り返した。「でも学生が『そんなこと言うなよ、明日も来るからさ。明日もやれよ』って言うんだよ。俺が『ホントに来るか』て聞いたら、『必ず来る』って言うんだ。それで次の日もやってみることにしたんだよ。」学生達は本当にやってきた。そしてラーメンを食べ、改めて「おいしくない」と言い切った。「『じゃあ、やめる』て言ったら、また『そんなこと言うな、今度は友達も連れてくるから』って言って、次の日は友達を連れてきてくれたんだ。それで、『このままじゃ、まずい』と思うようになったんだな。」ラーメン研究せっかく来てくれたお客さんのためにも、このままでは終われない。そう思った山田さんは、ラーメンのことを一から研究することにした。しかし、ラーメンについての知識は何もない。「ラーメンとはどうやって作るもんか、勉強しようと思ってさ。それまで昼の11時から夜の12時半まで営業してたのを、昼をやめて、中華料理屋にアルバイトしに行ったんだよ、斡旋所にウソついて(笑)。」1ヶ月間の中華料理屋での体験は、驚きの連続だった。なにしろ「スープは寸胴で取る」ことすら知らず、普通の鍋で作っていたと言うくらい、山田さんはラーメンに無知だったという。「やっぱり違うんだ、こりゃやべえなあと思ったよ(笑)」しかし、一旦吸収し始めると、あとは早い。「もっと脂っこい」「もっと味が濃い」など、自分の中でラーメンのイメージをふくらませ、わずか2週間で現在のラーメンを作り上げたのである。太い麺を選び、スープを2本作ってブレンドさせ、醤油の塩味を抜くなど、独自の工夫の結果、ラーメンは完成した。「だからラーメン作りは、誰にも教わってない。味も麺も、全部自分の好みで決めたんだ。完成した時は、『これでいける』という自信ができたね。」山田さんは、完成した新作ラーメンを、さっそく例の学生達に食べさせると、大変な好評だった。ここから二郎の味は始まるのである。ラーメン屋が生んだ都市伝説(後編)さらなる移転二郎に再び移転の話が持ち上がったのは、区画整理が原因だった。道路拡幅のため、立ち退きをせまられたのである。「聞いたら関東大震災の頃からあった話らしいけど、完成するまで、まだ当分かかるんじゃねえか。」山田さんとしては、今度こそ引退する腹づもりだったらしい。「50過ぎて、一からやり直しも辛いしな。」しかし、常連客は、引退を認めず、店の継続を願った。その中で有名なのが、「慶應の学生食堂に二郎を」という運動である。移転騒ぎが持ち上がった時期に重なるように、たまたま慶應の学生食堂の改装が決まったので、「二郎を学内に誘致しよう」という話になったらしい。元々は学生が言い始めたことなのだろうが、某助教授が中心となって大学当局に働きかけ、当局側にも協力者を得て、かなり「本気の」誘致運動だったらしい。結局、諸般の事情(最大の理由は、「学内の食堂に行列ができるのはまずい」ということらしい)で実現しなかったのは周知だが、これもまた、慶應と二郎との深いつながりを感じさせるエピソードである。そして96年2月29日、三田二郎は、移転先が確定しないまま、最後の日をむかえた。その日は早くからファンが集まり、昼過ぎには麺切れになってしまう。しかし、「スープだけでも」と客は帰らず、スープまでなくなってしまった。それでも客が帰らず、立ち去りがたい雰囲気だったという。「それで、最後に応援部の音頭で、みんなが『若き血』(慶応の応援歌)を合唱してくれたんだよ。あれはうれしかったなあ」「ここまで愛されている店を、このまま閉めることはできない。」そういう思いが山田さんにもあった。その後、同年6月、二郎は現在の場所に復活した。そして今も、二郎は多くのファンを惹きつけているのである。弟子入門周知のように、二郎には数多くの支店?(系列店、暖簾分け?何と呼ぶのが妥当なのだろう?)がある。これもシステムがわからない「二郎の謎」の一つなのだが、話を聞いてみると、これまた山田さんの人柄にリンクしたものであった。「最初の弟子は吉祥寺だな。もう15年くらい前かな。それまでも『習いたい』ていう人はいたけど、真剣だったのは吉祥寺が最初だったよ。」二郎の弟子入りのシステムは独特である。まず山田さんに弟子入りを申し込む。山田さんが了解すれば、本店の厨房に入りラーメン作りのすべてを習う。そして、閉店後に体育会の常連を呼んで試作品を作り、意見を聞く。ここまではそんなに珍しい話ではないのだが、独特なのは、修業の期間である。「自分でやってみて、自信がついたら、いつ店を出してもいいよ。3日でも1ヶ月でも、本人が納得したら修業は終わり。だって個人差があるんだから、期間を決めたりする意味はないよ。」修業が終われば、開店。これも原則として、初日は山田さんが手伝いに行き、オペレ-ションをチェックしている。一応これが二郎の出店の段取りだが、あくまで「原則として」であり、こういったプロセスを経ていないお店もある。一般に二郎は、「直系」「傍系」「二郎フーズ系」という風に分類されているが、「すべて山田さんの指導を受ける」というのが基本で、味の意味での、本店との遠近は、いちおう関係ないと言っておく。二郎のこだわりさて、二郎のラーメンと言えば、「ワイルド」とか「豪快」というイメージが多いが、その中にきちんとしたこだわりがあることを忘れてはいけない。まず、麺。山田さんは、各支店に「原則として」自家製麺を義務づけているが、これは無添加の麺を作っている。「元々あの麺は、味の勉強をしてた時、都立大の近所で偶然見つけたんだ。それが廃業しちゃって、しょうがないから作ってたお爺さんに習ったんだよ。」それと醤油。これも二郎はオリジナルの醤油を使っている。「最初は有名メーカーのを使ってたんだけど、それじゃあ個性が強すぎるんだよな。うちのは、麺もスープも個性があるから、醤油まで個性があると、ケンカしちゃうんだよ。だからあちこち探して、二子玉川にあった醤油屋でクセのない醤油を見つけたんだけど、ここがまた廃業しちゃって。その後、千葉の醤油屋と相談して、ウチが使う専用の醤油を、タンクごと買ってるんだよ。」「ウチは、何でも自分で作ってるよ。買うのは割り箸とニンニクぐらいか。でも、そんなの当たり前だと思うけどね。」二郎のラーメンは、今でも450円である。あのボリュームを思えば、破格の値段と言っていい。それは、山田さんの経営努力のたまものである。「すべて自家製」という「こだわり」は、「おいしさ」へのこだわりであると同時に、低価格で提供することへのこだわりでもある。