法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「権力勾配」は「権威勾配」の誤字という主張があるが、その初出は半世紀以上前で誤字とも考えづらい

 差別論などでつかわれる「権力勾配」という言葉に対して、もともとは航空業界でつかわれる「権威勾配」という言葉で、誤って流用されているという主張がある。
 その主張をタイトルにした下記Togetterを読んでいくと、「まつうら姫 @lyricalium」氏が過去の用例は「誤字」と断言していたが、まとめられた範囲では根拠がはっきりしない。
「権力勾配」という単語は「権威勾配」の誤字。今ではネットゴージャン、バズワードとなっている。 - Togetter


実名の学者とかで「権力勾配」みたいな無意味なバズワード使ってるの所謂「反差別」にもまずいないぞって以前は言えたけど今やノイホイとか一応は物書きの人が論敵煽りにばんばん使っててめんどい、「権威勾配」の誤字以外で専門書や論文に出てくる例はなくても新書とかではもう使われてるかもしれん


存在しない専門用語の実在を疑わなかった皆さんの信仰心に応えて「権力勾配」がうねうねしたクリーチャーとして受肉しつつある

 同じように「権力勾配」をネットミームあつかいし、「学術用語」として存在しないと断言する匿名記事もあった。
権力勾配。 「権力勾配」という学術用語は存在しない(ネットミームを学..

「権力勾配」という学術用語は存在しない(ネットミームを学術用語と勘違いして論文に使ってしまった可哀そうな人はいるが)。

元々は権威勾配(チームが機能するには権威に格差と序列が必要の意味)の勘違いから始まって、字面からの連想で根拠になる研究も定義もなしにそれっぽい使われ方が流行(ネットミーム化)した。

これを使う人間は知ったかぶりで確かな意味もない言葉に騙される情弱であることを自白しているに等しい。


 こうした論争や使用例についてはnext49氏による2023年の下記エントリがまとまっている。インターネットではgoogleトレンドの初期から確認できるようだ。
「権威勾配」と「権力勾配」どっちが正しいの? - 発声練習

最初は「権威勾配 authority guradient」が使われていたけれども、少なくとも医療分野(health care)では、いつのことからか「権力勾配 power gradient」もほぼ同等の意味で使われている。

 同じ研究者が違う媒体で両方の言葉をつかっている事例も指摘されており、一方が単純に誤字や誤記とは考えづらいようだ。

以下は権威勾配の例。上の朝日の記事で権力勾配という用語を使っている熊谷さんがこちらは権威勾配を使っている。


 私も「権力勾配」という言葉をつかったことはあるが、何気なくつかっている言葉の多くがそうであるように、どこで最初に見聞きしたのかは記憶していない。
 概念としての妥当性とは別個に、言葉の表記のうつりかわりの問題として興味をおぼえたので、国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索で簡単にしらべてみた。
国立国会図書館デジタルコレクション
 まず「権力勾配」だが、1968年の『現代人の思想 10』に検索で引っかかる最古の用例が見つかった。

81: 心を寄せているのは、権力勾配のさまざまな点で生ずる相互作用である。そこにはまず、権力勾配から遠く

 送信サービスで前後を簡単に読むと、ケネス・ボールディングによる組織論を引いたもので、差別を直接的に論じたものではないようだ。しかし「勾配」の必要性を主張している内容とも読めない。くりかえし「権力勾配」という表記がつかわれているので誤植や誤記でもない。
 次に見つかったのは1986年の『保健の科学 28(5)』だが、まさに医療分野の書籍で、階級制への批判的な表現でつかわれているようだ。送信サービスでは読めないので、実際の文脈は図書館に行かないと確認できないが。

4: 市民と統治者との間の権力勾配は急峻で士農工商の身分の上下は厳格であり,武士は,官学として定められた

 一方、「権威勾配」の最古の用例は少し遅くて、1980年の『臨床心理学研究 18』らしい。これも送信サービスでは読めないが、勾配の存在を認識しつつやわらげるべき位置づけにしていることがうかがえる。

5: 4) 治療者一患者の権威勾配をやわらげて(ロールプレイ等の導入),価値観のからむ討論もやりやすくする。

 つづいて見つかるのが1986年の『航空法務研究 (16/17)』で、このころから航空業界の組織論でつかわれていったのかもしれない。

81: ient (操縦室内権威勾配:TAG)とよび、関係する人達の相対的な力関係を示す要素によって影響される。安

 また、表記ゆれを考慮して「権力の勾配」で検索すると先述した『現代人の思想 10』が最古だった一方で、「権威の勾配」は1954年の『幼児・児童教育講座 第3 (親子関係)』が見つかった。

21: あると、即ち、そこに権威の勾配が生じると、上なるものの意思が、下なるものへ流れ過ぎて、反対に下な

 これは家族の内部に生まれる勾配を批判的にとらえた内容で、もちろん航空業界にかぎった内容ではない。


 もちろん、国立国会図書館デジタルコレクションにも検索のとりこぼしは存在する。
 特に近年の一般的な書籍は検索できないらしいが、「権力勾配」が27件で「権威勾配」が55件なので、過去には後者がやや広くつかわれていた可能性*1がうかがえる。
 そもそも検索で引っかかる数が多くはないので、業界の専門用語としてつかわれたのだとしても、おそらく一般に広まるまで時間がかかったのだろう。
 しかし、「権力勾配」という表記が誤字や誤記と断言できないことは確実だろうし、「権威勾配」もふくめて航空業界に限定した用語でなかったことも事実だろうとは考えられる。

*1:脚注や広告で同じ文言がつかわれている場合にも検索でひっかかるので、頻度の調査を厳密におこないたいならひとつひとつ確認する必要がある。私が最初に全文検索機能でしらべた「従軍慰安婦」でも、後年の増刷につけられた巻末の広告が引っかかったため除外する必要があった。 hokke-ookami.hatenablog.com