第2話 いざ、稲尾家へ
車がやや勾配のある道に入った。途中にある喫茶店のような店に入り、砂利が敷かれた駐車場に停める。
「ここは? ベーカリー?」
「私たちが気に入ってるパン屋さん。うつみ屋って名前よ。妹がここのパンを食べたいって、出る時にね」
「燈真君も小腹が空いてるんじゃない?」
時間は午後二時半。今日食べたものは家を出た際に寄ったコンビニで選んだ海苔弁当だけだ。小腹と言わず、普通に空腹である。
「そうですね。俺も腹減ってます」
「敬語なんて使わないの。うちじゃあ、血の繋がりなんてそれほど意味をなさないんだから。あ、ごめんね、自己紹介してなかった。
「砂撒き狸……? 化け狸とは違うんです――、違うの?」
「夜道を歩いてると砂をかけてくる狸妖怪のことよ、燈真。でも、伊代さんはうちでも一、二を争うほどの強さでね。普段は尻尾を一本しか出してないけど――」
「椿姫ちゃん」
「ああ、ごめんなさい。さ、いこ」
少し気になったが、言葉を遮るほどなのだからあまり知られたくないのだろう。
妖怪の尾や角、そういったものは力の証であるとされている。胸を張って見せたい、賞賛を浴びたい者がいる一方でひっそりしていたい妖怪もいるのかもしれない。
ベーカリーうつみ屋に入ると適温に保たれたそこから、パンが焼ける甘く香ばしい香りと、コーヒー豆の匂いが漂ってきた。食欲をそそる嗅覚への訴えと前後して、店内でパンを選ぶ客の声が聞こえてきた。
燈真はトレーを一つ取って、腰の財布を意識した。短期バイトをいくつか掛け持ちして貯めた小遣いが入っているが、無駄遣いはできない。この村でどういったバイトをするかはまだ未定だし、自分ができることといえば体力を使う単純作業くらいなものだ。採用先があるといいのだが。
「伊予さんが出してくれるから大丈夫よ」
「よくわかったな」
「顔に出てたし」
椿姫は早速カレーパンとメロンパンを選んでおり、それからクロックムッシュと照り焼きチキンパンを取っていく。
妹がどうこう言っていたので、彼女だけが食べるわけではないだろうが、大きなトレーが窮屈そうにしている。
燈真はカツサンドとBLTサンド、それからサイドメニューであろう唐揚げの紙コップを一つ取って、伊予を見た。彼女のトレーにはカヌレとカップケーキが乗っている。
「えっと、これはいつも頑張ってる自分へのご褒美だからね。いっつもこっそり甘いものを食べているわけじゃないわ。ほんとに」
「え? いや、疑ってないっていうか……そもそも甘いものくらい誰だって食べると思うけど」
「そうよね! うんうん。全然体重だって増えてないし、いいよね」
多分、最後のそれを一番気にしているのだろう。
伊予は一見すると太っているようには見えない。和装越しに見える体は程よく肉がついている印象だが、標準体型に収まる範囲である。
伊予はさらにモンブランを手に取って、会計の列に並んだ。前の列の婦人が伊予を見て軽く挨拶をしたのち、燈真を一目見て「ひょっとして若旦那さん?」と冗談めかして笑う。
「まさか。私みたいなおばさんには勿体無いわ」
「何ちょっと嬉しそうな顔してんのあんた」
「そうでもないだろ」
まあ、確かに伊予を嫁にできたら果報者だろうが。
会計を済ませて、隣のコーヒーコーナーで無料のコーヒーを淹れる。椿姫はカフェインレスコーヒーにミルクと砂糖を入れ、燈真はブラック無糖で蓋をした。
「女の前でだけブラック飲む男ってモテないわよ」
「好きで飲んでんだ。さっきから突っかかってくんな」
「はあ? 言いたいことを言わない方がどうかしてんのよ」
「なんだと、いちいち腹の立つ女だな」
「もう、喧嘩しないの」
などと言い合いながら車に戻り、燈真は坂道に揺られながら五分ほど外を眺めていた。
次第に大きな屋敷が見えてくる。
「こんなところに旅館なんてあるんだな」
「旅館なんてないわよ。あれが私の家」
「稲尾家ってヤーさんかなんかだったのか」
「んなわけないでしょうが。平安時代から続く由緒ある術師の家系よ。あれは大昔からあって、改修を重ね続けた家なの」
平安時代から——つまり千年以上も続く家、ということだ。神社やお寺のような極めて古く、そして史跡価値のある土地ということになる。
そもそも稲尾家と聞いていた時からまさかとは思っていたが、やはり——。
「月白御前、ってことなんだな」
「ええ。
車がガレージに駐車され、燈真たちはそこから降りた。そこには今し方乗ってきた車の他にセダン、バイク、それから自転車がいくつもある。
ちょっとした自動車工場めいた雰囲気があり、燈真はこれが個人が持つ規模のものではないと呆れた。
ガレージのそばには大きな桜の木があって、緑陰になっていた。そこを出ると白い玉砂利敷きの前庭であり、御影石の道は築地塀のセンサー式の門と、玄関とを繋いでいる。
椿姫に連れられて歩いていると中庭には鹿威しと池が見えて、高そうな盆栽も見え隠れしていた。
「ただいまー」
鍵は閉まっていないのか、椿姫が戸を開けて中に入った。シューズを脱いで靴箱に入れると、洗面所であろうエリアに消える。
こんなところでじっとしていても邪魔にしかならないし、燈真もさっさと靴を脱いで椿姫の後を追った。案の定洗面所である。
「子供たちが風邪ひいちゃうと困るからしっかり洗いなさいよ」
「子持ちだったのか」
「違うわい! 妹と弟よ!」
冗談を言って手洗いうがいを済ませ、燈真は挨拶のため居間に入った。
「
「いまいーとこだから」
「私だってまだ読んでないのにぃい!」
「こら落ち着かんか。燈真が来たぞ」
ちびっこい妖狐が一匹と、高校生くらいの猫又が一匹——二尾の妖狐少女と二尾の猫又少女が少年誌を取り合っていた。週刊少年ステップという人気漫画雑誌だ。
それを諌めていたのは気だるげに横になって眺めていた九尾の美女である。着崩した浴衣が官能的な大人の魅力を物語るのに、なぜか性的興奮は誘わない健全さがある。健康的なエロスとでも言えばいいのだろうか。
「えっと……ごほん。今日から稲尾家にお世話になる、漆宮燈真です」
しばらくキョトン、とした顔で二匹の妖狐と、猫又と、青白い肌の雪女と、血色の悪い肌をした赤髪の女性はこちらを見ていたが、
「そんなことよりこのいいにおいはなに?」
菘と呼ばれた少女がちょこちょこ近づいてきて、燈真が手にしていたパンの袋を指差した。
「え? ああ、これは俺の昼飯。そういや、妹たちのをって言って、椿姫がパンを買ってたぞ。そっか、みんなの分買ってたからあんなに選んでたんだな」
「いやーんさっすが椿姫! 私の分もしっかり買ってくれるなんて!」
「万里恵の分はないわよバーカこのどすけべメスネコめ!」
「万里恵……さん」
「呼び捨てでいいわよ。
妖怪は極めて長命である。正確には、加齢が人間に比べ非常にゆっくりだ。生命のサイクルが遅いのである。なのでこの西暦二〇七五年——芽黎二十七年に明治生まれの妖怪がいたとて、なんら不思議ではない。
諸々の事情があり、現代は科学技術が平成末期レベルで制限されているが——それはまた、別の話である。
「あれ、そういや
「買い忘れたものをパシらせておる。そのうち帰るとさっきメールが来たが……よもや思いの外荷物が多かったか?」
「もー、柊の采配ミスじゃん。私、迎えに行ってくる。力仕事だし、燈真も手伝ってよ」
「ああ、構わない。運動不足気味だったしちょうどいい」
嘘偽りない本音だと通じたのか、柊も伊予も燈真の意気に客なんだからと水を差す真似はしなかった。あるいは彼女らはすでに、燈真をこの家の子というように認識していた可能性もあるほどだが。
「竜胆君って子も狐?」
「そうよ。生意気だけど可愛いのよ」
椿姫の微笑みは、まるで手のかかるやんちゃ坊主を育てる母親のようにも見えた。
妖怪は兄弟間でも年齢差が大きい。ともすれば、その感覚によっては弟というより息子に近い感情になるのかもしれないと、燈真は思った。
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