この度、平成25年8月18日(日)にAOSSA(アオッサ)にて福井市の文化交流
の一環として朝倉象棋が紹介される。
の一環として朝倉象棋が紹介される。
文化庁に正式に認可されて、今年で4年目。過去3年のうち、やっと昨年は
女流棋士を福井へ招待できるまでになった(でも、雪でひどかったけど・・・)
女流棋士を福井へ招待できるまでになった(でも、雪でひどかったけど・・・)
朝倉象棋ってどういうものなの?という疑問も沸いて来ると思いますので、
この機会に、少し整理したいと思います。
この機会に、少し整理したいと思います。
まず、ルールですが、普通の将棋に「酔象(すいぞう、または すいしょう)」を
玉の前に配置します。
酔象は裏が「太子」で、敵陣3段目に行くと成れます。
酔象は玉と同じで再利用はできません。
「太子」となれば、「王将」と同じ働きとなり、王将を取られても
「太子」が残っていれば、勝負は続行となります。
(これが、基本ルールですが、福井県の場合 時間制限もあるので
「太子」に成って 一手開けば そのまま勝ちの特別ルールを大会では採用)
http://www3.fctv.ne.jp/~asakura/20kengaku/guide.html玉の前に配置します。
酔象は裏が「太子」で、敵陣3段目に行くと成れます。
酔象は玉と同じで再利用はできません。
「太子」となれば、「王将」と同じ働きとなり、王将を取られても
「太子」が残っていれば、勝負は続行となります。
(これが、基本ルールですが、福井県の場合 時間制限もあるので
「太子」に成って 一手開けば そのまま勝ちの特別ルールを大会では採用)
普通に紹介されている中将棋と大きく異なるのは駒の再利用
通常、泰将棋や中将棋は駒の再利用ルールはなく、チェスと似ています。
駒の再利用が可能なのは、日本の「小将棋(本将棋)」のみで
「朝倉象棋」はこの「小将棋」に酔象が加わったものという特殊な将棋です。
従って、Netとかで検索すれば、朝倉象棋として正式に認知されています。
通常、泰将棋や中将棋は駒の再利用ルールはなく、チェスと似ています。
駒の再利用が可能なのは、日本の「小将棋(本将棋)」のみで
「朝倉象棋」はこの「小将棋」に酔象が加わったものという特殊な将棋です。
従って、Netとかで検索すれば、朝倉象棋として正式に認知されています。
ルーツは昭和48年(1973年)夏に福井市・朝倉氏遺跡にて「将棋の駒」が
出土したことから始まるのですが、その辺は下記の記事が詳しいので
そのまま引用することとします。
出土したことから始まるのですが、その辺は下記の記事が詳しいので
そのまま引用することとします。
出典:「夢レディオ編集室」Vol.22(平成23年07~09月号)
前一乗谷朝倉氏遺跡資料館長 水野和雄氏の話
「酔象」駒発見(日本将棋史を書き換えた快挙) 昭和48年夏、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所の文化財調査員であった私は、 朝倉善景館の北辺を画する外濠(幅8m、底幅3m、深さ4mの箱堀)を発掘調査して 多くの木製品と共に174枚の将棋の駒(例えば角行は12枚あり、少なくとも6セット以上あった) を発見した。厚さ2mm程度の檜のヘギ板を素人が手作りしたもので140枚が判読できた。 「日本最古の駒出土」として当時は全国版で大きく報道され、大山康晴氏(故人、15世名人) をはじめ、大内延介、山本亨介、木村義徳氏や司馬遼太郎氏も相次いで見学に凝られ、 山本亨介氏によって初めて「朝倉駒」と命名された。「朝倉氏遺跡出土駒」は、 当時古文書や大名家などの伝世品でしかも考察できず行き詰まり状態であった 日本将棋史研究に大きな期待をもって迎えられ、初代研究所長河原純之は、 日本将棋連盟から実質初段の段位を貰っている。 私は、『発掘調査・環境整備事業概報Ⅴ』を刊行するため台帳作成・実測・写真等の整理に 追われたが、どうしても気がかりな駒が1枚あった。上方に「酔」と読めそうな墨書 (下辺中央部以外の7ヶ所で駒の進む方向を示す墨線を確認)、他面の下方に「子」と 読めそうな墨書(8ヶ所全てで墨線を確認)があり、今の小将棋の駒には該当するものが なかった。文献の水藤真さんにそのことを言うと、「昔の将棋の駒は、今よりも種類が 多かったようだ。『古事類苑』には中将棋に太子という駒もあったと思う。 将棋の歴史を調べてみたら」とアドバイスをもらった。その後、調べた結果 「酔象・太子」駒で「酔象」は成ると「太子」になり、詰んだ後でも太子が玉将の 代わりとなり勝負が続行できるというユニークな駒であることも分かった。 新聞、テレビ等は「酔象・太子駒発見」という見出し記事で全国に報道してくれたが、 この時 朝倉将棋が「中将棋」であるとの間違った報道も発信され流布してしまった。 確かに『二中歴』の将棋や大将棋には「酔象・太子」駒の記載はなく、中将棋(72枚) には玉将の右横に「酔象・太子」駒が置かれているが・・・・。 しかし、私は、朝倉氏遺跡出土の駒が「中将棋」で使用されたものではないと考えている。 まず、「酔象」駒1点以外全て現在の小将棋と同じ駒種であること。次に元禄9年の 『諸象戯図式』に「天文年中、後奈良帝は、日野晴光。伊勢貞孝等に命じて酔象を除かせて、 いまの将棋(小象戯)を作った」(天保2年(1831)将棋の家元11代大橋宗桂は、初代大橋宗桂 の遺徳を顕彰するため江戸浅草寺境内にこの内容を記した石碑を建立した。地震等で崩れ 現在は消失)という口伝が残されていることから、平安時代の将棋から現在の小将棋に 変遷するある段階で朝倉将棋では酔象駒を使用した一時期があったという「朝倉将棋 =小将棋の古段階」説を発表したのである。昭和56年にはその石碑の拓本(大橋本家15代を 継ぐ大橋京子氏が日本将棋連盟に寄贈。将棋博物館蔵)が見つかり、加藤久弥氏によって 『将棋世界』(昭和57年12月号)に「賜将棋所宗桂法印大橋君追福之碑」の 全文読み下しが掲載され、私の「朝倉将棋=小将棋の古段階」説を後押ししてくれる結果 となっている。昭和56年、朝倉氏遺跡資料館を開館する際、私は展示解説テープの作成で 「酔象」を「すいしょう・すいぞう」のどちらで発音するか決めかねて、一応「すいぞう」 と呼ぶことにしたが、これは根拠もなく一人歩きしている。また、興福寺旧境内出土の 習書木簡に「酔像」とあり、「酔・酉卒、象・像」いずれにしても研究は緒に着いた ばかりである。現在、全国60ヶ所以上の遺跡で約400枚の将棋駒(酔象駒は4枚)が 見つかっている。朝倉駒は日本将棋史の解明に欠くことのできない貴重な資料である。http://www.chushogi-renmei.com/koramu/koramu08.htm
読み方についての明確な資料はなく、「すいぞう・すいしょう」どちらでも良い様だが
ルールについては、上の資料のように、どちらかというと今の将棋の元になっている
ものであることは間違いがなさそう。
日本の歴史上で見ても、かなり重要な発見で「インディージョーンズ」ばりの
考古学的な発見・資料なんですね~。
ルールについては、上の資料のように、どちらかというと今の将棋の元になっている
ものであることは間違いがなさそう。
日本の歴史上で見ても、かなり重要な発見で「インディージョーンズ」ばりの
考古学的な発見・資料なんですね~。
朝倉氏遺跡資料館に行けば分かりますが、結構 フリーハンド的な書体で
所謂 天童市にあるようなきっちりとした将棋駒ではなく
将棋の駒がないときに、ボール紙を切って将棋の駒にして遊んだような駒の印象。
所謂 天童市にあるようなきっちりとした将棋駒ではなく
将棋の駒がないときに、ボール紙を切って将棋の駒にして遊んだような駒の印象。
朝倉氏遺跡の庶民が漢字が読めたかどうかは定かではなく
江戸時代では寺小屋が流行ったぐらいなので、戦国時代の朝倉氏でも
庶民は「漢字が読めなかった」と考えるのが妥当だとすると
純粋に考えて、将棋の駒を変えないような身分の下級武士(足軽?)が
遊ぶのに木片でに駒を書いて将棋の駒にしたのではないだろうか?
江戸時代では寺小屋が流行ったぐらいなので、戦国時代の朝倉氏でも
庶民は「漢字が読めなかった」と考えるのが妥当だとすると
純粋に考えて、将棋の駒を変えないような身分の下級武士(足軽?)が
遊ぶのに木片でに駒を書いて将棋の駒にしたのではないだろうか?
そう考えると、朝倉氏遺跡では、一般の下級武士に「酔象」を含めた
「朝倉象棋」が普及していたことを伺わせる資料ということになる。
「朝倉象棋」が普及していたことを伺わせる資料ということになる。
まあ、こういった背景があることを念頭に入れて伝承文化としての
朝倉象棋を後世に残していかないといけませんね~。
朝倉象棋を後世に残していかないといけませんね~。
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