信じるに足るものを信じる行為は厳密に言えば「信じる」ではない。
それはデーターに裏打ちされた打算であり傾向分析に過ぎない。
過去の事例に照らし合わせ、そうであるという結論を導いたにすぎない。
真の「信じる」とは信じるに値する要素が一切ないにも関わらず、盲目的な何かを頼りに「信じる」ことなのである。
本当のところの信じるは多分に頭が悪く非効率的な、生臭い行為なのだ。
わたしの小学生時代の友人に「嘘つき岩田」という女の子がいた。
彼女はどこかから流れてきた転校生だったが、スーファミの「忍たま乱太郎」のカセットを持っていると吹聴し、センセーショナルなデビューを飾った女子だ。
当時、忍たま乱太郎は発売されておらず、まことしやかに雑誌などでその存在が噂されるだけにすぎなかった。
発売前のスーファミカセットを所持している女の子がいる。
それは田舎町に暮らす子供たちにとって衝撃だった。
いつのまにか岩田は都会からやってきた謎の転校生という扱いになり、さすが都会の人間は違う、発売前のカセットを所持しているなんて!と唸ったものである。
当然、岩田はスターダムにのし上がった。
忍たま乱太郎をやらせてくれと多くのクラスメイトが彼女にひれ伏した。
どうしてもプレイしたかったのである。
「そんなにいっぱい来ても困るよ。ちょっと選ばせてよ」
岩田は笑顔で言った。
忍たまがやりたくて押し寄せたクラスメイトたちを選別にかけると言ったのだ。
わたしたちに緊張が走った。
なんやかんやでわたしを含む数人のグループは選別に勝ち抜き岩田の家に行くことになった。
「どうして発売前のカセットが手に入るの?」
「お父さんが任天堂の役員と知り合いで発売前のソフトが手に入るの」
道中、そんな会話を交わしたと思う。
子供心に、世の中には勝ち組と負け組ってやつが存在して、こいつは勝ち組の部類なのだろう、世の中にはこんなやつが存在するんだ、って思ったのを覚えている。
岩田家に到着すると、そこは今にも朽ち果てそうなトタン壁の長屋だった。
こういうことを言うとよくないかもしれないが、とてもじゃないが任天堂の役員の知り合いが住んでいる家には見えなかった。
この時点で「忍たま乱太郎」にうっすらとモヤのようなものがかかったのを感じた。
岩田家は引っ越してきたばかりなので乱雑に散らかっていた。
それでもわたしたちはワクワクしながら忍たま乱太郎の到来を待った。
けれども岩田はなんかゴミみたいなものがタワーを成し、カオスを形成しているあたりを捜索するとこう言った。
「あー、お父さんがスーファミを仕事にもっていってる。ごめん、今日はできないわ」
今思うと、仕事にスーファミを持っていく父親ってのも訳が分からないが、任天堂の役員と知り合いなお父さんさんなので、それもまあ、ありか、くらいには思っていた。
でもスーファミはなくても忍たまのカセットはあるはずである。それを要求すると彼女はこう続けた。
「あちゃー、忍たまも持って行ってるわ」
どんな父親だよ、といった率直な感想を持った。
普通に考えて、子供のスーファミと忍たま乱太郎のカセットを仕事に持っていく親などいない。
わたしの中での不信感はマックスだった。
「まあ、スーファミは諦めてオセロでもやろう」
岩田はわたしたちにそう言った。
次の日も、その次の日も、わたしたちは岩田を責め立てるが、やはり忍たま乱太郎は登場してこなかった。
まるで本当の忍者のようにその姿は見えなかった。
常に「お父さんが持って行った」「お父さんが仕事場に忘れてきた」「お父さんが事故にあって入院した」「今は病院で同室の子供にファミコンごと貸している」そういった言葉が続き、次第に「ああ、岩田の話は嘘なんだ」と誰もが認識するようになった。
そしてついたあだ名が「嘘つき岩田」である。
誰もがもう岩田の言葉を信じなくなっていた状況において、一人だけ盲目的に信じ続けている女子がいた。
高橋さんは常に岩田を信じていた。
「お父さんさんが持って行っちゃったか」「それなら仕方がない」「事故なら仕方がない」そう言ってもう誰も信じなくなった岩田の言葉をずっと信じていた。
「絶対岩田とか嘘をついてるよ。忍たまなんて持っていないんだよ」
わたしがそう言うと、高橋さんは反論した。
「私は持ってると言った岩田の言葉を信じる」
なんだか衝撃だった。
わたしはこれから先の長い人生、これだけ人を信じることができるだろうか。
おそらく無理だ。
あの日、忍たま乱太郎を持っていると言った岩田をわたしたちは称賛した。
つまり岩田を信じたのだ。
あの時、確かにわたしたちは岩田を信じていた。
けれども、後にとんでもない長屋や、ありえない父親のエピソードが出てきた時、岩田を信じることを止めた。
それはつまり岩田を信じていたのではなく、その背景にあるデーターを信じていたということなのである。
そのデーターが怪しいものになった時、それは簡単に崩れ去ってしまう。
ただ高橋さんはデーターでなく、岩田を信じていた。
そこに信じる根拠などない。
裏打ちされたデーターもない。
それでも彼女は岩田を信じると言った。
これそこが本当の意味での「信じる」なのだろう。
そう思った。
そんな折、プールの授業の後に中山さんの上履きがなくなるという大事件が起こった。
中山さんは気が弱いけれど優しい女の子で、クラスのみんなが中山さんを好きだった。
中山さんの上履きドロを見つけるべく、盛大に帰りの会が催された。
世の中には上履きを盗むなんてとんでもないやつがいるもんだ、まあわたしには関係ない、早く犯人を見つけ出して磔でもなんでもしようぜ、と帰り支度をしていると、机の中に突っ込んだ手に硬い布地が触れた。
中山さんの上履きがわたしの机の中に入っていた。
鼓動が早くなるのを感じた。
心臓のビートと呼吸がそのテンポを増していく。
なんでこんなところにこんなものがあるんだ。
完全に頭がパニックだった。
当時、わたしたちの間では文房具などを盗んで誰かの机の中に入れるというよくわからない遊びが流行していた。
山本の鉛筆がなくなった!田中の机の中にあったぞ!田中最低!と弄る遊びで、今思うと何が面白かったのか全然理解できない。
たぶん、その延長線上なのだろうけど、さすがに悪質すぎる。
中山さんの上履きでそれをするのは完全に禁断の領域に踏み込んできている。
ただでさえ協調性ゼロみたいな不名誉なあだ名をたまわっているのに、その上で上履きドロまで付け加えられるとかなりまずい。
協調性ゼロの上履きドロ、略して協調性ドロ、ともう何が何だか分からなくなる可能性だってある。
きっと盗んでいないと言ったって誰も信じてはくれないだろう。
担任は怒り狂い、中山さんにはもう口も聞いてもらえなくなるだろう。
よく知らない人が見たら、彼女、この後自殺するの?っていうレベルで怒られるに違いない。
わたしは無意識に胸の前で十字を切った。
いろいろと覚悟した。
すぐに担任が犯人を炙り出し始めるだろう。
まずは全員顔を伏せさせて手を挙げさせるだろうか。
そして、持ち物検査をはじめるだろう。
そこでわたしの机からゴロッと破滅が飛び出してくるのだ。
もう一度、深く十字を切った。
「先生はみんなを信じる。このクラスにそんなやつはいない。きっと外から来た人が盗んだんだ」
先生は盲目的にわたしたちを信じた。
すべてのデーターがこのクラスに犯人がいると物語っている。
なにせ、外から人がやってる来るなんてありえないし、プールの授業の前の休み時間なんて上履き盗みたい放題である。
けれども、担任はデーターではなく、わたしたちを信じた。
それは随分と愚かな行為だけど、本当の意味での「信じる」だったと思う。
わたしたちは救われたのだ。
ただ、同時に申し訳ない気持ちが生まれた。
それはおそらく真犯人も同じで、上履きを盗み、わたしの机の中に入れたであろう女子たちも下を向いていた。
過去の傾向や、データーによって信じられることは大したプレッシャーではない。
なぜなら、そのデーターと、分析して判断した人間に責任があるからだ。
信頼を裏切ったとしても、それはデーターが悪いのである。
ただ盲目的に本人を信じられると辛いものがある。
その信頼を裏切った時、データーではなくまぎれもなく自分が悪いのだから。
わたしは担任の盲目的信頼から、無意識にそれを感じ取った。
冒頭の岩田さんも、高橋さんからの盲目的な信頼が苦しかったのだろう。
高橋さんに対しては嘘を言わなくなった。
嘘つきと言われ罵られることより、信じられることのほうがよっぽどつらいのかもしれない。
そしていつの間にかまた転校していった。
盲目的に信じるということはやはり最大のプレッシャーなのである。
過去の傾向や経験、データーによって得られる「信じる」はもしかしたら誰かに信じさせられているのかもしれない。
あなたが信じるものを誰かに決めさせてはいけないのだ。
そして願わくば、あなたの大切な人のことは盲目的に信じてあげてほしい。
どんなに信じられなくても、データーではなく、その大切な人を信じてあげてほしい。