比喩はまるで森のように

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物事を別の何かに例える。

実はこれはほとんどの場合が自己満足の産物でしかない。


ある事象、例えばAがBだからCになる、みたいなことを説明されてもいまいちピンとこず、説明する側も伝わってないなって思ったら、だからDがEってことあるでしょ、そこでFになるでしょ、と似通った別の事象を持ち出してきて説明する。


これが「例え」というやつだ。


けれども、わたしの経験上、最初の説明で理解できなかった人が別の何かに置き換えて説明されて理解できた、なんてことはほとんどない。

むしろ、余計混乱して分かりにくくなるか勘違いして伝わるかだ。


そりゃそうだ。

そんな簡単に理解できなかったものが理解できるわけがない。

理解出来なかっことには理由があるのだ。

それらはそう簡単には解消されない。


実のところ、こういった例え話は、している側の自己満足でしかない。

私はこんなに噛み砕いて説明ができる、なんて親切、頭脳派、そういった自己満足が主体であり、伝わったかどうかは関係がない。

ただ、多くの場合が例え話は物事を簡略化した一見分かりやすいスタイルをとる。

つまり伝えられた側も、この例え話で理解できなかったらやばい、と見えないプレッシャーを受ける。

結果、あまり分かってなくても分かったように振る舞ったりするのだ。

例え話なんてこんな不毛なものなのだ。


また、そもそも例え話なのに全然例えていない事例も散見される。


我が職場の空調システムは集中管理されており、28℃以下の温度に設定できないようになっている。

もちろん節電が大切なのは理解できるが、28℃の設定はない。

ありえない。
兵糧攻めに近い。


10000歩譲って、28℃に設定して本当に28℃の冷風が出てくるなら納得しよう。
 
我慢もしよう。 

けれども、クーラーが古すぎて28℃の冷風が出てきていない。

30℃くらいのやつがでてきてる。

それならせめて26℃くらいに設定して28℃の風を出すべきではないか、そう思うのだ。


これではおばあさんは熱中症で死んでしまう。


けれども、なぜか歯医者の女子はおおむね冷えに弱い人が多く、女の子は冷えに弱いものよみたいな鉄の掟を持っていて、28℃どころか29℃、下手したらスイッチを切ろうとするからたちが悪い。

さらに昼休みには、変な布みたいなものを膝の上にかけている始末。
 

正気じゃない、我慢大会か。


もっとおばあさんの気持ちになって考えるべき、そうは思わないのだろうか。


このままではおばあさんが死んでしまう。


おばあさんの代表として使命を抱いたわたしは空調システムを攻略した。

コントローラーのあるボタンを連打した後に別のボタンを押すと、おそらくメーカーの人がテストで使うであろう試運転モードみたいなものに出来ることを発見した。

その試運転モードにすると鎖を引きちぎった猛獣のごとく集中管理を無視してクーラーがマックスパワーで稼働する。

ものの数分でおばあさんが生きやすい世界が到来する。

天国である。


もちろん、冷えに弱い女の子に配慮して、歯医者にわたししかいないタイミングを見計らってその暴走モードを使っていた。


けれども、それはすぐに管理者の知るところとなった。


勝手に制限を解除するとは言語道断、とものすごい勢いで怒られたのだけど、おばあさんに優しい世界を、おばあさんしかいない時にしか使ってない、と思うわたしはそれがどれだけ悪いことかあまり理解できなかった。

そこで管理者が言った言葉が印象的だった。


「勝手に制限を解除する、それがどれだけ悪いことかわかる?」

「あまりよく分かりません。28℃の設定で28℃の風が出てくるならわかりますけど、あれは明らかに30℃、いいや31℃くらいの風ですよ」

「いいですか、温度を下げすぎないように設定しているものを勝手に解除する。これは例えるならば知らない人の家に勝手に入るようなものです。それが悪いことはわかりますよね」


もうね、ぜんっぜん、わからなかった。

理解できなかった。


勝手に家に入る行為に置き換えていかに悪行か伝えたいのだろうけど、そもそも、クーラーのスイッチは他人の家ではない。

あれが金庫だっていうならばわたしだって理解しますよ。

人んちの金庫勝手にいじって悪かったな、くらい思いますよ。

でもね、あれはスイッチであって決して金庫ではないんです。


こういう場面で使われる例え話って、大体が例えてなくて誤魔化でしかないんですよ。

他人の家に勝手に入ったら不法侵入とかその辺ですけど、空調を試運転モードにする罪があるかっていうと、刑法のどこを読んでもそんなものは書いていない。

結局、悪であるという部分を都合よく強調するために都合のいい例え話を持ってきているに過ぎないのです。


ですから、例え話を出されたときは注意が必要です。

それはただの自己満足ではないか、ただ都合のいい部分をクローズアップしているだけで実際は全然例えることが出来ていないのではないか、その観点から見る必要があるのです。

わけのわからない例え話に言いくるめられてはいけません。


実のところ、わたしもこの誤魔化しの例え話は文章を書くときによく使う。

例えば、「すごく面白くて笑った」ということを伝えたい時に、そこまでの流れであまり面白さが伝わっていないな、と思ったときは例え話でごまかす。


「すごく面白くて笑った」


この流れに自信がないときは、ちょっと面白そうな比喩をぶち込んで面白い感じにする。


「むかし、ブラッディマンデーというドラマがあって、そこで万能の凄腕のハッカーファルコンってのが出てくるんだけど、そのファルコンの妹が何者かによって捕まって爆弾が仕掛けられるのね。で、ファルコンはむっちゃ焦るんだけど、いよいよ爆発するって時に、おもむろにブラウザ立ち上げて検索サイトで「爆弾 解除方法」って検索するのね。ハッカーが、検索、時間があれば知恵袋で質問するんじゃないか、ってくらい面白くて笑った」


つまり、流れに自信がないときは比喩に見どころを作って誤魔化すわけなんですね。

こういう誤魔化しはあまり良くないのです。

そしてもっと全体に自信がなくなってくると、もう比喩だけでいいやって感じになって、それらが発展すると、もうわけわからなくなって


「ずっと都会を走っていた電車が終点近くなって田舎を走る。しばらくすると誰も乗り降りしないであろうローカル駅に着いた。すると、扉が開くのと同時にワッとセミの声が乗車してきた。ああ、そうか今は夏なんだと感じた自分がすこし照れくさくて、この駅で降りてみようかと考えた。アスファルトからの熱気と1台のタクシーしか見どころがない駅前から少し歩くと大きな鳥居が見えた。その朱色は鮮やかで、つい最近塗り替えたんだろうって思えた。とりあえず、あそこまで行ってみるかと歩き始めると。マウンテンバイクに乗った小学生とすれ違った。彼は別に虫を取るわけでもなく、携帯ゲーム機を片手にどこかゲームができる涼しい場所を探しているようだった。朱色の鳥居を抜けるとまた一段とセミの声が大きくなっていた。ただ、それはもう、背景に溶け込んでしまっていて別個のものとは認識できない。透明な色がついた風景のように思えた。小さな川があった。その川はたぶん何か生き物がいるのだろう、床面はヘドロのようなものが滞留しているが、水自体は綺麗で、あまり汚さを感じない。少し先のベンチに農作業の途中のようないでたちのおばあさんが座っていた。おばあさんは汗を拭きながら、レッドブルを飲んでいた。おばあさんにレッドブルというアンバランスさがなんだか少しおかしくて「精が出ますね」と話しかけてみた。すると「いやーもう歳だから。こまめに休憩しないと」そんな期待通りの返事が返ってきた。「初めてきたんですけどこの辺は何か見どころとかありますか」そう質問すると、おばあさんは、山の上に高台があり、そこから景色が見どころだと教えてくれた。おそらくあの山のことだろう、あれを登るのは大変だぞ、そう思いながらおばあさんにお礼を告げ、歩き出した。登山道はほとんど整備されていて、道端に置かれた三体の地蔵にはお供え物がされていた。またセミの声が背景から飛び出して音として聞こえてきた。木陰から降り注ぐ日光は容赦なく汗を誘い出す。それでも、この先には高台があって、きっと綺麗な景色が待っている。そう思いながら一歩、また一歩と踏みしめていった。そしていよいよ高台へと出た。素晴らしい景色がそこにある、そう思って眺めると、別にそうではなかった。この田舎町にもイオンができて、新興住宅地を作ろうと整地されていた。そういった浸食を高い位置から眺める。それだけだった。そういうもんかと山を下り、また駅まで歩く。どこかで小さな祭りでもあるのだろうか、自転車に乗った中学生の女の子が浴衣姿にヘルメットをかぶっている。すっかり日が傾いた。駅のホームのベンチに座り、こういう一日も悪くない、そう思った時くらいの微妙な感じのおじさんがやってきて、クーラーの試運転モードができないように裏技に使うボタンをはずしていった」


こういう比喩が出てきたらかなり誤魔化しているということですので気をつけてください。


世の中の多くの例え話や比喩は自己満足か、それ以外の意図です。

けっして理解を深めようとする意図ではありませんので、例えられれば例えられるほど、注意して聞く必要があるのです。


わたしは週明けむちゃくちゃ怒っていて、裏技に使うボタンをはずして持っていくという行為は、例えるなら勝手に人の目ん玉を外して持っていく行為だ!目ん玉なくなったら困るだろ!って管理部に怒鳴り込んできたところです。