隣人は静かに笑う

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「優希!いるのはわかってるの、開けて!誤解なの!」 


先日、仕事を終え夜遅くにマンションに帰宅したときのことでした。

なにやらわたしの隣の隣の部屋のドアを狂ったように叩いている女の人がいました。 


この部屋の主は田中さんという男性。

爽やかでオシャレな男性です。

何度かマンションの通路ですれ違うことがあったのですが、軽く会釈をする程度の間柄。

爽やかだなぁって思うぐらいでした。 


さてさて、問題の謎の彼女。

狂ったかのように「優希、優希、誤解なの!」とドアを叩いたりドアノブ回したりしています。 


なるほど、田中さんは優希という名前なのか。

なんとも素敵な名前ではないか。

それにしてもこの女はなんだ。

こんな夜中に非常識なやつだとか思うわけなんです。 


多分、これは田中優希さんの彼女でしょう。

で、何かの誤解があったか喧嘩したかで優希さんは別れると言い出した。

でもこの彼女は優希さんに未練たっぷり。

なんとかよりを戻そうと優希さんのアパートを訪れたが会ってはもらえず、ドアの前で叫んだり暴れたりと。


なんともまあ青春ですなぁ。 


きっと彼女は今まで普通に優希さんの部屋を訪れ、何気なく愛を育んでいたことでしょう。

一緒にテレビを見たり料理を食べたり、いちゃいちゃしたり。

それはそれは幸せな日々だったことでしょう。 


けれども一度誤解やすれ違いが生じてしまえば、彼女は優希さんの部屋に入ることすらできない。

会うことすらできない。

一瞬にして部屋への距離が遠のき障壁が高くなる。

なんとも悲惨と言えば悲惨かもしれない。 


普段ならわたしも好奇心一杯で彼女に関わり、途方もない事件に巻き込まれたりするのですが、今日はダメです。

とても疲れているんです。

できれば関わりたくない。

そんな優希さんと彼女の情事などどうでもいいのです。

勝手にやって。
 

そう思い、わたしは無関心を装いつつ彼女の後ろを通り過ぎました。

彼女的にも今自分が行っている行為が後ろめたいことだと分かっていたのでしょう。

わたしの存在を認知してからドアを叩くのを止め、無言で優希さんの部屋の前に佇んでいました。 


わたしは礼儀正しい人ですので通り過ぎる際に「こんばんは」と彼女に声をかけました。

彼女的には意外だったのかビックリしてましたが。 


で、わたしは部屋に帰り、「さあ、お風呂に入って泥のように寝るぞ」とか意気込んでいました。 


あいも変わらず彼女は二個隣の部屋の前で「優希、優希」とドアを叩き壊しそうな勢いで叫んでいました。

近所迷惑も甚だしい。 


なんかその遠巻きに聞こえる声がとても惨めで可哀想でした、でもまあわたしには無関係ですし今は睡眠の方が大切です。

今日は飲酒はなしにしよう……とか思ってるその時でした。 


ドンドンドンドン 


遠巻きに聞こえていたドアの音、ボリュームが急に大きくなりました。

間違いありません、わたしの部屋のドアを叩いてやがります。

明らかにあの女です。

やめろー。 


わたしは睡眠の邪魔をされるのが一番嫌いです。

たとえカパルであってもわたしの睡眠を邪魔したやつは許さない。

けど、せっかく彼女がわたしを巻き込んでくれようとしているのです。

ならば仕方ない、付き合ってやるかと、ソッとドアを開けました。 


やはり、先ほど通路ですれ違った女が立っていました。

挨拶をしたわたしに親近感でも持ちやがったのでしょうか。 


「なんですか?」 


ちょっと迷惑そうに応じるわたし。

そこで彼女は言います 


「優希のやつ、絶対に中にいます。ちょっとアナタから呼びかけてみてください」 


とか言いやがるんです。

アホかコイツは。

彼女のアンタが呼びかけても入れてくれないのに何でわたしが行ったら開けてくれるんだよ。  


「いやー、わたしは田中さんのこと知らないんで……開けてくれないと思いますよ」 


とか冷静に答えるんですけど、すでに瞳孔が開いちゃってる彼女は聞き入れません。 


「なんでもいいんです。醤油貸してくれとか言ってドアさえ開けさせれば……」 


とか言ってるんです。

お前はいつの時代の人間だ。

サザエさんじゃないんだから、今時「醤油貸してください」もないだろうに。 


「お願いします、お願いします」 


もう彼女は玄関先で土下座しそうな勢いなんです。

大人の女性にココまでやられては仕方ありません。

あまり気乗りしませんがやってみましょう。 


サンダルを履き、部屋を出て田中さんの部屋に向かいます。

そしてインターホンを押して呼びかけます。 


「田中さーん、ちょっと醤油切らしちゃって……貸してくれませんかねぇ?」 


そしてドアの覗き穴から見えないように身を隠す彼女。

かがむようにドア横に待機しています。

たぶん田中さんが少しでもドアを開けたら飛び掛ってムリヤリネジ開ける作戦だったのでしょう。 


しかし、一向に反応はありません。

電気がついているので田中さんはきっと中にいるはずです、それは間違いない。 


「田中さーん、醤油ー、醤油ー、醤油貸してくださーい」 


狂ったように叫ぶわたし。

ドアが開くのを今や遅しとかがんで待ち構える彼女。

旗から見ると凄くバカっぽい二人です。

何でわたしはこんなところで借りたくもない醤油を催促してるんだろうか……
 

「やっぱわたしが行ってもダメみたい。お力になれなくて申し訳ない」 


とか言うんですけど、彼女は聞き入れません。

また狂ったように「優希、優希、醤油だよ、醤油貸して欲しいんだって!」と訳のわからんこと叫んでドアを叩いてました。

もう彼女には優希さんしか見えていない。 


で、さすがにどうでもいいし、これ以上の深入りはしたくなかったので、わたしは彼女の目を盗んで自室に逃げ帰りました。

さあ、お風呂だ。 

相変わらず、彼女は「優希優希」と叫んでいました。

とても近所迷惑。 


しかし、しばらくするとピタッと彼女の叫びが止まったのです。 

お、やっと部屋に入れてもらえたのかな、よかったな彼女よとか思って少々気がかりだったのでコッソリとドアを開けて様子をうかがってみました。 

なんか彼女、二人の警察官に抱えられるようにして連行されるところでした 


彼女は警官にキャプチャーされながらも「優希、優希」と悶えていました。

恐るべし田中優希さん。

警察呼んじゃったか。

やるなぁ、などと思いました。


一歩間違えたらわたしまで警察に連行されて、訳も分からず「醤油が醤油が」とか言い訳していたかもしれません。 


何事も深入りするものではなく、時には身を引くことも大切だと思いました。

下手に関わって長居してたらとんでもないことになるところだった。

なんか一つ大人になったような気がします。 


で、問題の田中優希さんなんですけど、なんか次の日には楽しそうに別の女性と部屋から出てくるところを目撃してしまいました。 


なんだか、それを見た瞬間、あの彼女のことが可哀想で可哀想で仕方なくなってしまった。


女性が他のことに目をくれずあれだけ恥ずかしいことをやったのです。

優希さんしか見えず、わたしにまで協力を求めたのです。

彼女は確かに狂っている、とてもまともな精神状態であるとは思えない。


けれどもそれだけ優希さんと別れたくなかったのだ。 


わたしはそこまで狂えるだろうか 


たぶん狂えない。

けれども彼女は狂った。

優希さんのことだけを思って狂ったのだ。

行為の是非はともかくとして、それだけ彼女は一生懸命だったのだと思う。 


詳細は分からないが、彼女をあれだけの行動に駆り立てた原因が優希さんの新しい彼女と思われる女性だったらどうだろうか。

優希さんは既にこの女と恋仲にあった。

すると急に前の彼女が邪魔になり、別れを切り出した。

納得いかない彼女は部屋の前で大暴れ。 


一概に彼女を責められないかもしれない 


けれども完全に蚊帳の外なわたしにはどうすることもできない。

こんなことなら警官に連行されてもいいからもっと深入りしておくべきだった。

もうどうにもならない。 


唯一わたしに出来ること、それは彼女の記憶を優希さんの中から消さないこと。

彼女の怨念をずっと残しておいてあげること。

そんな使命を感じてしまった。 


「醤油貸してください」 


優希さんとニュー彼女、二人とすれ違う瞬間にあの恥ずかしすぎるセリフを口にした。

優希さんは驚いた顔をしていた。 


これから彼とすれ違う度に言ってやろうかと思う。 


わたしは間違っているのかもしれない。