小中学校の思い出
つい最近までやっていたピザ屋のチラシ配りは、私が生まれてから二十歳まで過ごした家があった辺りも、すっぽりエリアに入っているので、私が通った幼稚園、小学校、中学校の前を配る時もあった。
とにかく幼稚園とか学校とかには行きたくなかったのであるが、幼稚園の前だけは、ちょっと懐かしい気持ちになった。
仲の良かった布団屋の息子の家がまだあった。
奥まった所で、突き当りにアパートがあり、大家と思われる高齢の女性が草むしりをしていた。
幼稚園の頃、何度か遊びに行った布団屋のお母さんかもしれなかった。
でも、さすがに声を掛けるのはためらわれた。
それに比べると、小学校、中学校の前を通る時は、何の感慨も無い。
今でも、当時の事を思い出すと、糞としか言いようがない。
当時の写真など一枚も取っていないし、卒業アルバムは速攻捨てた。
私は、同窓会なるものに、一度も出席した事がない。
行く気もないし、そもそも誘いも来た事はないが。
小学校低学年の頃の事である。
同級生四人が、各々私の手足を持って、反動をつけ、床に思いっきり叩きつける。
あまりの痛さに私が大泣きすると、担任教師が、職員室から顔を出して怒鳴る。
「黒田さん!今、職員会議中なんだから静かにしなさい!」
学年や担任が変わっても、状況は全く変わらない。
クラスの半数位が、私をからかい、半狂乱になるのを面白がる。
教師が入ってきた途端、一人だけが私の前に立ちはだかり、あとの者は皆遠巻きに眺めているだけになった。
その一人は、私を挑発するだけすると、適宜にかわし、的確なパンチとキックを入れる。
私は悔しくて泣いてしまう。
すると、教師が言う。
「黒田、お前は負けたんだから文句を言うな!」
タイマンで負けた奴には、何の権利もないのだとその教師は言う。
教師の前だけタイマンなんだが。
そして、さらに担任が変わった時、やはりその同じ奴といさかいになり、私は奴の腕に噛みついた。
どんなに殴られようが、始業のベルが鳴るまで離さなかった。
すると、放課後、職員室に呼ばれた。
そこには、腕まくりをしたそいつが立っていて、担任の教師が言った。
「黒田さん、あなた自分のした事をよく見てみなさい!」
紫に変色した歯型がくっきりついていた。
「どう?反省したでしょ?」
「アホか。」私は内心思った。
私の方は、毎日毎日、登下校、休み時間、給食の時間、もれなく暴力と精神的苦痛にさらされているのだ。こいつの腕に、たまに歯型ができた位、何だって言うんだ。
反省していないのを見ると、教師はしつこく詰め寄った。
中学へ行っても、ずっと状況は同じだった。
毎朝、私が登校すると、皆「ゲェェェ!」と奇声を上げ、「ゴキブリ!」と言って、ごみ箱を投げつけたりした。
ある日、教室移動から戻ると、私のカバンがぐちゃぐちゃに踏みつぶされ、中身がぶち撒けられていた。下敷きは折れ、缶ペンケースはつぶれていた、。
翌日の教室移動の時、やった奴らのカバンを全部、焼却炉に放り込んだ。
胸がスカッとした。
親と教師にどんなに詰め寄られても絶対に口を割らなかったが、焼却する前に、用務員さんにあっさり見つけられてしまった。
私をいびっていたグループのリーダーの親が、訴訟を起こすと言いだした。
ざけんな!こっちは毎日嫌がらせに遭って、そもそもカバンだって最初にやられたのに、何が訴訟だ。しかも、こっちは踏み潰されたり折られたりで使えないものが沢山あったが、向こうは、焼却前に発見されたので、ちょっと灰がついた程度だ。
そいつの家に火を着けに行ってやろうとしたが、親に見つかって阻止された。
その後、何度も、夜寝る前に、包丁を鞄に入れておいたが、必ず見つかって阻止された。
ある日、給食の時間、私が当番だった。
皆、例によって、汚いから受け取りたくないと、ぎゃあぎゃあはしゃぎながら騒いでいた。
例によって一番中心になって騒いでいるのは、親が訴訟を起こすと言った奴だ。
そいつの頭からシチューをぶっかけ、椅子から蹴り落とした。
掴み合いになっていると、教師が飛んできて言った。
「黒田、お前が来ると騒ぎになるから、もう学校へ来なくていいよ。」
今でも、その時の事を他人に話すと、「その対応はひどいね。」と言われるのだが、私はこの時、小躍りして喜んだのである。
生徒も糞、教師も糞、とにかく糞しかないこんな場所に行かなくて済むんなら万々歳だった。
タイ映画にハマる
オキサイド&ダニー・パン兄弟監督の「レイン」と「ワン・テイク・オンリー」を観た。
私は、基本的にアクション物はそんなに好きではないんだけど、この2つは好きだなぁ。
なんでアクション物が苦手なのかと言ったら、一つには、私は常日頃から人の顔がなかなか覚えられないという事があると思う。
アクション映画にありがちな、設定がごちゃごちゃしてて、ちょっと似たキャラがいっぱい出て来る話は、もうそこで誰が誰だったか分からなくなり、ストーリーについていけなくなる。
もう一つは、完璧で強い設定の主人公やサブキャラにはあんまり感情移入できない所かな。
その点、、この2つの作品は、主要なキャストが皆、すごく印象に残る顔ばかりで、ストーリーもわかりやすい。
どちらも主演はパワリット・モングコンビシットという、メモらないと覚えられないような名前だけど、目力のすごいイケメンさん。
私は、イケメンというだけではコロッとはいかないんだけど、なんかこの人は印象に残った。
音楽もやっている人だそうで、可能であれば聴いてみたい。
「レイン」を最初に観た人の感想で、期待して観たら「ワン・テイク~」はがっかり、というのがあったが、私はどちらも気に入った。
「レイン」の主人公は耳が聞こえなくて、それでいじめられていたりしたが、やがて殺し屋になる。基本的にストイックで泣ける話であるが、「ワン・テイク~」はダメ男なチンピラ。
なぜか、私はどっちも感情移入できる所があった。
「レイン」の映像はカッコイイ。
「ワン・テイク~」は、なんというか、妙な所がタイ的でイイ。
ヌルさとヤバさ、最先端な所と素朴な所が同居してる感じが。
これはdisってるんじゃなくて、基本的に私はタイが好きなのだ。
料理も好きだし、もうだいぶ前だが、旅行して感じた空気感とか。
あ、もう一つ、アクション物が苦手な理由が、映像の切り替わりが早くてバタバタした感じがダメなのかも。
その点も、この監督の映画は、そういう人にオススメ。
逆にバタバタした感じの映像でないと物足りない人には向かないかもしれないけど。
私は丁寧に作り込んでいる感じの映像が好きなので、そこがハマるのかもしれない。
今後、少しずつ、この監督と俳優の映画は借りて観ようと思う。
母の日であるが
未だに父の一周忌の日取りを私には教えないで、終わってから「もう終わったから行かなくて良い」と言ってきた事が腹立たしく、母の日だというのに連絡を取っていない。
感謝か…。
確かに、ニュースで報道されるようなむごたらしい虐待をされずに育った事は感謝しなければいけないと、常日頃から思っている。
しかし、一方で、私自身が精神的に成長していくための礎を育むような育て方は一切されなかった、という思いがある。
母は、父と子供達や子供たち同士が仲良くならないよう、巧みに誘導していた感がある。
これは、私の被害妄想ではなく、実際に、世の中にそういう人は存在するのだ。
そして、私が自己肯定感を持つのに必要な事を一切禁止して育ててきた。
母の日や誕生日のプレゼントは、ここ数年はずっと図書券だった。
母も父もそれがいいと言っていたからだ。
しかし、あまりにも、買って欲しくないような本ばかり買って、それをこちらにも勧めてくるのでゲンナリした。
安倍首相とか、櫻井よしことかは、まだ思想の違いとして容認できるが、ヘイト本の類のような、韓国の悪口ばかり書いた本を勧められた時には、なんで自分の親はこんななんだろうと情けなくなった。
それ以来、図書券は送らなくなった。
去年と、今年の春(早めの母の日のつもりだった。だから、もう母の日は送ったと言えない事もないが)は、手作りのアクセサリーをあげた。
しかし、毎年アクセサリーはいらないだろうと思う。
お寺のお盆の時には、連絡をくれるだろうか。
まぁ、連絡がなくても、勝手にネットで調べて行こうと思っている。
他の家って母の日は花を送ったりするのかな。
私の母は、花を送られても喜ばないような気がする。
来年以降、仲直りしているのかどうか。
ヒルに自分の血をあげてペットにしているという画像が…
私は、大抵の生き物は平気である。
苦手な人が多い昆虫、爬虫類の類も大体可愛いと思える。
(毒を持ってるやつに生では近づけないけど)
でもやっぱり苦手なものもあって、ヒルとかマジで無理だ。
小学生の頃、多摩川で遊んでいて、何気に河原の石をひっくり返したら、裏側にヒルがびっしりついていて固まってしまった。
それ以来、ヒルの出て来る夢を何度も見るようになった。
バスに乗って、混んできたから運転手さんが「後ろにつめて下さい」と言うのだが、後ろの方の座席にはヒルがいっぱい、とか、足が何かムズムズして痛痒い、で、ズボンを下げたらヒルがびっしり、とか、実際にかまれた事無いのに、痛痒い感触までリアルで半泣きになっている悪夢をよく見ていた。
ヒルは血を吸うが、無害なプラナリアでさえ怖かった。
放置されたバケツとかにいつの間にか生息しているとゾーッとしていた。
で、今画像みたら、何かプラナリアは可愛いと思えるようになった。
無害、という知識が入って来てから怖くなくなったんだと思う。
寄生虫類は未だに怖い。
で、先ほど、ヒルをペットにして買っていて、自分の血を与えているという人の腕と、腕とほぼ同じ位の太さに成長したヒルの画像を見つけてしまった!
(Youtubeとかではなく、なんか色々とヤバそうなサイトの中にあったので、あえて貼り付けません。興味のある方は自分で探してみたら出て来るかも。)
ヒルもなついている様子で、この人の博愛精神には脱帽ものだが、やっぱり怖い。(;O;)
父の死
私の手元に、どうしても捨てられない新聞の一片がある。
2015年5月17日の「赤旗・日曜版」に載っている、岡野雄一さんという方の描いた「ペコロスの母の思い出」という4コマ漫画である。
認知症になってしまった作者の母親の元に、今は亡き父が現れるのだが、「母の前に現れる父は、穏やかな好々爺で、酒に荒れる父は母の中からきれいに消えていた」という最後の一文を読んだ時、涙が流れた。
この新聞は、5月17日となっているが、貰ったのは5月16日の土曜日である。
その日、私は、病床の父の元へと向かっていた。
乗り換えの北朝霞駅から朝霞台駅に向かう途中の路上で、解釈改憲に反対する演説をしていた共産党の人達が持っていた用紙に署名した時、貰ったものであった。
ちなみに、政治に関する事は大抵、両親と私とは真逆の考えである。
その日から二年前の事を思い出していた。
大動脈瘤の手術で入院した父の見舞いに通っていた日々。
大動脈瘤の手術はすぐ済むものであったが、入院中に転倒・骨折し、大幅に入院生活が長引く事になってしまった。
その頃、軽くボケ始めていた父は、やはり穏やかな好々爺になっていた。
私の実家は、皆、何らかの発達障害や精神疾患を持っていたのだと思うが、元々は、常に誰かと誰かが怒鳴り合っているような家だった。
父は、とにかく凶暴で母や子供達に当り散らす時期と、人が変わったようにいい人になる時期とがあった。
凶暴な時はハイテンションだったが、いい人の時は元気が無かった。
それでも仕事は休まなかったが、帰って来るとすぐに寝込んでいた。
私の目に映る父と母は、ある時は、典型的な威張り散らす夫と虐げられた妻、またある時は、気弱で人の良い夫とガミガミ責め立てる妻、と立場が逆転したが、いづれの時も、父と母の間に、ほんの僅かの愛情も信頼も皆無であるように感じられていた。
母は、私達子供等に「別れないのはあなた達の為なのよ」といつも言っていた。
子供の頃はそう信じていて、母は自分たちの犠牲になっている、と思っていたが、大きくなるにつれ、結局は自分の為で金目だろうな、と思うようになった
父の方は、何故母と離婚しないのか、よく分からなかった。
いづれにしても、どちらも、離婚してすぐ再婚相手を見つけられるようなリア充タイプではなかった。
ある時、私が見舞いに行って、
「今日はママは来た?」
と聞くと、実際にはその日の午前中に、母が来ていたにも関わらず、父は、
「来ていない。ママは(自分より)猫の方が大事なんだよ。」
と、いじけたように言った。
この時私は、父との間に、色々と確執もあったが、それらがすっかりほどけていくように感じたのだった。
この話を主治医の先生にした時、父がボケて子供返りをした事について、
「それは悲しいでしょう。」
と言われた。
でも私は、語弊があるかもしれないが、むしろ心が暖まるような、子供の頃は憎んでいた父に対する愛しさのような気持ちが芽生えたのである。
今まで、父と母との間には、何の愛情も無いと思っていたのが、父には、母を慕う気持ちがあったのか、というのが嬉しかった。
母の方も、父が入院中に骨折してしまった事について、
「こんな事なら、手術させなくても良かった。パパ、可哀そうだったね。」
と涙目になっていた。
この時は、もう寝たきりになってしまうんじゃないかと、私も母も思っていた。
母にも、父を思う気持ちがあるのだと初めて思った。
人生で初めて、家族に関する事で、幸せな気分になれた時期だった。
父はその後、骨折からは回復した。
だが、二年後に誤嚥性肺炎を起こした。
そして、一年前の5月16日は、父の命日となった。
朝霞台の駅前で、新聞を貰った時は、その日父が死ぬとは思っていなかった。
父が亡くなった翌日の日曜日に、一旦部屋に帰って、キャリーバッグのポケットに入れっぱなしになっていた新聞を手に取った。
そして、この岡野雄一さんの漫画を目にした時、涙が止まらなかった。
私の父は、酒が全く飲めなかったので酒乱ではなかったが、荒れている時期のあった父、親のボケや死など、たった4コマの漫画の中に、その時の私の心境とカブるテーマが詰め込まれていた。
この一作でファンになり、既に出版されている本を三冊、ネットで注文したのだが、岡野さんのお母さんの、ボケてから、より純粋な心に帰っていく様が、自分の父の最後と重なった。
父を憎んでいた時期もあったが、荒れていた時期の父というのは、何らかの心の病であったと思う。
本来の父は、岡野さんの漫画に出て来るお母さんや、死んでからお母さんの前に現れるお父さんのような、純粋な心の持ち主であったように思う。
ここで話を〆たいところであったが、一周忌に関して、不愉快な事があった。
下の妹の体調が悪い事もあり、「一周忌はしない」と母が言っていた。
それで、母と私とで墓参りに行くという話になっていて、ゴールデンウィーク近くになったら電話すると母が言った。
先日、電話があり、「真ん中の妹の旦那がお寺に行って、一周忌はもう済ませたから、お墓参りには行かなくて良い」と告げてきた。
私は、「なんで事後報告なのか?なぜその一周忌の前に連絡をよこさないのか?」と訊ねた。
母は、「○○さん(妹の旦那の姓)が、『明日、僕が行って一周忌をやりますよ。』と急に言うから、連絡できなかったのよ」と言った。
一周忌が、前の晩にお寺に電話して、すぐできるとは考えがたい。
何か、母は、兄弟同士を会わせたくないんじゃないかと思う。
妹二人とは、子供時代の確執もあったせいか、こちらが電話しても出ないし、折り返し連絡もよこさない。
そして、母は、お正月も、妹がいつ来るかとかは私には決して知らせず「○○ちゃんは来ない。△△ちゃんも来ない」と言い続け、それがいつの間にか、私と違う日に来ているのだ。
まぁ、妹達の方が私には会いたくないのかもしれないが、母が何か、兄弟同士が話さないようにしている可能性もある。
母の日が近いが、一周忌を知らせなかった事が不愉快で、しばらく母とは口をききたくない。
そんな訳で、今日、一人で父の墓参りに行ってきた。
お寺とは不思議な所で、行くまで、一周忌の事を隠していた母に対し、ずっと不愉快な気持ちがあったのだが、簡単な黙祷を済ませてお寺をでると、スッと静かな気持ちになっていた。
私は、特に何かの信仰を持っている訳ではないが、皆が敬虔な気持ちで訪れる場所には、何らかのパワーが確かにあると思う。
写真は、私の部屋のベランダのプランター。
父の葬式の時、葬儀屋さんからもらった花の種が、去年の夏咲いて、その落とした種が、今春芽を出したもの。
「お嬢様になるように」育てられた人間の逆コンプレックス
大人になって、世間の価値観というものの成り立ちを理解できるようになると、やっとわかってきたのだが、私には子供の頃、なぜ自分がそう思うのか自分でも不思議な心境、というのが多々あった。
例えば、映画や演劇を観ていて、今でいうビッチ~娼婦とかスケ番とかが羨ましくてたまらなかった。
これは、単純な心理で、過干渉の家庭で育った私には、今でいうDQNのたくましさこそ、自分が一番身に着けたいものだったからだろう。
対照的に、なんとなく皆からバカにされているガリ勉君とかには、すごく同情してしまい、その描かれ方はコミカルでも、決して笑えなかった。
そして、どんなにDQNやビッチに憧れようと、自分がリアルで不良をやる事は無理だと思っていた。
コミュ障だったからである。
私は放任家庭を経験していないので、放任で育てられる辛さはわからない。
だから、どっちが辛いかなんて比べようが無い。
でも、たぶんコミュ障は過干渉家庭の子が圧倒的に多い気がする。
過干渉で育てられる事が、その本人にとってはどれだけの劣等感を産み出すか、過干渉をする親は全くわかっていないと思う。
私は子供の頃、集団で遊ぶのが苦手で、とにかく休み時間は勉強をしていればやり過ごせるので、ずっと勉強していた。
その癖、それで親や他の大人たちから「良い子」と思われるのがものすごく嫌だった。
そう思っているかのような言動を親がすると、自分の存在を丸ごと全否定したい衝動にかられた。
小学生か中学生の頃、近所の東大生のお兄さんが
「幻ちゃんは何故勉強するの?」と、聞いてきた。
私は「金の為」と、答えた。
それは本心ではなく、大人達が一番嫌がりそうな答えを言いたかっただけであった。
大袈裟だと思われるかもしれないが、子供時代の心境を一言で言い表すなら「暗黒」だった。
この事は私にも責任があるだろう、と思われる方も当然いると思う。
なぜ、みんなの輪の中に入って遊ぶ努力をしなかったのかと。
たとえ、家では5時間勉強しろと後ろで見張られるような家庭でも、学校の休み時間は親が監視している訳ではないだろう、と。
他の子といると自分がすごく惨めだった。
だから私はいつも一人でいる事を選んだ。
なぜか、他の子達は皆輝いて見え、自分だけがその輝きを身に着けられないのだった。
私は、なんでも先回りして私の事を決めてしまう母親と、後ろで勉強しているかどうかいつも見張っている父親が、私から、他の子が身に着けているような輝きを奪ったと、両親をずっと恨んでいた。
両親は、お嬢様に育てたいといっても、いわゆる世間の人々が想像するようなお嬢様のイメージ~派手な世界に生きてセレブになるような道に通じそうな習い事や部活動は決して許さなかった。
どちらかといえば、ひたすら地味でしとやかで従順で奥手に育て、貞淑だけが取り柄という売り込みで、見合いでいいところに嫁がせるような娘を期待していた感があった。
自分に魅力~他の子達が持っているような輝きが無いと感じていた私には、それで嫁に行って大切にされるという想像は全くつかなかった。
どうせ、私から見ても魅力のない夫と結婚させられ、その夫にとっても私は魅力が無く、家政婦としてこき使われるのだろう、というイメージしかなかった。
それは、私が最も望まない自己像であり未来像であった。
実際に見合いで結婚した両親の仲が悪かった事も影響していたかと思う。もし彼らの仲が良かったら、見合い≒おとなしいながらも、優しく上品な夫が待っているイメージが沸いたかもしれない。
今思うと、私がコミュ障なのは、親の育て方も影響しているが、生まれつき発達障害っぽかったのも多分にあると思う。
以前通っていたB型作業所で、とにかくこれを読んで欲しいと、斉藤学の本を無理矢理私に渡した人がいるけど、その人も、昔の私と同じように親を恨んでいた。
だが、どう見ても彼の日頃の言動のズレ方は、何か他の要因をも感じさせるのであった。
コミュ症なのは、親のせいばかりではないと思う。
しかし、なりたい自己像に近づけそうな手段を全て先回りして封鎖されたのは確かである。
子供の頃の私には、なりたくない自己イメージしか、選択の余地は残されていなかった。
そして、今の私は、親の期待通りには全然なっていない。
社会のド底辺のメンヘラだ。
そして、どこかでそれを「ざまあみろ」と思ってしまう自分がいる。