一日目・夕 幻想の街
ゆっくりと沈んでいく太陽が街を真っ赤に染め上げていた。
地面にばら撒かれた年季の入った割れたガラスが夕日を照らして反射する。
廃墟となって植物に覆われたビルが長い影を伸ばしている。
倒壊したビルから吹き込む風が、剥がれたアスファルトの間から伸びた草木をゆらゆらと揺らした。
もう間もなく夜がやってくる。
夕闇に照らされたビルを背に家路へと急ぐ人々で賑わった駅前、仕事からの解放感に顔を綻ばせながら飲み屋が並んだ通りに消えていくサラリーマン、ファストフードを食べながら仲の良い友人たちと会話に花を咲かせる学生たち。
それは全てかつての幻想だ。
駅前も、飲み屋が並んだ通りも、学生で賑わっていたあのお店も、何もかも。
ビルは崩れて、植物に飲まれて、人間は消えた。
消えた人間の代わりに、廃墟となった街を支配したのはモンスターだった。
彼らは、かつての人間達と同じように街を占拠した。
駅前も、飲み屋の通りも、お店も、今やモンスターが居着いていない場所を探す方が難しいようだった。
「ぐぎゃぎゃ!」
茜色に染まった街に、ゴブリンの醜い鳴き声が響く。
今朝方までは耳にするだけで身体を震わせていたその鳴き声も、一日を通して耳にしていれば慣れがくるというもの。
俺はすぐに近くの茂みに身を隠すと、素早く周囲へと目を配った。
左前方、倒壊したビルの陰。
崩れた瓦礫と生い茂る草木に隠れるようにそいつらはいた。
数は二匹。
食事中だったのか、そいつらの手には何かの肉片が付いた骨が握られていた。
それを見て俺は思わず眉根を寄せた。
こいつらが何を食べているのかなんて微塵も興味はないが、きっとロクでもないものだろう。俺を見て、獲物だと嗤う生き物なのだ。十中八九、こいつらが手にした骨は何かの生き物だ。
「気持ち悪い」
思わず、そんな言葉が口から出る。
レベルが上がった影響か、はたまたステータスが上がった影響からなのか。
俺はゴブリンと出会っても恐怖を感じなくなっていた。
本能的に感じていた、生物として格が違うという感覚も今ではない。
それどころか、地球に元々存在しないモンスターという存在に対して、今では嫌悪感を強く抱くようになっている。
モンスターはこの世の中から消し去るべきだ。
そう強く感じるようになっていた。
俺は息を殺して茂みの中からゴブリンどもを観察する。
二匹のゴブリンは俺に気が付いた様子はない。
俺は奇襲を仕掛けるべく錆び付いた包丁を手に腰を低くした。
すると、そんな俺の気配を感じ取ったのだろうか。
二匹のうちの一匹が、ふいに周囲を見渡した。
黄色く濁ったその眼と俺は目が合ってしまう。
「げぎゃ、げへへへ!」
何事かを相方に言って、俺に気が付いたゴブリンが俺へと指を突き立てた。
「ちっ」
舌打ちをして、俺は一気にゴブリン達の元へと駆けた。
レベルアップとSPの割り振りによって上昇したSTRとAGIが、俺の足を、身体を以前よりも速くする。
飛ぶように地面を駆け抜けて、俺は一気にゴブリンへと肉薄した。
「げぎゃ!?」
ゴブリンどもが取り乱すのが分かった。
けれど、態勢を立て直させる余裕を俺は与えない。
手身近にいたゴブリンに向けて、俺は手に持っていた包丁を容赦なくその喉元へと突き立てた。
皮膚を突き破り、肉に突き刺さる確かな感触。
上昇したSTRによって増えた筋力が、切れ味なんてない包丁の切っ先を力押しでゴブリンの喉元へと埋め込む。
「ッらあ!」
俺は力任せに埋め込んだ包丁を引き抜いた。
瞬間、ゴブリンの喉元から真っ赤な血が溢れて地面を汚す。
すかさず俺は地面を蹴って後退した。
噴き出すゴブリンの血を避けるためだ。
「ぎっ――」
喉元を突かれたゴブリンが、数歩ほどよろめいて地面へと倒れた。
数回ほどぴくぴくとその身体は痙攣していたけれど、やがてゴブリンはその動きを止めた。
ゴブリンの身体が色を失い、空気に溶けるように崩れていく。
この黄昏の世界でモンスターが死んだ際に見られる光景だ。
俺はゴブリンの身体が色を失い崩れ始めたことを確認すると、残されたゴブリンへと包丁を構えて見せた。
「げげっぎゃぎぎい!」
仲間が死んだことで、黄く濁ったゴブリンの瞳に怒りの炎が灯った。
ゴブリンは歯を剥き出しに唸り声をあげると、そばに置いてあった木の棒を手に取った。
先端が大きく膨らんだ木の棒だ。見ようによっては棍棒のようにも見える。
一度二度、ゴブリンは感触を確かめるように棍棒を振うとニヤリとした嫌らしい笑みを口元に浮かべた。
「げぎゃ、げひひひ」
何事かを口にしてゴブリンが嗤う。
言っていることは分からないが、どうせロクでもないことは確かだ。
こいつらは、俺をただの餌としか見ていない。
ならば、その言葉に応えるだけ無駄というものだろう。
腰を落として両足に力をためる。
「ふっ!」
短く息を吐いて、俺は再び両足に力を込めて地面を蹴った。
瞬く間に俺はゴブリンへと近づく。
けれど、残されたゴブリンも馬鹿ではない。
一直線に駆けよる俺へと、ゴブリンはその手に持つ棍棒を迷うことなく振り上げた。
――しまった!
と思った時にはもう遅い。
勝利を確信したゴブリンの口に笑みが浮かんだ。
「おおおおおおおお!」
気合とともに、俺は地面を横っ飛びに蹴って致命傷を避けるべく全力で身体を捻った。
棍棒が耳元を通り過ぎて、風切り音が耳に届く。
子供の背丈しかないゴブリンが放ったとは思えない力で振り下ろされたそれが、地面へと叩きつけられて土埃を舞い上がらせた。
直撃していたら間違いなく頭蓋を叩き割る一撃だ。
その事実に、俺の背中に冷たい汗が浮かぶ。
地面を転がりながら俺は距離を取ると、素早く起き上がって包丁を構えた。
「ふぅー……」
息を吐いて、呼吸を整える。
バクバクと弾む心臓の鼓動が、俺がまだ生きていることを教えてくれる。
――危なかった。今のは間違いなく俺のミスだ。
真っすぐに突っ込めばああなることぐらい分かっていたはずだ。
ステータスの恩恵がなければ、確実に今の一撃は食らっていただろう。
この世界には病院がない。
一撃はそのまま致命傷ともなりうる。
慎重に行かなくては。
「げぎゃぎぎ!」
俺が避けるとは思わなかったのか、ゴブリンは棍棒を振り下ろした格好で悔しそうに地団駄を踏んでいた。
――チャンスだ。
「ふっ」
息を吐いて、俺はソイツが再び棍棒を振り上げるよりも早く距離を詰めた。
「ぐぎゃぎゃ!?」
俺の行動に焦ったのか、ゴブリンが目を白黒とさせるのが分かった。
慌てて振り下ろした棍棒を持ち上げるが、もう遅い。
「これでも、食らえ!」
俺は渾身の力で手に持った包丁をゴブリンの目へと突き刺した。
ぶちゅり、という音ともに柔らかい何かが潰れた感触が手に伝わる。
「ぎへっ!」
叫び声をあげてゴブリンが棍棒を取り落とす。
俺はすかさずゴブリンが取り落とした棍棒を拾い上げた。
太い木の根を削ったのか粗悪な代物だ。
それは武器とも呼べない、言ってしまえば木の根っこそのものだけれど、全力で生き物に叩きつければ骨を折ることぐらいは容易いだろう。
棍棒の握り柄を強く握って、俺は未だに痛みでもんどりうっているソイツへと棍棒を振り上げた。
「げへ――」
俺の振り上げた棍棒にゴブリンが気付き、その動きが固まる。
今まで自分が狩る側だと思っていたソイツの目に初めて恐怖の感情が宿ったのを見た。
「悪いな」
俺はソイツへと謝罪の言葉を口にした。
そして、躊躇うことなく真っすぐに全力で棍棒を振り下ろす。
――ゴキャッ!
ステータスによって上がった筋力は、頭蓋が割れる音と確かな感触を俺の手に伝えてきた。
ゴブリンの目が一瞬でぐるんと回る。
そのまま、ゴブリンは意識を失ったのか仰向けで地面へと沈んだ。
けれど、まだ死んでいない。
ゴブリンの身体は未だに現実に残り続けている。
俺は、倒れたゴブリンの傍に近寄るともう一度棍棒を振り下ろす。
――バキャッ!
再び手に伝わる頭蓋が砕ける感触。
その瞬間に、ゴブリンの身体がビクンと一度大きく跳ねた。
やがて、その身体はゆっくりと色を失い始める。
空気に溶けていくゴブリンの身体を見て、俺はようやく張りつめていた気を緩めた。