一日目・朝 生と死、その実感
「おおおおおおッ!」
胸の内の恐怖をかき消すために大声を出しながら俺はゴブリンへと一直線に駆けていく。
完全に油断をしていたのか、その声に反応したゴブリンは慌てて俺へと振り返った。
その瞬間だった。
ゴブリンの身体が一瞬だけ傾く。
右足が、俺の掘った穴に引っかかったからだ。
ゴブリンはすぐさま態勢を整えたけれど、俺にはその隙で十分だった。
肩口からゴブリンへとぶつかり、その小さな体を吹き飛ばす。
それは、ゴブリンにとってはなんてことはない攻撃。
脆弱な人間の捨て身の体当たりにしか過ぎないその攻撃は、ゴブリンにとってはその体格差故に身体を吹き飛ばされさえすれ、ダメージなどまるでない攻撃だった。
その証拠に、吹き飛ばされたゴブリンは初めこそ目を白黒させていたがすぐに勝利を確信した目となった。
「ぎひひ――」
何事かを口にしてゴブリンは嗤う。
けれどその言葉の先が続くことはない。
倒れたゴブリンの先にある地面から伸びた鉄の棒。
しっかりと向きと位置を調整したそれは、倒れ込んだゴブリンの延髄へとまっすぐに突き刺さる。
「ぎ、へ」
口から赤い血を吐き出しながら、ゴブリンの喉元から鉄の棒が顔を出した。
「げ、ひひ」
ぴくぴくと身体を震わせてゴブリンが踠く。
ゆっくりと腕を上げて、その棒を自分の首から引き抜こうとする。
――マジかよ。これで死なねえのかよコイツ。どれだけ生命力が高いんだ。
ぞっとしながらも、俺は唇を噛んで立ち上がるとゴブリンと相対する。
何度見てもおぞましい。
目の前に立つだけで身体が震えてくる。
相変わらず頭の中では本能が警鐘を鳴らし、今すぐ逃げろと叫んでいる。
けれど、俺はそれらをすべて気合で捻じ伏せた。
「うおらあ!」
掛け声とともに、ゴブリンのでっぷりとした腹へ蹴りを入れる。
「がぺっ」
奇妙な声を出して、鉄の棒がさらに深く延髄へと刺さり突き破った。
「ぎ、ぎ、げ」
それでも、まだゴブリンは倒れない。
どうにか抜け出そうと踠くその姿に、背中に冷たい汗が浮かんだ。
まさか、これじゃ死なないのか?
いや、そんなはずはない。
延髄を貫かれ、喉を突き破ったこの状況で生きられるはずがない。
いくらモンスターといえど致命傷であるはずだ。
「う、うわぁああああああああああああああ!!」
恐怖を追いやるように、俺は何度も、何度もゴブリンへと蹴りを入れる。
そのたびに深く、深く突き刺さっていく鉄の棒。
やがてゴブリンの背中が地面へと接着するほどに鉄の棒はゴブリンの喉を貫通をして、ようやくゴブリンは踠くのをやめた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
いつの間にか俺はびっしょりと汗をかいていた。
まるで全力疾走をした後のように荒くなった息を吐き出し、動かなくなったゴブリンの身体を見つめる。
「はぁ、はぁ、し、死んだ?」
地面を赤く染めたゴブリンの血。
だらんと動かなくなったゴブリンを見て、俺はようやく安堵の息を吐き出した。
「生きてる」
と俺はつぶやいた。
「生きてる!」
と確認をするためにつぶやく。
「俺は、生きてる!!」
拳を握って、心からその喜びに浸る。
自分の意志で掴んだ生の実感。
これでこの世界で生き残れる、という自信。
死なずに済んでよかった安堵感。
そして、初めて自分の手で生き物を殺したというほんの少しの罪悪感。
言葉にできないいろいろな感情が押し寄せてくる。
「ッ」
足元がふらつき、腰を下ろした。
安心した途端に、腰が抜けたのだ。
その場でへたり込んで、俺はぼんやりとゴブリンの死体を見つめる。
「俺が、やったんだよな?」
死体を見ても震えがくる相手だ。
生物としての格が違う相手を、こうして殺したことが未だに信じられなかった。
「コイツ、どうすればいいんだろう」
死体となったゴブリンを見て呟く。
すると、俺の疑問に応えるかのように目の前のゴブリンの死体に変化が起きた。
頭の先から、まるで灰になるかのようにゴブリンが急激に色を失っていく。
色を失った個所はすぐに崩れ始め、やがて真っ白な灰となると空気へと溶けるように消えていった。
カランと音を立てて、ゴブリンが手にしていた錆びた包丁が地面に落ちる。
「消えた……?」
死体のない空間を見つめて、呆然と言葉を口にする。
あのゴブリンは全て夢だったのか?
いや、そんなはずはない。
地面に残された、乾いていないその血溜まりが、持ち主が消えて残された錆びた包丁が、かつてそこには確かに死体があったのだと教えてくれていた。
「もはや、なんでもありだな」
長く息を吐き出しながら俺は言った。
モンスターの死体は消えて空気に溶ける。
それはまるで、幻想が泡となって消えるかのように。
そこに存在していたモンスターの痕跡を世界が消し去るかのように。
モンスターが死ねば現実には何も残らない。
その死体がどうなったとか、どこにいったのか、なんて考えるのももはや面倒だ。
難しいことは何も考えたくなかった。
黄昏の世界だと呼ばれていたこの世界では、そういうものだと受け入れるしかないのだろう。
「あー……」
初めて経験した戦闘の余韻からか身体が怠い。
背中から地面に倒れ込んで、空を見上げる。
透き通る青空に、どこまでも広がるおぼろ雲。
俺の知っている空と何一つ変わらない。
この空を見ていると、ここがゲームと現実が一緒になった世界だとは信じられなかった。