一日目・朝 ゴブリンとステータスの影響
「ッ!?」
その機械音声と、その小さな影が居間へと続く扉の陰から飛び出してくるのはほぼ同時のことだった。
「げひっげひひっ」
さきほどから耳にしていた、汚らしい濁った声で飛び出てきたソイツは笑う。
真っ先に目を引く緑の肌。
その背丈は小さく、体格は小学校低学年ほど。顔は醜く、腰には動物の毛皮が適当に巻き付けられていて、その毛皮に乗っかるように飛び出たその腹は、中年太りのようにでっぷりとしている。
黄色く濁った瞳は嫌らしくゆがめられ、口から垂らした舌は紫色だった。まるで極上の食べ物を前にした動物のように、口元からは涎が流れている。
機械音声で告げられた『ゴブリン』という言葉。
それは、今まさに目の前にいるソイツを表現するに相応しい言葉だ。
アニメや漫画の世界でしか見たことがないモンスターが、俺の目の前にいた。
「げひ、げへへへ、ぎひっ」
ゴブリンは何かを口にすると、口を歪めて嗤う。
何を言っているのかは分からないが、友好的でないのは確かだ。
その証拠に、ゴブリンの手には錆ついた包丁が握られていて、その刃の先は俺へと向けられていた。
「な、あ、え?」
頭の中が真っ白となり、膝が震える。
無理だ、勝てない。早く逃げろと本能が叫ぶ。
いつか読んだ漫画や小説なんかではゴブリンが初心者専門のモンスターだと言っていた。
そんなの嘘だ。
生き物として格が違うことを本能が悟る。
コイツは化け物だ。正真正銘の化け物なんだ。
そんなの、ただの人間が勝てるはずがない!
「う、うわああああっ!?」
俺は一目散に逃げ出した。
廊下を走り抜け、玄関から飛び出し、行く手を遮るように伸びた草木を掻き分け、裸足であることも忘れて、素足が石や瓦礫を踏んで傷つくことも厭わずに、一分でも、一秒でも早くこの場から逃げ出すべく全速力で街へと飛び出した。
「ぎひひひっ!」
背後から醜悪な笑い声が聞こえた。
後ろを振り返ると、ゴブリンが笑いながら早川さんの家から飛び出してきたところだった。
何を言っているのかは分からないが、醜悪に笑うゴブリンのその顔を見ればわかる。
アイツは楽しんでいる。
自分の方が目の前の獲物よりも強いと確信している。
だからすぐに殺さず弄んでいるのだ。
「来るな、来るな、来るなあああああ!!」
これまでの人生で一番長い全力疾走だった。
行き場所はどこでもいい。とにかく、自分に出せる全速力で、決して走るスピードを緩めることなく俺は一目散に街中を駆け回った。
しばらく走っていると、後ろから聞こえてくるゴブリンの嗤い声が無くなっていることに気が付いた。
どうやらゴブリンの足はそこまで速くはないらしい。
その事実に、心の中で感謝を述べながら俺はようやく足を止めた。
いつの間にか、俺は駅前まで走ってきていた。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ……。ごほっ、ごほっ!」
全身の筋肉が、肺が、脳が酸素を激しく求める。
必死で息をしても全身の求める酸素の量が足りず、さらに大きく息をしようとしたところで咽込んだ。
「なん、で。ゴブリン、がここに!」
息も絶え絶えに俺は言った。
あれは、現実に居るはずがない化け物だ。
いや、居てはならない化け物なのだ。
「それじゃ、ここは、地球じゃないのか?」
いや、そんなはずはない。
ゴブリンから逃げるために走り回った街並みは、間違いなくいつもの街並みだ。
ただ違いがあるとすれば街並みを作る建物も道路もすべて崩壊し、あるいは廃墟となって植物に覆われているということだけ。
あれだけ騒いだにもかかわらず、相変わらず人間の姿は見えない。
まるで、俺だけがたったひとり、この崩壊した街に取り残されたような錯覚に陥る。
「どう、なってんだよ! いったい!」
現実をそのまま持ってきたとしか考えられない街並みに、現実ではありえないアニメや漫画、ゲームで見るようなモンスターが平然と存在している。
まるで異世界――いや、現実と空想が入り乱れたこの世界に、俺は苛立ちまぎれの声を出すしかなかった。
「俺が知っている街は壊れて、人間は誰もいない! 人間の代わりに出会った生き物は化け物だと!? ふざけんな!」
肩を荒く上下させて、俺はその場に崩れ落ちた。
がっくりと項垂れて、胸の内の言葉を吐き出す。
「誰も……。誰もいない。たったひとり、俺だけが……、この狂った世界に取り残されている……」
どうして、こんなことになったんだ。
熱中症で気分が悪くなって、気を失って、気が付けば俺は何もかもが崩壊した世界にいて。その上、その世界には人間じゃ絶対に敵わないようなモンスターが俺を見るなり涎を垂らして襲ってくる。
現実じゃありえない。
まるで、異世界やゲームの世界に迷いこんだかのような悪夢のような世界だ。
「……ゲーム?」
自分の考えに、俺はハッと思い出す。
ボロアパートで気を失う前に聞こえた、
≫≫それでは、トワイライト・ワールドを開始します。
≫≫ようこそ、黄昏の世界へ。
というアナウンス。
加えて、ボロアパートから一歩踏み出した時に聞こえた、
≫≫黄昏の世界へと踏み出しました。これより、あなたの冒険が始まります。
というアナウンス。
黄昏の世界、というのはこの世界の名前だろう。
黄昏。太陽が沈み、もう間もなく夜が訪れること。
何もかもが崩壊し、モンスターが我が物顔で歩くこの世界は、まさに黄昏と呼んでもおかしくはない。
それに、トワイライト・ワールドという言葉には聞き覚えがあった。
俺のスマホに唯一残った、ゲームの名前だ。
「トワイライト・ワールドを開始する? 黄昏の世界での冒険が始まる……?」
言葉通りに受け取るならば、トワイライト・ワールドというゲームはあの時――俺が味わっていた猛烈な眩暈や吐き気があった時から始まっている。
そして俺がボロアパートから一歩足を踏み出したことで、ゲームであるトワイライト・ワールドの中、黄昏の世界と呼ばれるこの世界で、俺の冒険が正式に始まったということになる。
俺はスマホをポケットから取り出して、ゲームを開く。
相変わらず、そのゲームには俺の名前とステータス画面だけが表示されていた。
仮にこの世界がゲームであるのなら、そのゲームにおけるプレイヤーは俺自身。
そして、このスマホの自分の名前が書かれたステータス画面こそが、トワイライト・ワールドというゲームにおけるステータスウィンドウ……ということなのだろうか。
「だとすれば、このステータスは俺の身体に反映されている、のか?」
意味も分からずに俺はSPを振って、STR、VIT、LUKのステータス項目の数値を上げている。
この世界がゲームでありながら現実でもあるのなら、この上昇したステータスは俺の身体にも影響を及ぼしているはずだ。
俺は周囲を見渡して、倒壊した瓦礫の山を見つけた。
確か以前はそこに、地下駐輪場への入り口があったはずだ。
その場所も屋根が崩れ落ち、瓦礫で埋もれてしまっている。
今はもう、地下駐輪場へ立ち入ることはできそうにない。
俺はその瓦礫の山へと近づくと、手ごろな大きさの瓦礫を見つけた。
大きさからみて、七十キロはある瓦礫だ。以前の俺ならば、持ち上げることができてもせいぜい地面からほんの少し浮かせるぐらいだっただろう。
「ふっ!」
瓦礫に手をかけて、力を込める。
すると、瓦礫は周囲の瓦礫を崩しながらもゆっくりと持ち上がった。
ある程度にまで持ち上げて、俺はゆっくりと瓦礫を下ろした。
「……」
俺は、自分の両手を信じられない気持ちで見つめた。
明らかに筋力が上がっている。
ステータスに割り振った影響が、確実に現実の肉体にも影響していた。
「黄昏の世界ってのは、現実とゲームが混合した世界なのか?」
その解釈でほぼ間違いないだろう。
ゲーム内のステータスは、そのまま現実の肉体の強さで間違いない。
だとすれば、現実にいるモンスターの存在と、アプリゲームのステータス画面にあったレベルの存在にも説明が付く。
おそらくだけど、現実にいるモンスターを倒せば、アプリゲーム内での俺のレベルは上がるのだろう。
レベルが上がれば、ステータスを強化できるSPが手に入るはず。
ステータスが強化できれば、モンスターが蔓延るこの世界でも生きていくことができるようになる。
……だが、そのためにも。まずは今のレベルとステータスでモンスターを倒さないといけない。
俺は先ほどのアナウンスを思い出す。
チュートリアルクエスト、とそう言っていた。
チュートリアル、ということは初めの第一歩ということだ。
そのクエストで名前が出たのが、ゴブリン。
となれば、ゴブリン以上に弱いモンスターなど、この世界にはいないだろう。
「この黄昏の世界で生き残るために、まずはアイツを倒せ、ってことか」
俺は、あのゴブリンの姿を思い出す。
途端に、身体の奥底から表現のできない恐怖が身体を震わせた。
――いや無理だ。そんなこと出来ない。
アレには勝てないと本能が悟ってしまう。
ウサギがライオンに勝てないように、ただの人間が本物の化け物相手に勝てるはずがない。
今の俺とゴブリンとでは、生き物としての格が違うことがはっきりと分かる。
「…………」
俺は拳を握りしめる。
死ぬのは怖い。正直に言って、人間がゴブリンに敵うはずがない。
けれど、やらねばならないのだ。
やらずに死ぬか、やって死ぬか。
たった二つの選択肢しかこの世界には存在していない。
考えたくもないことだが、俺の日常はもう崩壊したんだ。
何もせずにダラダラと過ごしていれば明日が来るような、もうそんな世界ではない。
「いやだ、死にたくない」
俺は言葉を口に出した。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない!」
どうしてこんなことになった。どうしてこんなことになっている!?
ただゲームをダウンロードしただけなのに、どうして!
「~~~~ッ!」
声にならない唸り声を出して唇を強く噛んだ。
唇が切れて鉄の味が口の中に広がる。
その痛みと味が、やっぱりこれが現実なのだと教えてくれる。
だったら、やるしかない。
死にたくないなら、やるしかないんだ!
昨日よりも身近にある死という存在が身体を竦ませる。
考えただけでさっきの恐怖を思い出して足が震える。
「すぅー……」
俺は大きくを息を吸った。
「ぃよしっ!」
大声を出して、頬を叩いて、すべての恐怖を追い出して身体中に気合を入れて覚悟を決める。
このクソッたれの世界で、俺は何がなんでも生き延びる。
出来ることは全部やる。
そして、何としてでも元の世界へと戻る手段を見つけてやる!