4月1日 午前6時02分 黄昏世界へ
目を覚ますと、部屋の中はうす暗い闇に包まれていた。
毎日のように鳴いていたセミの声も聞こえず、部屋の中は春先のように少し肌寒い。
俺は寒さで身体を震わせた。
「さっむ」
もぞもぞと身体を動かして、目の前に落ちていたスマホへと手を伸ばす。
夏場だというのに、この寒さは少し異常だ。
天気予報でも朝方冷えるなんて言ってなかったはず。
「今、何時だ?」
呟いて、寝転がったままスマホの画面を開いた。
4月 1日 6時02分
スマホに表示された文字列。
その文字列に、俺は目を疑った。
「……なんだこれ」
何度も目を瞬かせ数字を見つめる。
まだ寝ぼけているのかと、何度も目を擦る。
だが、何度スマホに目を向けてもそこに表示された文字列は変わらない。
今は八月で、夏のど真ん中だ。四月という文字はありえない。
明らかに、スマホの画面はバグっていた。
「昨日のやつかな」
寝る直前のことを思い出す。
猛烈な眩暈と吐き気。それに襲われて気が付いたら気を失っていた。
倒れたのは間違いない。その時にスマホを落として、どこか壊してしまったのだろうか。
「はぁー……」
長いため息を吐き出す。
バイトの次の給料日まで、スマホを修理する金はない。
カレンダー機能が壊れただけなら、不便だがこのまま使い続けるしかないだろう。
「それにしても」
言って、俺はスマホの画面を見つめる。
「朝の六時って。久しぶりにこんな時間に起きたな」
つぶやいて、思わず笑う。
高校の時ならいざ知らず。大学生となった今、この時間に起きることはそうそうになくなった。
夏場でも早朝は結構涼しかったんだな。
そんなことを思いながら、身体を起こして体調を確認する。
昨夜にあった眩暈も、吐き気もなく治まっている。頭痛もない。身体はすこぶる快調、元気そのものだ。
「いやー、焦った。熱中症で死ぬかと思ったわ」
はっはっはっと俺は笑った。
いや、笑いごとではないのは分かっている。
それほどまでに昨夜の眩暈は相当きつかった。
熱中症で死亡したニュースを何度も目にしていただけに、密かに死を覚悟したほどだ。
けれど、こうして生きている。
エアコン壊れて熱中症で死にかけた、なんて口を大にして言うことはできないけれど、酒の席での話題ぐらいにはなるだろう。
起床時の日課となってしまった、SNSでもしようかとスマホの画面に触った時だった。
「ん?」
違和感のあるその画面に思わず声が漏れる。
開かれたホーム画面には、ポツンと一つのアプリだけが置かれていた。
昨夜ダウンロードしたばかりの『トワイライト・ワールド』のアプリのアイコンだ。
その他のアプリは何もない。ラインも、メールも、連絡先のアプリも消えている。いやそれどころか、本来消せるはずのないネット接続のアイコンや電話、スマホの設定アイコンさえも消えている。
画面上部にあるはずの電波の入り具合や電池残量を示すマークだって同じだ。
ただ、時計とカレンダー機能だけは無事なようで――とは言っても、カレンダーだって正確じゃないし、時計だってこの時刻が正しいのかは分からないが。
指を動かして画面をスワイプする。
けれど、他の画面は見当たらない。
誰か別の人のスマホかと、スマホの外面を見てみるけれど、紛れもなく俺のものだ。
「――マジかよ」
どうしようもない不安が胸に広がる。
カレンダー機能だけが壊れたのならまだ使えると思っていたが、スマホに表示される画面すべてがバグっている。
電話も、メールも、ネットのアイコンもないスマホなんてただの薄い電子板だ。
そもそも、壊れているのは画面表示だけなのか?
スマホの中に入っている、友人の連絡先やこれまで課金を費やしてきたゲームデータなんかは無事なのだろうか。
……バックアップ、取ってたっけ。
背中に冷たい汗が浮かぶ。
ここ最近、スマホのバックアップを取った記憶がない。
とりあえずスマホをパソコンに繋ごうと、部屋の中へと目を向けた時だった。
「は?」
夜明けの太陽の光によって、照らされた部屋。
四畳半という小さなその部屋は、まるで長い間放置されていたかのようになっていた。
割れた窓ガラスに、ボロ布同然となったカーテン。畳には至るところが黒くカビが生えており、その表面には埃が白く積もっている。部屋の隅に置かれた木製の折り畳みテーブルは積もりに積もった埃でもはや真っ白。ところどころ虫が食っているのか、折り畳み式の足は四つの内一つが外れ、机は傾いてしまっている。
その中でも、唯一と言っていいほど綺麗な場所。
腐敗した畳に残った、人の形をしたその部分は、今しがた俺が倒れていた場所だ。
俺の形に沿って、その部分の畳だけが腐敗から免れたように綺麗な青草色をしていた。
「えっ!?」
何度も、何度も部屋の中を見渡す。
何かの間違いじゃないかと思ったが、部屋に置かれた家具は全て俺のものだ。
「なんだよ、これ」
呆然とつぶやく俺の言葉に、答える人はいない。
信じられない光景に、よろよろと足を踏み出したその瞬間、ミシッという音を立てて畳は踏み抜かれた。
「いっ」
ただ踏み抜いただけならよかった。
腐った畳を踏み抜き、出来た穴からはそこを寝床にしていた虫たちが何事かとわらわらと顔を出してくる――。
「ぎゃぁあああああああああああああ!!!!」
全身の肌に一気に立つ鳥肌。
大声を出して、俺はすぐさま玄関へと一直線。
慌てた俺を前に進ませまいとするかのように、部屋中に積もった埃が舞い上がり目の前が白く染まる。
「げほっ、げほっ!」
慌てて口元を手で覆い、俺は必死で玄関へと駆け抜けた。
初めて狭い部屋で良かった、と心から思う。
数歩分しか畳に足を触れなかったが、それでも触れた足はしっかりと畳を踏み抜いて、畳を寝床にしていた虫が顔を出してきた。
「ひいっ!」
舞い上がる埃の影響か、それともこの状況の影響か、どっちともつかない涙があふれてくる。
たどり着いた玄関は、やはりと言うべきか埃で白くなっていた。
しかし、もはやそんなことはどうでもいい。
俺は埃の上に裸足の足跡を付けながら必死で靴を探した。
けれど、玄関に置かれた靴はやはりと言うべきかすべてカビが生えており、表面には埃が白く積もっている。
手に取るどころか、もはや触れることさえも躊躇してしまう物体だ。靴は早々に諦めた。
「な、なんだよ、何だよこれ!」
と、とにかく外に出よう!
半泣きになりながらも必死で鍵を開けて――錆び付いていたドアノブを回す。
――が、ギッという音を立てて扉は開かなかった。
「こ、こんな時に!」
築五十年を超えるボロアパートは時々ドアの立て付けが悪くなる。
こんな時はドアの左下端を蹴れば立て付けが良くなる、のだがこの時の俺はとにかく一刻も早くこの空間から抜け出そうと必死だ。
苛立ちを隠すことなく舌打ちをすると、ドアの左下端を思いっきり蹴り飛ばした。
――バゴォン!
激しい音とともに吹き飛ぶ扉。
呆然と立ち尽くす俺。
い、いやいや! 確かに焦ってたし力加減ができていなかったことは認めるけど、それにしても扉が吹き飛ぶっておかしくない!?
やべぇ、大家さんになんて説明しよう。
「いや、そ、それよりも外だ!」
呆けていたのは一瞬。
俺はすぐさま気を取り直し外に出ようと――。
「え?」
して、思わず目にした光景を見て固まる。
まず、目に飛び込んできたのは崩れた民家。
俺の住んでるボロアパートは住宅街の中にある。周囲は家屋や鉄筋建てのアパートが立ち並んでいるのだけど、そのすべてが倒壊し蔦や植物、苔なんかで覆われていた。
隣の一軒家なんて、屋根を突き破って生えたでっかい樹木に飲み込まれている。樹木から伸びた蔓で覆われた一軒家は、樹木に取り込まれたかつて家だったもの、と表現するのがしっくりとくるだろうか。
緑に覆われているのは家屋やアパートだけじゃない。
舗装されたアスファルトの道路はあちこちがひび割れ、穴が広がり、その下の地面から伸びた草木で道路は緑で溢れかえっていた。
駐車場に止められた車は蔦や苔が全体を覆っていて、遠目から見れば巨大なマリモに見えなくもない。それが車だと分かるのは、そのマリモの形がどう見ても車にしか見えないからだ。
――緑に覆われて廃墟となった街。
そう、表現するしかない光景が目の前に広がっていた。
「な、なんだよこれ」
夢か? 夢だよな?
「そうだ、これは夢だ。夢に違いない……」
だって、そうじゃなきゃ説明がつかない。
昨日まではなんともなかったはずだ。
それが、経った一晩でこうなるか?
こんな、まるで世界が変わってしまったかのような光景に!
「ありえない」
よろよろと玄関から足を踏み出す。
「ありえない、ありえない、ありえない!」
目の前の光景を否定しようと。
何か、記憶の中の光景と違いがあるはずだ、これは良くできた作り物に過ぎないと。
その違いを見つけようと、俺は外の世界へと足を踏み出してしまう。
その瞬間だった。
≫≫黄昏の世界へと踏み出しました。これより、あなたの冒険が始まります。
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