プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
「あー……」
畳の上に寝転がりながら、俺は大の字の姿勢で天井を見上げながら声を漏らした。
高校を卒業して、進学のために東京へと出てきてから一年と四カ月。
大学二年生の夏。日付も変わった深夜零時過ぎのこと。
俺は、生命の危機を感じていた。
「はぁー……。どうしよ」
重たいため息を吐き出した俺の頬を、慰めるかのように生暖かい夏の夜風が撫でていく。
目を向ければ、そこには全開にした窓がある。
吹き込む夜風は、カーテンを一、二度揺らすと役目は終えたとばかりに部屋から出ていった。
途端に、夜風に一度は追い出されたはずのムッとした湿度を孕んだ日本の夏が、俺の部屋へと戻ってくる。
動いていないはずなのに、じっとりと汗が噴き出す。
俺は、風の吹きこまない窓から視線を移し、部屋の壁際へと設置されたソイツへと目を向けた。
確実に俺より年上の、日に焼けた黄白色の肌を持つこの夏の頼れるナイスガイ――になる予定だったもの。
俺のこの夏の生命線であった冷暖房付きエアコン。
築50年を超えるボロアパートの一室、四畳半の畳部屋を借りた時に一緒についてきた同居人だ。
毎年のように話題になる地球温暖化。
その影響からか、いつしか連日のように真夏日を更新するようになった日本列島。
照り付ける太陽の日差しは容赦なく気温と室温を上昇させていき、毎日のようにテレビやネットなんかでは熱中症の話題があがるほど。
今日の昼間だって、熱中症の話題をニュースで目にしたばかりだ。
過酷な季節である。
だからこそ、一緒にこの季節を乗り越えようと俺はこの同居人と誓い合ったはずだった。
それなのに、だ。
「どうして、俺を置いて行くんだよッ……」
頬を伝う汗が止まらない。
同居人は今日の昼間に息を引き取った。
死因は分かっている。負担を掛けすぎたのだ。
老骨に鞭を打って働く同居人を労りもせず、俺は連日のように同居人を働かせた。
その結果がこれだ。
同居人の最期は呆気ないものだった。
太陽によって上昇していく気温から部屋の主である俺を守るべく、唸り声をあげながら連日のように稼働していたが急に動きを止めたのだ。
製造年月日を見ると一九九〇年。享年三〇歳の大往生だ。
そして、同居人を亡くした俺は徐々に蒸し暑くなる室内温度に根負けして窓を開けて――少しでも風の流れを取り入れてから大家へと連絡をした。
けれど、大家からの返事はあっさりとしたもので「ああ、そうですか。まあ、あの子も年ですからね」の言葉のみ。
結局、新しい同居人を迎え入れる交渉は失敗に終わり、俺はそれ以来ずっと畳の上で体力の消耗を防ぐべくなるべく動かないようにしている、というわけである。
とは言っても、いつまでもこうしているわけにはいかない。
熱中症とならないよう水だけは飲んでいたけれど、さすがに昼間から何も食べていないので空腹だ。
深夜となって、気温もだいぶ落ち着いてきた。行動しようと思えばできなくもない。
「コンビニ、行くか」
のっそりと俺は起き上がり、額に浮かんだ汗を拭う。
机の上に置かれた財布を開き、中身を確認する。すると英世が一人、俺を見つめてきた。
「……そうか。お前も一人、か」
言って、俺は寂しく笑みを口元に浮かべて財布を閉じた。
大学二年生の夏。
世間一般で言えば、今が一番楽しい時期だろう。
それなのに、何が悲しくて蒸し風呂となった部屋で過ごさなければならないのか。
同期の奴らは今頃、彼女や女友達と別の意味で熱い夜を過ごしているというのに!
考えるだけで泣きそうだ。
じっとりと汗が噴き出て、汗が頬を伝い落ちていく。
カーテンが揺れて、夜風が俺の頬を優しく撫でた。
そんなはずはないのに『元気出せよ』と言われたような気がする。
……それにしてもなんで俺、こんなに金がないんだろ。
「ああ、そうだ。飲み歩いたからだ」
先日迎えた二十歳の誕生日。
法律的にもお酒が飲めるようになった俺は、連日のように夜の繁華街へと繰り出していた。
友人や先輩たちとお酒を飲み、夜通し笑い合っては朝日をともに拝んで部屋へと戻り寝る。
そんな生活を繰り返し、財布の中で身を寄せ合うように固まっていた諭吉達は愛想を尽かしたのか俺の財布から出ていき、気が付けば財布の中には英世ただ一人。
典型的なダメ大学生の姿だった。
俺の頬を優しく撫でていた夜風も『自業自得じゃねえか』とばかりに頬を撫でることをやめて、部屋から出て行ってしまう。
代わりにやってきた熱帯夜の湿度が、俺を馬鹿にしているような気がした。
「コンビニ行くの、やめとくか」
誰にでもなく呟き、俺は再び畳の上に寝転がった。
もう寝てしまおうか、と思ったが眠気は全くと言っていいほどやってこない。
連日の夜遊びの影響で、完全に昼夜逆転してしまっているのだ。
「暇だな」
ゴロゴロと畳の上を転がり、投げ出されていたスマホを手に取ると俺はその画面を確認する。
「ん?」
すると、そのメッセージアイコンが目に入った。
「……予約されたトワイライト・ワールドが利用可能になりました?」
なんだっけ、これ。
「ああ、前に事前登録してたやつか」
あまりにも暇すぎて、以前ネットを巡回していた時に見つけたスマホで出来るMMORPGだ。『リアル×レベル&スキル制』とでっかく書かれた広告の謳い文句に惹かれて事前登録していたものだった。
「どれどれ……。ってダウンロードに一時間!? なげぇー……」
ゲーム画面をタップし、そこに表示された数字に言葉を失う。
最近では発達したネット環境のおかげか、ダウンロードに一時間も掛かるゲームはあまり見かけない。どんなにデータ容量が大きくても、大抵は三十分以内に終わるからだ。
それだけ、リアルな映像だということだろうか。
「いいね。楽しみだ」
俺は笑って、わくわくとダウンロード画面を見つめた。
ダウンロード画面はどこかの世界の映像だった。
どこまでも広がる草原と、しらす雲が広がる青空。ただそれだけの映像なのに、日本にはないその映像が俺の心を掴んで離さない。いつもならダウンロード過程なんて放置して別のことをやるはずなのに、俺はその画面から目を離すことができなかった。
食い入るように見つめるスマホの画面の中で、ダウンロードは少しずつ進んでいく。
どうやら、ダウンロード画面はダウンロードが進んだ分だけその映像の中で太陽が動くらしい。
はじめは夜明けを思わせた青空も、いつしか正午のように明るく煌めくようになり、やがて夜を知らせる群青が空には多くなっていく。
そして、画面の中の映像が完全に黄昏を思わせる空になった時、ダウンロードは終わった。
「……すごいな、これ」
思わず、そんな言葉が口から出た。
静かな興奮が俺の内側から湧いてくる。
映像だけで時間を忘れられるゲームなんて、これまでにやったことも聞いたこともない。これは、間違いなく当たりゲーム。いわゆる神ゲーというやつだろう。
「よし。さっそく」
興奮を胸に、俺は画面に浮かぶ『ゲームスタート』の文字を押した。
瞬間、画面の暗転。
「え?」
まるでスマホの電池が切れたかのような暗転に呆けてしまう。
だが、その呆けも長くは続かなかった。
次いで、俺は強烈な眩暈に襲われたからだ。
「なッ! なんだ、これ」
見慣れた天井が、狭い四畳半の部屋が、手にしたスマホが、そのすべてがグルグルと視界を回り平衡感覚すらもなくなる。
畳の上で寝転がっているはずなのに、まるでどこかに放り投げだされたかのような浮遊感。
上も、下も、右も左も分からない。
ただ目を開けていれば視界に入ったものがすべて渦を成してグルグルと回り、猛烈な吐き気となって俺を苦しめる。
「お、おえっ」
思わず嘔吐いてしまうが、幸いにも昼から食べ物は口にしていない。
摂取していたのは水くらいだったが、それもこの暑さで汗となって噴き出してしまったようで口から出たのは少量の唾液のみだった。
「き、気持ち、わる」
ぐるぐると回る視界に耐え切れず、俺は瞼を閉じる。
治まらない眩暈と吐き気の中、俺は昼間のニュースを思い出していた。
(たしか、熱中症って部屋の中でも罹るんだったよな……。高齢者とかがエアコンつけずにいたら熱中症になるって……)
眩暈や吐き気に襲われたところで、もうすでに熱中症であるとそのニュースでは言っていた。
応急処置法は身体を冷やして水と塩分を摂ること。
まずは水を飲もうと、身体を起き上がらせたその時だった。
≫≫トワイライト・ワールドに接続しました。
≫≫種族の自由選択が可能です。
「なん、だ?」
手にしたスマホから聞こえるアナウンス。機械的な女性の合成音声だった。
「いや、それどころじゃない。水を」
≫≫種族の自由選択が可能です。
ふらつきながらも立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。
≫≫種族の自由選択が可能です。
冷蔵庫から水を取り出し、その中身を一気に煽った。
冷えた水が身体に染みわたる。
けれど、眩暈は収まらず相変わらず吐き気はひどい。
飲んだばかりの水をすでに吐き出しそうだ。
≫≫種族の自由選択が可能です。
「……」
キッチンで塩を舐めて塩分を補給する。
これであとは、身体を冷やせばいいはず……。
≫≫種族の――
「うる、さい! それどころじゃないんだよ! 人間だよ! これでいいか!?」
思わず叫び声をあげ、俺はよろめいた。襲い来る眩暈に耐え切れず、その場で座り込んでしまう。
そんな俺のことなんか気にする様子はなく、手の中のスマホは再び機械音声を発した。
≫≫確認しました。種族:人間でトワイライト・ワールドを開始します。
≫≫種族:人間を選んだあなたに種族スキルが付与されます。
≫≫スキル:未知の開拓者を獲得しました。
≫≫事前登録者ボーナスを獲得できます。
≫≫事前登録者ボーナスとして、ゲーム開始後にチュートリアルクエストを受けることができます。
スマホが次々とアナウンスを告げていく。
けれど、俺はその声に反応することはできなかった。
意識が朦朧とし、聞こえてくるアナウンスがやけに遠く聞こえる。
もはや立つことも、喋ることもできない。
ただ半分遠のいた意識の中で、耳に届く女性の機械音声だけがやたらと頭の中を回っていた。
≫≫それでは、トワイライト・ワールドを開始します。
≫≫ようこそ、黄昏の世界へ。
女性がその言葉を告げたのを最後に、俺は意識を手放した。