目次
- プロローグ スイングバイ
- 第一話 砂漠を進む英雄
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第二話
鋼 と宝石 -
Intermission
清陰の、あれから - 第三話 王者はいない
- エピローグ スタンド・バイ・ミー
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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エピローグ スタンド・バイ・ミー
1. SATAN IN LAUNDRY
「灰島ー、雨やって」
灰島の部屋のドアを叩いておいて黒羽は寮の階段を駆けあがった。一段飛ばしで四階から五階まで、五階もそのまま素通りして屋上に飛びだすと、灰色の雲が立ちこめる空が雨を降らせはじめていた。
高志寮の屋上は物干し場である。数台の物干し台を奪いあうように所狭しと干された洗濯物を急いで取り込む作業にかかった。自分のものも他の寮生のものも一緒くたに両腕に持てるだけ抱えて取って返したとき、遅れて追いかけてきた灰島がちょうど出入り口に姿を見せた。
「残り頼む」
「ああ」
すれ違いざま阿吽の呼吸で短い言葉を交わした。
一階下の浴場の脱衣所までひとまず洗濯物を運び入れると、すぐに灰島も誰かのTシャツやらスウェットやらタオルやらを両手いっぱいに抱えておりてきた。顎で押さえた洗濯物で眼鏡が浮いて斜めになっている。両手のものをどさっと粗雑に床におろして眼鏡の位置をなおした。
洗濯物にまみれた脱衣所の床に二人で座り込んでひと息つく。
「昨日も天気悪かったでみんな今日に洗濯まわしたんに、結局昨日は降らんで今日降るんやもんなあ。東京の梅雨入りって福井より早ぇんか? ほやけどまだ梅雨入りしたってニュース見てえんよな?」
「知らない」
「世の中の一般的なことにもうちょっと興味持てや……」
五月最後の日曜だ。昨日は関東男子一部と二部の入替戦があった。黒羽たちはわざわざ観戦には行かなかったが、春季リーグ十一位で入替戦にまわった大隈の大智大は二部二位に無事勝って残留を決めた。十二位の山王大は二部一位にフルセットで敗れたようだ。九月からの秋季リーグは一チームが入れ替わることになる。
三村はこの週末、U-23の強化合宿に行っている。黒羽たちはひさしぶりの日曜のオフを溜め込んだ掃除や洗濯をこなしつつ寮で過ごしていた。
「……なあ、フランスとかドイツとかってバレーのリーグあるんけ?」
「あるけど、なんだよ急に」
何気なく手に取った誰かのTシャツを広げて何気なく訊くと灰島が訝しげな顔をする。胸にプリントされているアルファベットの綴りがフランス語のように見えたのだ。「ラ・フランス」みたいに読める。たぶん違うけど。そもそもラ・フランスはフランス語なのか。
「いや別に、なにってわけでもねぇんやけど」
「なんだよ」
「絃子が海外旅行行くんやって。バイト代自分で貯めて」
「イトコって……従姉妹の絃子のほうか。それがなに」
黒羽は部屋着のハーフパンツのポケットからスマホをだし、ちょうどさっきやりとりしていたメッセージの画面を見せた。あぐらを組んだ膝を突きつけあうくらいの距離に灰島がずれてきて画面を覗き込む。
‟夏休みに友だちと三人でヨーロッパ旅行計画してるの。ほんで今バイト増やしてお金貯めてるで、わたしも忙しいの”
‟ヨーロッパってどこ行くんや? ポーランド?”
‟なんでポーランドなんやの。フランスとドイツ、二カ国まわる計画。あ、ドイツはポーランドとお隣やわ、たぶん”
‟へー。ほんならドイツもバレー強ぇんかな”
‟「も」ってなんやの”
ここまでで中断していたやりとりに、灰島が覗き込んでいる前で返信を打った。
‟他の大学の人やけど、ヨーロッパのリーグに挑戦するんやって。それがポーランドなんやって。何ヶ月か経験積みに行くくらいの感じらしいけど。弓掛ってわかるけ? 春高であたったで見てたやろ。福岡の高校のエース”
春季リーグの閉幕直後に慧明大が学生の海外挑戦のためのクラウドファンディングを立ちあげたという情報は他の大学にもすぐに広まった。誰もが他大に多かれ少なかれ友人知人がいるので関東一部の全大学が芋づる式に繋がっている。この話に関しては当の慧明の豊多可から直接聞いた。「篤志さんが第一号でポーランド行くんだってさ」と自慢げに黒羽と灰島にメッセージを送ってきたものである。
「弓掛、すぐ行くってわけやねぇんやろ? 東日本インカレも出んってことあるんかな」
「早くても秋だろ。今行ってもあっちもシーズンオフだ。東日本には慧明の二冠目と二連覇がかかってる。今年は八重洲がフルメンバーだから、弓掛が穴あけたら慧明は厳しくなるだろうな。慧明が左上の角で八重洲が右下の角に来るのは確実だから、うちがどこに入っても準決勝までにどっちかとあたる。両方と戦うためには当然決勝まで行かねえと……」
東日本インカレの組み合わせが決まるのは来週のはずだが灰島の頭の中ではもうある程度埋まっているようだ。虚空に貼りだした見えないトーナメント表を睨んで一人でぶつぶつ言いだした。
相変わらずイノシシみたいに前方だけに突き進んでいく奴である。気が済むまで喋らせておこうと黒羽が黙って見ていると、灰島が険しい目を向けてきた。
「他人事みたいな顔してんじゃねえぞ。春リーグ終わってまだ一週間とか考えてんじゃねえだろうな、東日本まで」
「もう一週間、やろ? 東日本まであと三週間しかねえもんな」
黒羽が機先を制すと灰島が目をぱちくりさせた。
一週間前、試合終了のホイッスルが鳴った直後、黒羽は初めて経験する全十一戦ものリーグ戦の結果の受けとめ方に戸惑った。この試合でもっとやれたはずだという不完全燃焼感もありつつ、リーグを戦いきって三位に入ったのは誇れる結果だという完全燃焼感が感情を中和して、なんとなく満足しようとした――そのとき、三村の声がコートの外から聞こえた。
珍しく荒れるくらいの三村の姿にちょっと驚いた。どんな結果でも陽性に受けとめ、仲間をフォローしてムードを持ちなおす姿のほうが三村らしく思っていたから。
勝てた試合だった。終盤でネットを蹴ってしまったことによるタッチネットも、灰島が拾ったリバウンドにとっさに足をだしたが繋げられなかったことも、ほんのちょっとでも身体の反応が違っていたら自分たちのほうに微笑みうるプレーだっただけに。
勝てた試合を落としたことに満足しなくていい。思い切り悔しがるところでいいんだと三村の姿に教えられ、抗わずに悔しさに身をゆだねた。廊下でクールダウンして表彰式に並ぶ頃にはみんなと一緒に三位をよろこぶこともできたが。
それはチーム全員同じのようだった。
週があけ、いつもより長いオフを挟んで週半ばの水曜。長いとはいえたった二日間のオフのあいだ待ちきれなかったように大学体育館に集まった部員たちの表情が驚くほど変わっていた。試合終了時にコートにいた黒羽たちだけではない。リーグ途中からスタメン落ちしたAチームの上級生たちの気合いも半端ではなく、次はまたスタメンを取り返そうと燃えていた。
入学当初は ‟天才セッター”を敬遠するような空気も一部にあったが、上級生を含めて灰島とコミュニケーションを取りに来る部員が急に増えた。ことバレーに関して訊かれれば灰島もコミュニケーションをまったく面倒がらない奴なので水を得た魚のように応じている。
総合三位という大躍進で得た自信と、総合一位チームとフルセットまで競って惜敗した悔しさ。二つの結果がコートの中で戦った者たちにも、コートの外で見守った者たちにも等しく火をつけた。
「おれたちはもっと上に行けるって、みんな信じただろ。統さんがひと役買った」
灰島が心底愉快そうにしたり顔をする。なにしろ灰島がやりたい練習にみんなが積極的につきあってくれるようになったので楽しくて仕方ないようだ。灰島にしてみれば東日本インカレまでにチーム内で詰めたいことはいくら時間があっても足りないほどある。
「今年の全カレで全国制覇を狙えるチームにする」
と洗濯物の山の中で大言壮語を吐く灰島の顔は、魔界の山のてっぺんで人間界を征服すると高笑いする魔王みたいであった。
脱衣所で選り分けた自分たちのぶんの洗濯物を抱えて部屋におりる途中でスマホが通知音を鳴らした。絃子から、さっき送ったメッセージへの返信だった。
‟ふーん、バレーボールにも海外のリーグってあるんやの。あんたも興味でてきたん?”
バイトで忙しいんじゃなかったのかと思いつつ黒羽は洗濯物を片手にまとめて返信を打った。
‟なんでや。そんなことひと言も言ってねぇやろ”
‟だってあんた、海外旅行に興味なかったやないの。おじいちゃんたちと行ったハワイだってめんどくさがって、家にいたほうがいいなんて言ってたし”
‟それとこれとは別やろ”
つい絃子にはいつも反抗的に返してしまう。いつまでたっても上から目線で姉貴ぶられるのにもやもやするのだ。
弓掛の話を聞いて、自分もいつかは……という興味が芽生えたのは否定できない。あくまでうっすら考えた程度だし、どっちにしても先の話だ。大学に入って一年目の、一つ目の大会が終わったばかりなのだ。四年間の大学生活を満喫することのほうが今の黒羽には重要だ。
*
『気象庁の発表によりますと、関東甲信地方が昨日四日に梅雨入りしたとみられ――……』
八重洲大学男子体育寮の食堂には朝から大盛りの飯にがっつく体育会系男子学生がひしめいている。カウンター上の壁に設置されたテレビが垂れ流す男性アナウンサーの通りのいい声がざわめきの隙間からぶつ切れに聞こえてくると、屋外競技の部員たちから「まじかー、梅雨入り」とうんざりした嘆きがあがる。
屋内競技であるバレーでもボールの感覚が変わったりといった影響がないわけではないし、単純に湿気は不快だが、屋外競技のように練習自体への影響はない。ニュースに引っ張られるほどの切迫感はないので話題は別のところにあった。
「ポーランドかー。通用すんのかな、弓掛」
神馬が目玉焼きに醤油をかけて醤油差しを破魔にまわす。
「なんにしろすごいよな。言葉だって通じないだろうに」
大苑がのりたまのふりかけを白飯の上にたっぷりかける。
「弓掛は勇気がある」
破魔は漬物の小鉢に醤油を差し、卓上の調味料置きに戻した。郷里の長野を思いだす野沢菜の漬物をぽりぽりと咀嚼する。
破魔、大苑、神馬はそれぞれ別のVリーグのチームへの内定が固まっている。秋以降各チームから大学卒業見込みの内定選手が発表されはじめるはずだ。北辰高校時代から七年も一緒にやってきた三人が、卒業後は離れ離れになることへの不安はどうしてもあった。
国内ですらそうなのに、プレーが通用するかどうかとは別に、言葉も違う異国に一人で渡って短期間でチームに溶け込める自信は破魔にはない。神馬も大苑も破魔と似たり寄ったりの人見知りだ。
「弓掛の話?」
朝から少々テンションが下がって黙々と朝飯を口に運びはじめた三人のテーブルに食器を載せたトレーが新たに置かれた。顔をあげた三人に太明が「おはよ」と笑って椅子を引き、明るいテンションで話題に入ってくる。
「ポーランドって何語なんだろな? 英語も通じんのかな」
プラスリーガのウェブサイトを破魔は以前覗いたことがあった。当然読めはしなかったが、
「ポーランドはポーランド語だと思う。ポジション名が英語じゃなかった。気になったから翻訳サイトで英語に訳してみた」
「破魔って気になったこと意外とちゃんとネットで調べるんよな……。ポーランド語だとオポジットとかじゃないってこと?」
「オポジットは ‟攻撃する者”、つまり普通にアタッカーで、ミドルもミドルだった。ただウイングスパイカーは直訳で ‟受ける者”。セッターは ‟プレイメイカー”、あるいは ‟クォーターバック”という訳もでた」
太明が「へぇ!」と声を高くした。「ウイングはレセプする奴ってことか。セッターがクォーターバックってのも面白いな。コンセプトがわかる」
太明が加わると潤滑油を流し込んだようにスムーズに話が広がる。破魔にない能力がある太明なら、一人で知らない環境に踏みだしてもうまくやるのだろう。
「裕木ー」
新たに近づいてくる者の姿に太明が気づいて片手をあげた。
「おはよ」
「ああ。学連のサイトにでてたぞ、プリントしてきた」
挨拶を返すのもそこそこに裕木が太明の前に一枚のコピー用紙を滑らせ、あいていた席に座った。
「お。東日本の組み合わせ?」
太明が用紙を覗き込む横から破魔もまず自校の場所に目を走らせた。第二シードにあたる右下の角。慧明は無論第一シード、左上の角だ。それから全体をざっと把握する。
東日本インカレの開幕は六月下旬の二十二日。木曜から日曜までの四日間の日程だ。リーグ戦と違い一回負けたら終わりのトーナメント戦となる。
「太明、地元帰んのいつ? おれは十二日からだから、ぎりぎりまでこっちにいて十一日に帰る予定だけど」
「おれも同じ。裕木なにで帰んの? アキバまで一緒にでよーぜ」
二人のやりとりに破魔はトーナメント表から目をあげた。
「……なんの話だ?」
「教育実習。おまえらと違っておれと太明は普通に就活しなきゃいけないからな」
言われてみれば教職課程を採っている四年は例年この時期に教育実習で二週間ほど不在になる。去年のこの時期は自分のほうがチームを離れていて四年の誰が教育実習に行っているかなど気にしていなかったので、今年もすっかり意識から抜け落ちていた。
「さすがにおまえ髪は戻してくんだろ」
「実はそこまだちょっと悩んでるんだよなー」
「ちょっと悩むのかよ……。金髪の教育実習生来たら校長がひっくり返るだろ」
気楽に喋る二人のようには気楽になれず、破魔は言葉を失って神馬や大苑と視線を交わした。
「そうか……東日本は二人ともいないのか……。太明に四冠を獲らせることは、もともと叶わなかったんだな……」
ショックが滲みでた声になり、仕方ないなというような苦笑を太明にされた。
「破魔。おれがずっと言ってきたことはなんだっけ?」
太明の問いの意図を破魔は一拍だけ考えたが、すぐに思い至った。
「…… ‟試合にでた奴もでてない奴も、全員で背負ってる”」
去年、代表のスケジュール優先で大学の大会に穴をあけがちだった自分たちの居場所を守ってくれた、太明の言葉だ。
唇を結び、しっかり顔をあげる。太明の目をまっすぐに見て破魔は言った。
「おまえたちがいない期間、おれたちがチームを支える。おまえたちが帰ってくる場所を守る」
我が意を得たように太明の満面に喜色が広がった。
「おう。任せた」
「東日本のタイトルは慧明から取り返そうぜ。慧明も弓掛が海外行く前に四年に花持たせるって気合いは入ってるだろうけど」裕木が親指でくいっと太明を指し示し「こいつを主将に担いで弱体化したなんて言わせるわけにいかねえぞ」と発破をかけた。
守る、と自然に言えた自分を誇れる気持ちが破魔の胸に広がった。みんなを守る側であることを一方的に課せられていた頃は、こんな気持ちは抱けなかった。
「子どもの頃から太明の将来の夢は先生だったのか?」
太明の将来を応援はしたいものの、選手を続ければいいのにという思いも捨てきれず破魔は訊ねた。せっかく四年間大学トップレベルでやってきたのだし、Vリーグの上位のレベルでも太明のキャプテンシーは必要とされるはずだ。
「いや、考えてもなかったよ。堅持さんに見つけてもらわなかったら大学だって行ってなかったかもしれない。八重洲に来なかったら教員免許なんて取る機会もなかったし、バレーの指導者になる夢なんて持ちもしなかった」
「指導者……学生バレーの……?」
「向いてないかな?」
目を見開いて訊き返した破魔にちょっと茶目っ気ぽく太明が訊いてくる。「いや」と破魔は迷わず否定した。
「向いてると思う。それは、すごく……」
理由を説明する言葉を考えたが浮かばない。だから無理に理屈をつけず、素直な感想を口にした。
「すごく……素敵だ」
聞いた瞬間、太明が選んだその将来が光に溢れたとてもいいものに思えたから。その部活風景はきっと破魔が経験してきたものとはかなり違うだろうが、きらきらした景色が鮮やかに目に浮かんだ。
「だろ? 実はおれも向いてると思うんだよなー」
太明が嬉しそうに自画自賛した。
「八重洲に進学できたことは、おれにとって将来に繋がる四年間になった。破魔、おまえにとってもそうだったらいいって願ってる。チームがばらばらになっても、八重洲でみんなと過ごした四年間が、もっと高いレベルでこれからもずっと戦っていくおまえらの、力と勇気になるように――願ってるよ」
‟キーパーやらないなら入れてあげない”
‟清央くん強いね! こっちのチーム入ってよ!”
勝たなければ居場所を失う。一番強くあらねば仲間に入れてもらえない。昔はそれが怖かった。
かつて囚われていた呪縛から、破魔はもう解放されている。
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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