2.43 清陰高校男子バレー部 next 4years2.43 清陰高校男子バレー部 next 4years

著者プロフィール

壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】

沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。

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第三話 王者はいない

1. NEWS

 染谷そめやいつき欅舎けやきしゃ大学三年。男子バレーボール部員。ポジションに相当するものは「アナリスト」。バレーボールにおいては自チーム・敵チームのデータを映像と数字により分析し、戦略戦術の助言や選手のスキルアップの助言を行うのがその役割である。高校時代はプレーヤーだったそうで身長は一八〇センチ台半ばという、バレーボーラーとしては「普通」だが世間一般的には十分にでかい。

 ウエイトトレーニングを免れているため筋肉の厚みのない痩躯そうくが部室の中央のデスクの下でうつ伏せに倒れていた。利き手(染谷は左利きだ)が事切れたように床に投げだされている。三村は思わずその手の人差し指に目をやってしまったが血痕でダイイングメッセージが書かれていたりはしなかった。

「斎ー? 生きてるか?」

 かがんで声をかけた。「おーい?」デスクの下に首を突っ込んで重ねて呼んだ途端染谷の頭が予備動作なしに起きあがったので「うおっ、と……!」危うく額に頭突きを食らいかけた。

「おっしゃ。一瞬寝て復活」

 デスクの下から這いだしてきた染谷がオフィスチェアによじ登り、ノートパソコンが開きっぱなしで置いてあった席に戻った。「もうひと仕事ー……っと?」後ろ手をついて尻もちを免れた姿勢できょとんとしている三村にそこでやっと気づき、

「お疲れさんーすばる。どした? 直帰しなかったのか?」

 とシルバーの缶に赤と青があしらわれたエナジードリンクのプルタブを引きながら。

「一瞬だったんかは知らんけど」

 染谷のおでこに丸くくっきりとついた赤い痕が相応の時間その部分が床にへばりついていたことを証明している。

星名ほしなさんに呼ばれたで寄ったんやけど、離席中?」

 立ちあがって室内を見まわしたとき、ちょうど三村が今入ってきたドアがあいて星名が姿を見せた。

「統、来てたか。お疲れさん。試合のあとでわざわざ寄ってもらってすまない」

「いえ」

 と答えつつ三村は小首をかしげ、わざわざ呼ばれた用件が星名の口から告げられるのを待った。

 神経質そうな細面ほそおもてにフレームレスの眼鏡をかけた星名は温度が低い感じの男で、熱血指導者タイプとは真逆の監督だ。今年で四十二歳と聞いているので高校の監督だったはたと同年代になる。

「おれは外したほうがいいすかあ?」

 データ入力かなにかの続きに戻っていた染谷がキーを叩く手をとめずに訊いた。

「まだ作業あるんだろう。続けてていいよ」

「じゃあ聞き耳立ててます」

 と答えた染谷がちらりと片目を三村によこして図々しくにんまりした。

「統も、疑わしい顔しなくていいよ。悪い話をするために呼んだんじゃない」

 三村は軽くまばたきをし、

「そんな顔してますか」

「きみは案外疑り深いだろう。座って話そうか」

 と星名が壁際からパイプ椅子を一つ持ってくると、自らは愛用の座布団を敷いたオフィスチェアに尻を落ちつけた。

 手狭な部室の中央を占める六人がけのスチールデスクにはキャスター付きのオフィスチェアが常時二脚だけだされている。一脚は星名の椅子で、その斜向はすむかいのもう一脚は部室の座敷童である染谷の指定席だ。学生スタッフ含めて約三十名いる部員が全員で使えるほどの余裕はないので練習で使うシューズなどの私物は大学体育館のロッカーに入れてあり、着替えや全体ミーティングは基本的に体育館で済ませる。

 帰りに寄れるかと星名に訊かれたので寄れますと三村は承諾し、チームポロシャツ姿のまま大学に寄った。灰島はいじま黒羽くろばは今日の試合会場だった横浜体育大学から三鷹の県人寮に直帰しているはずだ。

 パイプ椅子を開いて星名の正面に腰をおろした。隣では染谷がオフィスチェアの上に足をあげてあぐらをかき、ノートパソコンにかぶりつくような前屈みの姿勢で打鍵だけんを続けている。

 ひと呼吸おいて星名が切りだした。

「今月末のU-23の強化合宿に欠員がでたそうだ」

 どくん。

 “U-23”

 その単語に血流が増えた。

急遽きゅうきょ追加招集が決まった。ウイングスパイカーが一枠。一九〇以上あると望ましい。欅舎の三村選手はどうかと連絡をもらった」

 無意識に背筋が伸びた。両膝の上で左右の拳をぎゅっと握った。

 染谷もさすがにノートパソコンから顔をあげた。

 あぐらを組んだまま染谷がキャスターをこっちにひと転がしして拳を向けてきた。三村も拳をあげて染谷とグータッチを交わした。

 星名に顔を向けなおすと一時浮きたった感情を抑えて三村は訊いた。

「欠員っていうんは、故障者ですか」

 もう五月後半だ。こんなタイミングで急に欠員がでたとなればまず間違いなく怪我だろう。アンダーカテゴリ代表に呼ばれるレベルのウイングスパイカーでリーグ中に怪我をした者がいたか考えたが、思いあたる範囲にはいなかった。関東ではないのかもしれないが。直前の怪我でメンバー落ちした者の落胆は想像に難くない。誰だろう……知ってる奴だろうか。

「まあ誰か知らなくてもいいっしょ。そいつのケアはそいつのまわりが当然やってる。こっちが気にする必要はないよ」

 三村の思考を読み取ったかのように染谷が軽い口調でフォローを入れてきた。

 そして、

「おめでと、統。どん底からよくここまで来たな」

 と両眼を三日月形に細めて口角を引きあげ、優しい猫みたいに笑った。

 星名も柔らかい表情で頷いた。

「リーグ後半の出場が明確に評価されたんだ。素直によろこぼう。大事な時期に我慢してケアしてきた甲斐があった。あと戻りしないようにこれからも大事にしていこう――ただ慎重になりすぎることもない。思い切り楽しめばいい」

「星名さんも現役のときでかい怪我を経験してるもんね」

 という染谷の話は三村には初耳だった。「ほやったんですか。知りませんでした。学生時代ですか?」

「ああ。もう二十五年くらいも前か……。恩師が怪我や不調の選手も長い目で見てくれる人で、おかげで時間はかかったけどコートに戻れて、大学もバレーで進めたんだ。熱血指導が当たり前だった時代だけど、そんな中では当時から変わり者の先生だったな。人生でやりなおしがきかないものはそうそうないってよく言ってたよ」

「高校の監督ですか」

 星名の出身高校は関東の私立だったはずだが、全国大会常連のような名の知れた学校ではなかったので校名までは三村の記憶にない。

 おそらく星名が指導者になるにあたって影響を受けた人物なのだろう。恩師を語る星名の表情と、今の星名の指導スタンスから容易にそう想像された。

「ただおれの場合は大事に、大事に、って臆病になってるうちに結局そのまま現役を引退することになってね。人生でやりなおしがきかないものは、あったよ。おれにとってはね」

 当時の自分に思いを馳せるようにひととき目を細めて語った星名が、監督の顔に戻ってこちらに微笑みかけた。

「じゃあ参加の返事しておくよ。行っておいで」

「はいっ――行ってきます!」



 たいして遊びにでかけてはいないが東京暮らしも三年目に入り、大学と寮の周辺の暮らしは福井で育った丸十七年と遜色ないほど馴染み深いものになった。ただ福井県人寮なんていう環境にいるおかげでいまだ福井弁が抜けていない。寮住まいではない高杉なんかは地元の友人以外が同じ場にいると恰好つけて標準語で喋りだすのだが。

 一年の秋まで部屋の隅にあったつや消しのアルミ製の松葉杖は今はもうない。深夜に衝動的に手放したくなり、母にメールしようとして踏みとどまったことがあったが、後日あらためて(ちゃんと日中に、さりげなく)母に処分方法を尋ねたらここに送るようにという指令が来た。NPO法人の寄付先のようだった。寄付という手段があったことを初めて知り、言われたとおりに送った。

 リュックを床に放りだすとスマホを手にしてベッドに腰かけた。最初に報告したい相手の顔が浮かんでいた。グループメッセージを開きかけてちょっと思いなおす。直接反応を知りたいような気がして電話をかけることにした。

 呼びだし音が比較的長く続いた。なにかやっていて手が離せないのかもしれない。

「ま、あとでかけなおすか」

 肩透かしを食った心地だったが一度切ろうとしたちょうどそのとき、耳から離したスマホの中で呼びだし音が途切れた。

『なんかあったんか!? 統っ』

 なにやら鬼気迫った相手の第一声がスマホから飛びだしてきた。

 灰島にパスが入る瞬間のスパイカー陣の攻撃態勢をできるだけ限定することが欅舎戦の第一の狙いになる。その肝となるのがサーブだ。無為無策に打っていいサーブは一本もない。

 八重洲やえす戦を終えた慧明けいめいは大学に引きあげて幹部ミーティングを開いていた。主将、主務、学生コーチ、チーフアナリスト。それに主将の七見ななみの下に四年と三年から一人ずつ置かれている副将をあわせた六名が部室にパイプ椅子を車座に並べて膝を突きあわせている。弓掛ゆみかけは三年副将として幹部ミーティングに加わっていた。

誠次郎せいじろうははよエンジンかけてもらいたいけん第一セットから入れたか。おれと誠次郎の対角を軸にサーブで叩いて、要所でななさんをピンサに投入」

 リリーフサーバーの役どころでベンチ入りする七見が弓掛の発言に頷き、

豊多可ゆたか亜嵐あらん――景星けいせい組が一緒だと誠次郎がまわしやすいだろう。欅もリーグ終盤固めてる三年以下でたぶん変えずに来る。ということで、あまさん、今日のラストと同じメンバーで行きたいと思いますが」

 七見が監督用デスクを振り返って了解を求めた。

「うん。それでいいんじゃないですか」

 天安あまやすはミーティングに加わらず壁際のデスクでノートパソコンに向かっていたが話も耳に入れていたようだ。さらっと快諾した。

「天さん、なんしようと?」

 その背に弓掛は問いを投げた。肉づきのいい丸いフォルムの肩越しにノートパソコンの角が見えるが、なにが表示されているのかははっきりわからない。

「クラファンのページ作りですよね?」

 と天安に確認する形で七見が答えるのを聞き弓掛は目をぱちくりさせた。

「クラファン?」

 クラウドファンディング。詳しくはないが、ネット上で支援者を募り、目的を提示して資金を集める活動のことだと認識している。

「なんかの資金を集めようと?」

「調整が難航して想定より時間がかかっちゃったけど――」

 ガス圧昇降式のオフィスチェアが軋み、天安が作業していたノートパソコンを手に部員たちに向きなおった。

「後援会に出資してもらえる額が固まったのと、受け入れ先のチームとの調整の目処が立ったのとで、クラファンの目標額が算出できたので」

「天さんだいぶ長く下準備してたけど、やっと表立って本格始動ですねえ」

 七見が感慨深げに言ったが弓掛はなにも知らされていなかった。パイプ椅子の背もたれ越しにめいっぱい身をひねって天安がこちらに見せた画面を覗き込む。

 制作途中のウェブページのようだった――フォントサイズを大きくしたタイトル行が目に映った。

【バレーボール海外派遣プロジェクト

 ~日本バレーの未来を担う大学生バレーボーラーの挑戦に支援を~】

 バレーボール……海外派遣……。

 その文章に吸い込まれるように弓掛はさらに身を乗りだした。背もたれに体重をかけた拍子にぐらっと傾き「篤志あつし!」「危ね!」まわりで声があがった。反射的に飛びおりるのと同時にパイプ椅子が勢いよく閉じて床に倒れた。

 けたたましい金属音が部室中に響く中、弓掛は天安の膝の上にあるパソコンだけを凝視して膝立ちでにじり寄り、間近で画面に食い入った。

「篤志」

 頭の上から呼ばれた。ひざまずいたまま顔をあげると画面の上で天安がこちらを見下ろしている。

「欧州のクラブチームと最終的な話をまとめてる段階だ。このプロジェクトの派遣第一号として、弓掛篤志を欧州に送りたいと、ぼくは考えている。資金は部で作った後援会の出資とクラウドファンディングで全額まかなう。行き先は、ポーランド」

「ポーランドって、まさかプラスリーガですか!? 天さんすげぇ……!」

 ある程度の話は知らされていたらしい四年生たちも国名を聞くとさすがにどよめいた。

 ポーランドといえばバレーボール大国。世界でも屈指のレベルのバレーボールリーグを持つ国だ。一部リーグの各チームには近隣の欧州各国の有名選手、それにアメリカなどのプロリーグを持たない国からも代表級の選手が所属している。

 あのポーランドで、プレーできる……? おれが……。

 しかし弓掛は一時ぽかんとしていた顔を引き締めた。

「天さん」

 と声を低くする。

「海外じゃセッターだって一九〇あるんがザラやろ。そんなところが本当におれを受け入れてくれると? リベロとしてやなかとやろ?」

 海外、とりわけ世界最高峰とされる欧州各国のリーグに挑戦する日本人選手はたしかに増えている。とはいえ一九〇センチですら「小さい」と言われるのが基準の世界で、一七〇センチ台となれば全員リベロかセッターだ。

「もちろんスパイカーで受け入れてもらうことを条件にチームを探してた」

「将来も継続的に部員を送り込みたいんが天さんの計画なんよね? 一七五のスパイカーを第一号に送り込むのは冒険やない?」

 客観的な事実を自らたたみかける弓掛に、いったんは興奮にわいた七見たちも押し黙った。

 第一号の人選がプロジェクトの将来を左右する。弓掛がまったく通用しない可能性も、下手をすれば使ってもらえることもなく帰される可能性だってある。客観的に見れば誰もが無謀だと思うだろう。天安がかなり無茶な交渉をしてねじ込んだことは想像に難くない。

 天安が福岡まで来て箕宿みぼし高校を訪れたのは弓掛が高校二年の春休みという早い時期だった。スポーツ推薦をもらっても経済的な問題で私立大学に進学することは難しかった弓掛に、大幅な免除がある特待生として獲れるようにすると天安は持ちかけてくれたが、弓掛は決して大学側の希望条件を満たす素材ではなかったはずだ。

「そうだね。ぼくにとっても冒険だ。でも、一緒に挑戦してみないか?」

 ふっくらした顔の中のつぶらな瞳には、慧明うちに来ないかと熱心に口説きに来たあのときと同じ、情熱の光が宿っていた。



 慧明大学のキャンパスに隣接する学生寮の一つ「かわせみ寮」。川蝉は宝石のような美しい羽毛の色から「翡翠」とも書かれるため慧明のカレッジカラーにちなんで寮名がつけられたようだ。

 男女が入寮しているのが特色だが、食堂などの共有空間を除いた居住フロアは男女で明確に分かれており、異性のフロアへの立ち入りは厳格に禁止されている。その国境線である各階の階段で男子寮生と女子寮生が逢瀬おうせを交わしているのはよくある光景だった。

 帰寮した弓掛が階段に足をかけたとき頭の上から声が降ってきた。

「あっそれと、山吹やまぶきのこと気になるって言ってる友だちいるんだけど」

「へー。何学部?」

「商学部の子。今度紹介していい?」

 耳にした名前に反応して弓掛が顔をあげると、プリントTシャツとスウェットパンツに着替えた山吹の姿が踊り場に見えた。プリントの図柄に見覚えがあると思ったら去年の全日本インカレの記念Tシャツだ。会話の相手の声は踊り場を折れたところから聞こえている。

「別にいいけど、おれオフ少ないから飲み会とかあまり行けねーよ」

「じゃあ般教ぱんきょうの大教室で一緒になったとき連れてく」

「ああ」

 とくだん気のなさそうな態度で山吹が答え、階上へ駆けあがっていく相手を見送った。と、足音が遠ざかるなりスウェットのポケットに突っ込んでいた両手をだしてぐっと拳を作り、

「っしゃ。一日で二人。なんか今日のおれキテんじゃね?」

「なにが二人なん?」

 独り言をわりとでかい声で言った山吹に階下から声をかけると「うおっ!?」と肩を跳ねあげて山吹が振り向いた。弓掛の姿を認めてすまし顔を取り繕い、

「こっちの話です。ていうか篤志さんに伝言です。女子フロアから騒音の苦情でてるから寮長から注意して欲しいって。上が303だそうです。四年の部屋なんで直接は言えないそうで」

「303ね。おれから言っとく」

「幹部ミーティング帰りですか? お疲れです」

「いいことあったとこみたいやけど、もう一コ朗報。誠次郎、豊多可、亜嵐。明日の欅戦スタメンやけん」

「……!」

 途端、すました仮面が剥がれて純粋に顔が輝いた。

「本当ですか!」

「景星三人組で直澄なおずみをある程度抑えられたけんね」

「同じように灰島公誓きみちかも抑えるのを期待されてるってことですよね。元チームメイトとして」

 武者震いが駆けのぼってきたように山吹がぶるっと身を震わせた。

「一年組にももう言っていいですか」

「うん。準備させとって」

「はい。じゃあ失礼します」

 軽快にきびすを返した山吹の後ろ姿が踊り場を一八〇度折れて視界から消えた。それを見送って弓掛もあらためて階段を上りだしたとき、頭上の手すり越しにひょこっと頭が覗いた。

「篤志さんもなんかいいことあったんですか」

「なんでわかるとや?」

「スパイカーの表情を見るのはセッターの仕事のうちです」

 得意げな笑みを浮かべた山吹に、弓掛も笑みを返した。「うん。あったとよ」



 “今電話してよか?”

 まだ明日のリーグ最終戦が残っている。大会期間中に連絡を取りあうことは普段はないがメールでそう訊くと、

 “いいよー”

 と柔らかな声が聞こえてきそうな返信があった。

 昔は「こっちからかけるよ」といつも浅野からかけてきた。浅野はスマートにそういうことをする奴なのでなにも言わなかったが、その頃は通話料の負担を気にしてくれていたのだろう。今ならかけ放題やネット電話も充実しているので高校時代までのそんなやりとりはなくなった。

 スマホを手にベランダにでた。都心から電車で小一時間、東京都西郊に所在する慧明大学のキャンパスは鬱蒼とした松林に囲まれている。「東京の夜空」と聞いて一般にイメージされるであろう空の色からはかけ離れた、たっぷりと闇を抱いた夜空が頭上に広がっている。日中は快晴だった五月の夜空にはブルーグレーの雲の陰影がいくらか浮かんでいるが、おおかた晴れて星が見えていた。箕宿高校の守護星だった射手座は夏の星座だ。この時間帯に見るにはまだ季節が早い。

 呼びだし音を鳴らしはじめたスマホを耳にあてるとすぐに繋がった。

「なんしようと? 今大丈夫なん?」

『なんかまわってきたネコ動画見てた。九時から食堂でミーティングだけど、今は大丈夫だよ』

「部屋におると?」

『うん。ベランダでてきたとこ』

「おれも。一緒やね」

 電話の向こうでくすっという小さな笑いが聞こえた。

「なん?」

『声聞いて安心した。悪い知らせじゃなさそうで。篤志がリーグ中に電話しようなんて珍しいから、なにかあったのかと思った』

 明日の試合が全部終わってからでも話すタイミングはあるだろう。閉会式後には属する大学に関係なく知己の者で会話に花を咲かせて写真撮影をしたりするのが常だ。一日くらい待っても違いはなかった。

 けれど最初に報告したい相手の顔が浮かんだら、なんだかうずうずして待てなくなって。

 現時点で決まっていることを浅野に話した。

『天安監督が……? 欧州派遣をクラファンで……』

 ちょっと放心した声で浅野が呟いたきり、続く言葉が聞こえなくなった。茨城と東京西郊を繋ぐ夜空を沈黙の電波が十秒間ばかり漂った。

「なん? 直澄」

『ん。ああ』

 天安が福岡まで来たことを浅野に報告したのも電話だったが、思い起こせばあのときはぱあっと正円の波紋が水面を広がるような気持ちのいい反応がすぐに返ってきた。

 あの日と違って今日は弓掛の言葉が水面で受けとめられず、とぽんと虚しく沈んだような気がした。

「おめでとうって言ってくれんと? なんか引っかかることあるとや? ……おれじゃポーランドで通用せんって、思っとっちゃないと?」

『篤志は世界で戦えるって、おれは一度も疑ったことない』

 言葉を濁した浅野がその問いには即答したので弓掛のほうが一瞬反応に詰まった。

『ただ、あっちのチームがそれを証明するチャンスを他の選手と同じくらい作ってくれるかどうかを信用する根拠がない。国内以上に海外は小型選手に厳しいよ。だから手放しでおめでとうとは言えない。今だって国内での扱いにおれは腹を立ててる。今以上に理不尽な扱いを受けるかもしれない環境に自分から晒されにいく理由があるのかって』

「冷や飯食わされるだけかもしれんよ。でもそんなん行ってみんとわからんやろ。もしチャンスもらえんのやったら余計に、行動せんと扱いは変わらんままやん。国内以上に厳しいことくらいわかっとう」

『わかってるよ、おれだって。篤志が全部わかってて怯まないってことも。おれがなに言ったって意志は曲げないことも。だから説得してるわけじゃなくて……うーん』

 と浅野が電話の向こうで苦りきったように唸った。

『ごめん。いきなり否定したらそりゃカチンとくるよな。ちょっと頭冷やすよ』

 思わず語気を強めて反発してしまったことを弓掛も反省した。身体の中で膨らんでいた期待感に冷や水を浴びせられた気がして、強情になってしまった。

 こうやって弓掛が我を押し通して浅野が説得を諦めることがつい先週にもあったばかりなのに。

「おれもごめん……」

『電話じゃないほうがいい。明日も会える。明日話そう、篤志』

 気落ちして謝った弓掛に、またテンションが上向いた声で浅野がそう言った。

 いつもそうだ。気まずくなっても浅野からは決してコミュニケーションを放棄しないから何度も救われている。

「うん。明日。おやすみ。あ、これからミーティングか」

『うん。じゃあ明日』

「ネコの動画のリンクおれにも送ってくれん?」

『あはは。すぐ送っとくよ』

著者プロフィール

壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】

沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。

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