目次
- プロローグ スイングバイ
- 第一話 砂漠を進む英雄
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第二話
鋼 と宝石 -
Intermission
清陰の、あれから - 第三話 王者はいない
- エピローグ スタンド・バイ・ミー
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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Intermission 清陰の、あれから
3. UNSCHEDULED FUTURE
二年前の十一月末。福井県営体育館には前年に続き二年連続で同じ二校の横断幕が掲げられた。
『
一校のそれは、長年にわたりこの代表決定戦に必ず陣をかまえてきた伝統校の矜持が染み込んだ深紅の横断幕。
『
対するもう一校の、巨龍が筋骨逞しい長躯をくねらせるかのような極太の達筆でしたためられた横断幕は、たった一年前に黒羽の祖父から寄贈されたものだった。
伝統の長さの異なる二校の横断幕が最前列に張られたスタンド席で、深紅と青、両校のチームカラーで彩って選手に力を送ってきた応援団から惜しみのない拍手が降り注ぐ。拍手の雨を浴びながら主将どうしが相手をたたえて握手を交わした。
「……っした!」
と挨拶した棺野に対し、ネットを挟んだ相手からの挨拶は聞こえなかった。棺野は目をあげて網目の向こうに佇む相手の顔を見た。
戸倉工兵がしかめ面でふんぞり返ってこちらを睨みつけていた。口を開きかけるのは見えたが、ぷるぷると細かく震えた唇をすぐにまたきつく一文字に引き結んだ。不自然に力を入れた目のまわりにたちまち赤味が差していった。
どちらが試合の勝者で、どちらが敗者かわからないような握手だった。しかし一方は必ず勝者で、一方は敗者だ。バレーボールの試合は必ず勝敗がつく。引き分けで終わることはない。
ネット下で交わした握手が離れるなり戸倉がぷいっと背を向けた。その途端だった。
「うらあッ!!」
と突然戸倉が吠えた。掴んでいたプラカードを虚空に振りあげ、
「今年はオレンジコートに持ってくぞッ!!」
プラカードに書かれた『
「
仁王立ちして天井を仰いだまま遠吠えのような嗚咽を絞りだす戸倉を同期の掛川や矢野目が囲んだ。チームメイトに肩を抱かれてねぎらわれると、戸倉が俯いて声をあげてむせび泣きだした。
ひとときだけその様子を見守ってから棺野はネットに背を向けた。清陰側のコートに向きなおると内村や外尾が黙って待っていた。
二年生エースとして奮闘した黒羽が肩を落として泣くのをこらえていたので三年が泣くことはできなかった。感情を押しとどめ、棺野はあえて微笑んで「お疲れさん。ありがとう」とベンチメンバー一人一人の肩を叩いてまわった。
三年主将として出場した春高バレー県予選の福井県代表決定戦が、清陰高校での棺野の最後の公式戦になった。
前年の同大会と同じ対戦カードだったが、勝者と敗者は逆になった。福蜂工業が清陰にリベンジを果たし、春高への切符を一年ぶりに奪還した。
客観的にチームの総合力を比べて、夏のインターハイ県予選でも負けた清陰のほうが下馬評では分が悪かった。さらに戸倉工兵が三村統のあとを引き継いだ福蜂の春高代表権奪還に懸ける気迫は凄絶といえるほどだった。もちろん清陰も気迫はこもっていたし、勝つ気十分で全力を尽くして代表戦に臨んだ。ただそれはそれとして、負けた場合のことは絶対に考えないというのも危機管理意識に欠ける。
――もし負けても、絶対に互いに後悔は口にしない。
棺野はあらかじめ三年の中でそう話しておいた。内村も外尾も大隈も意図を汲んでくれた――間違いなく責任を感じるであろう黒羽に罪悪感を背負い込ませないために。
二年生のときに踏んだ東京体育館のオレンジコートを、棺野の代は二度踏むことは叶わないまま、三年間を捧げた高校バレーを終えることになった。
青木はバレーを本気でやるのは高校の部活までとだいぶ早くから考えていたようだが、棺野も同じだった。紫外線に長時間あたることができない自分の体質では本格的に競技を続けるには制約が多い。ただ中学高校と六年間、屋外練習の日は体育館で女子バレー部の練習に参加できるという学校側の配慮もあって部活をやり遂げることができ、幼い頃より格段に身体は丈夫になった。健康維持や娯楽の一環で長く楽しむ生涯スポーツとしてなら十分続けられる。
代表戦の前に家族で食卓を囲んだ晩には母親が「六年間続けてこられてよかったのぉ。学校の皆さんが理解して助けてくださったおかげやのぉ」と、はやくも卒業式を迎えたみたいに感極まって目を拭っていた。
やっぱり大学四年間、全日本インカレを目指すようなレベルのチームでバレーをもっとやりたいと、翌日の代表戦から帰宅した晩に突然棺野が意をひっくり返して母親を驚かせた。
どうしたんやの
*
四月初旬に開幕した関東一部男子春季リーグが最終戦を迎えた、五月二十一日日曜日。横浜体育大学
スタンドに上ってきた各大学の部員の注目はBコートに集まっている。今日のメーンイベントと言えるのはリーグ総合優勝の行方が決まる第三試合のA、B二つの試合だ。しかし優勝争いに勝るとも劣らぬもう一つの熾烈な戦いが第一試合Bコートで繰り広げられていた。
秋葉大対大智大。勝者が総合十位、敗者が総合十一位に確定する対戦カードである。下位の大学にとっては一部残留のボーダーラインである十位の死守が命題になる。
下位争いとはいえど、九部まである関東学連男子のトップリーグにして全国の大学の最高峰リーグである関東一部の中では下位というだけだ。二部以下や他地域のリーグから見れば秋葉大も大智大も強豪大学に変わりはない。
「二枚替えで入れるぞ! 準備して!」
学生コーチの声が秋葉大のウォームアップエリアにかかった。
「はいっ」
ともに二年生の棺野と中沢が心得て返事をした。控えオポジットと控えセッターの二年生コンビだ。
上下着込んでいたジャージを脱ぐと他のリザーブメンバーが素早く預かってくれる。セッターが前衛レフトにあがる「S4」のローテになるときに二枚替えを行うのがベンチの作戦だ。その際に棺野がセッターとかわって前衛レフトに、中沢がオポジットとかわって後衛ライトに入る。セッターが前衛となるウィーク(弱点)ローテに入るタイミングで、二枚替えによりひと跳びにセッターを後衛に送り、オポジットを前衛にだすのである。
交代のタイミングが来るまでアップエリアにとどまりつつ、両の二の腕から手首までを覆うアームカバーの上下を引っ張ってフィットさせる。両膝に手を置いて何度か屈伸をする。膝サポーターの下から足首までを覆ったレッグカバーのフィット感も整えて気合いを入れる。四肢の素肌が
身体を起こしてすくと立ち、「っし」と小さく気を吐いた。いつでも行ける。
秋葉大がサーブ権を取ってローテをまわすタイミングで、リザーブの上級生に背中を押されて棺野と中沢がアップエリアを飛びだした。
フロアの向こう側に見える大智大のアップエリアに棺野はちらりと目をやった。大智大のリザーブに入っている大隈がこちらの交代の動きに気づき、「あっ」という顔をした。
ベンチの前で学生コーチに手短に指示を受け、副審に自ら交代を申請する。副審が交代のホイッスルを吹いた。
秋葉大が二枚替えで二年生コンビのセッターとオポジットを投入した。
スタメンのオポジットは高さと強打で打ち抜くパワーヒッターだ。強打力では棺野は及ばない。しかし試合が進んで相手のブロッカーが秋葉大の攻撃に慣れ、ブロックに捕まりだした状況になったときに棺野と中沢が入り、攻撃のリズムを変える役目を担う。今リーグではこのベンチワークがしばしば功を奏していた。
セッターの交代でトスワークが変化したことで大智大のブロッカーの反応が鈍った。遅れてついてきたブロックの端を落ち着いて狙い打ちにし、ボールをはじき飛ばしてブロックアウトを取った。
期待されている役目をきっちりこなし、秋葉大に流れが向きはじめた。
逆に風向きが悪くなった大智大のアップエリアから大隈が猛アピールしはじめた。味方の誰よりもでかい声でコートのメンバーに活を入れながらオーバーな身振りでその場でブロックジャンプを繰り返し、ベンチに向かって存在感を示す。
念願叶って交代に呼ばれ、「うおっしゃあああ!」と拳を突きあげてアップエリアを飛びだした。
コートインした大隈が雄叫びとともにコート中をぐるぐると駆けまわって味方を盛りあげる。大智大がサーブ権を取ったところでワンポイントブロッカーとして投入された大隈が前衛センターに入ることになる。
ワンポイントブロッカーがブロックポイントを取ればなんといっても味方を勢いづける。サーブ権を失ったらすぐ交代するのがワンポイントブロッカーと呼ばれるゆえんだが、サーブ権が継続するあいだはワンポイントブロッカーも継続される。自らのブロックポイントで出場時間を引き伸ばせれば、これほどのカタルシスはないのがワンポイントブロッカーでもある。
「ふんっ、ふんっ」
と大隈が鼻息荒く前衛のど真ん中でハンズアップの構えを取った。
大智大サーブなので秋葉大がレセプション・アタック側。大智大がブロック側のターンだ。
……熱くなりすぎや。ほんなんやと空まわりするぞ。
大隈の前のめりな気合いに棺野はひっそりと溜め息をついた。
“クイックにつられてぴょんぴょん跳ばんと我慢やぞ。トスあがるまで床につま先つけとく意識で。集中してトスを見て……”
高校時代に初心者で入ってきた大隈に口を酸っぱくしてアドバイスしていた自分の台詞が知らず知らず胸の内に浮かんでいる。
“リードブロックの『リード』はトスあがる前に『勘で読む』って意味とは違うんやでな”
“わーってるわーってる。もう耳タコやって”
“なんべん言ってもおまえゲスッてまうでやろ……。いいか、シー&レスポンスっちゅうんは”
“それも耳タコやっちゅうの。ほんくらいの英語はわかるっちゅうの。シー&レスポンス。見てから、反応、やろ。あーあ、なんかミドルブロッカーって我慢が多いポジションやなあ”
大隈はよくぼやいたものだった。
ウイングスパイカーやオポジットが花形ポジションとされるのに比べると、たしかにミドルブロッカーは人知れぬ我慢がもっとも多いポジションだ。あの厳しい青木が、実際厳しくはあったが、大隈が嫌になって投げださないように気遣いながら根気よく指導していた姿も憶えている。
そんなミドルブロッカーの地道な仕事を実感したうえで、高二ではじめてからもう三年、そのポジションで続けてきたんだもんな、大隈も……。
秋葉大コートで中沢にレセプション(サーブレシーブ)が返った。スパイカー陣が助走に入る。後衛にまわっている棺野はバックライトからの攻撃だ。中沢がクイッカーをBクイックに入れて大智大のブロッカーを揺さぶりにかかる。Aクイックは短いトスをど真ん中から打つクイックだが、Bクイックはレフト側にクイッカーが動いて打つ。
大隈の目線がクイッカーの動きを追い、足がぐっとそちら側に踏み込んだ。
その隙をついて中沢がバックセットでライトに振った。「バックライッ!」大智大側であがった声を耳で捉えながら棺野はトスを見あげて踏み切り体勢に入っている。目の前を阻むのはサイドブロッカー一枚になり、クロスでその脇を狙う。
が、そのとき、クロス側から大隈の手がネット上に現れた。
Bクイックに一瞬つられた大隈がぎりぎりで我慢し、トスを見てついてきていた。
寄りすぎや……!
サイドブロッカーと詰めすぎて逆にインナー側があいた。一瞬驚かされたが棺野は冷静にインナースパイクで大隈の右脇を抜く――が、抜いたと思った大隈が右手一本をネットの上に残していた。「!」大隈のガッツに棺野は目を剥く。
けど、いいミドルになったなと、つい嬉しさもこみあげた。
「灰島がいればなあ……」
ぽろっとそう呟いたのは内村だった。
アリーナからチーム控え室へ引きあげる途中のことだった。俯いて廊下を歩いていた黒羽がはっとして顔を跳ねあげた。
灰島が今年もチームにいれば、もしかしたら結果は違ったかもしれない。しかしそれは口にすべきではないとみんな理解していたはずだ。他の部員の非難を含んだ視線が内村に集まった。「おい……」と棺野がつい険しい口調で呼ぶと内村もすぐにしまったという顔になり、
「あっ、すま」
ん、と言いかけたときだった。
「ほやほや! 灰島がいればなあ!」
大隈が唐突にがなり声をかぶせた。「おい大隈っ……」内村本人が大隈を咎めようとしたが、
「灰島がいればなあ!」
と、その内村の横から外尾が大隈に同調して声を高くしたので内村がぎょっとして外尾を振り向いた。ところが結局、内村も二人と声を揃えて「灰島がいればなあ!」とまた口にした。
「灰島がいればなーっ!」
目をみはって固まっている黒羽と、絶句する棺野の前で大隈、外尾、内村が堰を切ったようにがなりたてた。後方に遠ざかったアリーナで続いている福蜂の勝者インタビューの声や、スタンドから都度送られる拍手がくぐもって届いている廊下のけだるい静けさに無粋ながなり声が響いた。
「灰島のせいやぞほんとっ。春高にいっぺんしか行けんかったんが悔しい、なんて気持ち味わうことになったんは。普通はいっぺんも行けんわ。オレンジコート一度踏んだだけじゃ満足できんなんて、灰島のせいでわがままな身体にされてもたわ!」
「って、その言い方はなんか
と外尾が急にしらっと半眼になって大隈に突っ込むと、みんな涙目で笑った。黒羽も頬の強張りをほどいて笑うしかないような顔になった。
両の拳を天井に突きあげて大隈が喚いた。
「くそーっ、ここで終わるわけにいかんくなってもたぞ!」
バレー部に入ってたった半年で全国大会に行き、翌年は二度目の全国大会を逃して悔恨に暮れるなどという経験をし、一番短期間で一番レベルアップしたのが大隈だった。これが人間の身体だったら成長痛が起こってるようなレベルだろう。
そして、高校だけでは終われなくなって、関東の強豪大学に入ることを志すなんて、入部したときには本人も想像もしていなかったはずだ。
「うおおっ」
執念でネットの上に残した大隈の右手がばちんっとボールを高く跳ねあげた。「うらあっ」大隈が意気揚々とした声をあげ「むっ」と棺野は歯噛みする。
「ブロックアウト!」
「いやあがってる!」
秋葉大・大智大双方から複数の声があがった。ネット際で着地した二人もすぐさまボールの行方を目で追う。ネットに沿って頭上を仰ぐと照明のまばゆさに目を焼かれた。まだボールは両チームの領空の境界線上で生きている。
おれもそうや――。
今、こんな形で大学でもバレーを続けているなんて、棺野も最初はまったくイメージしていなかった。
おれも灰島に“わがままな身体”にされてもたな……おれも、あそこじゃ終われんくなってもたわ……!
ネットを挟んで競いあってボールに向かって踏み切った二人の視線の先で、黄色と青の色鮮やかなボールが白光の中に消えた。
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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