第15話 車は恋人
八月八日の木曜日。朝っぱらから茹だるような暑さとじめじめ立ち込める湿気、そしてサイン待ちのデータを前にうんざりした久留米宗一郎はため息混じりに喫煙所に入り、煙草を咥えた。
午前九時半。喫煙所には久留米を除き、一匹しかいない。
「よう、よいのか、支局長がこんなところで油を売って」
「裡辺を守った神様がそれをいいますかね、柊様」
ベンチに座っていたのは尻尾を小ぶりなサイズに縮めた九尾・稲尾柊。彼女が今日会議に出席することは知っていたので特段驚かないが、鼻が利く狐妖怪のくせに、長年の経験からかすっかり愛煙家になっていることの方に驚き——というか、呆れてしまう。
オイルライターで火をつけて紫煙を肺の奥まで吸い込んで、太い鼻の穴から吐き出す。
「先日燈真を襲った呪術師ですが、彼はメッセンジャーだそうです」
「誰から文を預かったんだ?」
「知らされていないそうです。サーバーの尻尾切りのように幾重にも仲介を経たんでしょう。幻術や催眠術で吐かせようにも芳しくありません」
空調の効いた部屋に、柊の唸りのような声が満ちる。
「妾の家に仇なす者。できることならこの手で八つ裂きにしてやりたいが……それでは子供らが成長せん」
「やつはこの裡辺にサイバーテロが起こると言っておりました。獅子身中の虫がいるとも」
「………………」
「何か、心当たりが」
「いや。続けてくれ」
「裡辺ははじまりに過ぎない、地球の全部から電気ガス水道、あらゆるインフラを奪い去り、破壊すると」
「まるでオオクニのようなことをいいよる」
喫煙所に一つ目の秘書がやってきた。久留米の秘書官だ。
「支局長、こんなところにいたんですか。締切間際なんですよ! 早くきてください!」
「締切間際だからこそ、絶世の美女と煙草を——」
「ふざけていないで来るったら来るんです!」
鬼のような形相で捲し立てる秘書官に、久留米はたじたじだ。諦めて煙草をもみ消して灰皿に落とすと、柊に軽く挨拶をして出ていった。
「あ、柊様、一つ」
「どうした」
「あの呪術師、スピアとやらを探していました。それがなんなのかを吐く前に、歯に仕込んだ青酸カリで自害してしまいましたが」
「スピア? ……そうか、わかった。薄々察することはできるが……まさかな」
×
「どうしたの、エメル」
稲尾家屋敷のガレージ。伊予が所持するファミリーカーの前で棒立ちしていたエメルに声をかけた万里恵は、右手によく冷えたミルクティーの缶が握られている。
左手に持っていたコーヒーミルクをエメルに渡しながら問う。
「車がそんなに珍しい?」
「いえ。やはり日本車の造形は素晴らしいな、と」
「そお? 普通でしょ」
「そんなことありません! 世界でどこよりも早く完成させた安心安全設計のフル電動車でありながらバッテリー持続時間と馬力を両立し、連続走行距離も最高峰の水準! それでいてデザイン性も洗練され車内の空間も広々と確保され、カーナビやオーディオまで素晴らしい仕上がりで——」
「あ、ああ、うん。車、好きなんだ」
万里恵は若干引いている。それでいてエメルはトドメとばかりにこう言った。
「やはり結婚するなら日本車ですよ!」
「あー、
「結婚相手ですよね? それは日本車のことですよ?」
「車と結婚?? 対物性愛ってやつ?」
「というより、私は元々は機械ですから、むしろ健全な恋愛かと」
まあ、確かにそうかもしれない。
万里恵は変わった子だなあと思いながら缶のプルを引いた。
「それより、暑くない? 今日下手したら三十八度行くって」
「熱がこもってしまいますね。すみません、お屋敷に戻ります」
万里恵とエメルは屋敷に戻り、賑やかな騒ぎ声に耳を傾ける。
「菘ぁ! お姉ちゃんの本返しなさい!」
「わっちもファッションマスターになるのー!」
「いたっ、僕の足踏むなよ!」
「ええいちっとは静かに過ごさんか!」
稲尾の血筋は騒がしい。それは代々稲尾家に仕える霧島家の常識である。
ただ、慣れてしまえばあの騒がしさが心地よいものになるのだ。
「うるさいでしょ、あいつら」
「元気で何よりですよ。お仕え甲斐があるというものです」
居間に入ると、燈真が参考書を広げていた。宿題の時間を終え、朝の修行も済ませている。昼までの一時間まで勉強に充てるなんて随分真面目だ。
「燈真様、こちらの本は?」
「ん……軍隊格闘術を応用した護身術の解説書。国防軍の陸軍幕僚が出した本だよ。前みたいなことがあった時のために」
「燈真の喧嘩殺法ってどっか技術的だと思ったら、ひょっとして昔からそういうの読んでんの?」
椿姫の問いに、燈真は本に栞を挟んで頷く。
「ああ。今と昔とじゃ勉強する意味が全然違ってるけど、強くなるために動画とか見てるってのは同じだな」
「燈真の格闘技って、総合格闘技って分類になるのかな?」
竜胆が言う通りなので燈真は頷く。
「そうだな。今は稲尾流になるけど」
「こぶじゅつだよね、ひいらぎのぶじゅつって」
「妾が編み出したものだが、まあ千五百年近く洗練しておるし充分そうだろう。あらゆる武具、戦闘技能、椿姫なんかは書道、花道、茶道も少し齧っておる」
古くより武将と呼ばれる戦士たちは、芸術に造詣が深かった。特に戦国時代のわび茶は有名である。元より茶は薬ともされており、そこから茶の飲み比べをする闘茶なども盛んになったのだ。
礼節、作法——茶道のみならず、あらゆる道にはそれがある。侍は座り方から刀の置き方に至るまで、寸分の狂いなく美しい振る舞いを徹底していた。
なので椿姫が茶道なんかを学んでいると聞いても、不思議ではなかった。
「そうね。美味しいお茶も飲めるから、今でもたまにやってるわ」
「でも、さどうのおちゃってにがいんだよね」
「それが美味しいのよ。子供には難しいけどね」
「む……」
菘が手にしていたファッション誌を取り上げる椿姫。
「あっ」
「漢字だらけで難しいでしょ? お姉ちゃんの部屋から漫画持って来なさい」
「んー、じゃあようかいがくえんにっきもってくる」
妖怪学園日記とは少年ステップという雑誌で連載している漫画だ。妖怪が集う学園に入学した人間の少年が、日夜巻き起こる事件や珍事の解決を行う『探偵部』に入り、活動する——平成時代に多く見られた変わった部活モノラノベを現代の少年漫画でやっている作品だ。
菘が居間を出ていき、竜胆がハンカチで汗を拭う。
「氷雨さんがいたら涼しいのにな」
「あんたは涼しいから氷雨さんにいて欲しいんじゃないんでしょ」
「そっ、そんなこと……ある、けど……」
竜胆が氷雨に恋慕しているのは公然の秘密で、彼自身も隠すつもりがあまりない。ただ、氷雨の前で素直に好意を告げるほどの勇気はまだないようだ。
燈真はうちわで竜胆を扇いでやり、扇風機を独占する万里恵を半眼で見つめる。
「冷たいお茶でもいれますね」
「ありがとう、エメル」
燈真は己と竜胆を交互にあおぎ、菘が戻ってきて扇風機を奪い去り、寝転がって漫画を読む。
柊は慣れているのか炎天下でも平気で、伊予は鯉の餌やりを終えると庭に打ち水をしていた。
少しして氷の浮かんだ麦茶が
正午を少し過ぎた頃、氷雨が奏真とクラムを伴ってピザを買って戻ってくるのだった。
【旧】ゴヲスト・パレヱド 夢咲ラヰカ @RaikaRRRR89
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