遠藤さんの『チャーズ』を昔読んだことがある。長春の包囲戦は専門家の間ではそれなりに知られ、『大地の子』でも主人公の一家が長春市を脱出する経過の中に描かれていたと思う。
また長春在住の市民の間ではよく知られていることで、私の知り合いも親たちから聞いた話をしてくれたことがある。
ちなみに国民党軍の司令部は旧満州中央銀行本店-現中国人民銀行長春支店-の地下室におかれていたという。一度見学したことがあるが頑丈な施設だった。
以下では遠藤氏が改めて体験を整理して語っておられる。
「中国に言論の自由はいつ来るのか?
遠藤 誉 【プロフィール】 バックナンバー2013年1月9日(水)1/5ページ
リベラルな論調で知られる広東省の新聞「南方周末」は今年の新年特集として「中国の夢、憲政の夢」というタイトルの記事を出そうとしていた。「憲法に基づいて自由と民主を実現しよう」という内容だ。胡錦濤元総書記が2012年11月8日の第18回党大会で繰り返し主張した「政治体制改革」を習近平政権が実現するか否か、その決意のほどが試される記事であったといっていい。
ところがこの記事は中国共産党広東省委員会宣伝部によって掲載を禁止され、「こんにちの中国は民族復興の偉大な夢に最も近づいた」という中国共産党礼賛記事に置き換えられたのである。正月明けに初めてそのことを知った同紙の記者は、2013年1月3日の中国のツイッターに相当する微博(ウェイブォー、中国内で禁止された「ツイッター」に相当するサービス)で経緯を暴露。言論弾圧だという怒りをぶつけた。
すると、中国のネット空間はいきなり炎上。多くの網民(ネットユーザー、ネット市民)が「南方周末」を支持した。
1月4日にはリベラル派の長老たちが主宰する雑誌「炎黄春秋」のウェブサイトが閉鎖されたばかりだ。
1月7日、言論の自由を求めるメディア関係者は南方周末新聞社の付近に集まり、抗議集会を呼びかけた。応援は中国全土の知識人からも届いている。
前回の記事で私は昨年の11月15日に選ばれた中共中央のトップ7名である「チャイナ・セブン」の布陣が、あまりに保守的であることを述べ、「これで政治改革ができるのか」と危惧したが、こんな形で早くも現実になってしまった。
私が中国の「言論の自由」にこだわるのは、私自身が経験した革命戦争における惨事を、65年経った今も中国政府が認めようとしないからだ。
1947年晩秋、中国共産党軍(のちの中国人民解放軍)は私が住んでいた吉林省長春の街を都市ごと鉄条網で包囲して食糧封鎖し、数十万の市民を餓死に追い込んだ。私は長春を脱出するために「卡子(チャーズ)」という中間地帯に閉じ込められ、餓死体の上で野宿した。恐怖のあまり記憶喪失にまでなったこの経験を1984年に『卡子――出口なき大地』(読売出版社)として出版。中国語に翻訳し中国で出版しようとしたが、こんにちに至るも、出版許可は出ていない。
しかし中国建国の父であり革命の父でもある毛沢東は、「自由と民主」を掲げて中国人民を革命に駆り立てていったのである。それを信じて、どれだけ多くの人民が命を失っていったことだろう。
革命の犠牲者は、天安門広場にある「人民英雄紀念碑」に祀られている。これは革命戦争や日中戦争(中国側から見れば「抗日戦争」)で犠牲になった者を慰霊するために建立された記念碑だ。慰霊塔の正面には「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永遠に不滅だ)という毛沢東の揮毫(きごう)がある。その裏面には周恩来による顕彰(けんしょう)文が彫ってあり、その中の一節に「三年以来在人民解放战争和人民革命中牺牲的人民英雄們永垂不朽」(ここ3年来の人民解放戦争と人民革命の中で犠牲になった人民の英雄たちは永遠に不滅だ)という文言がある。
しかし、この犠牲者の中には「長春で中国共産党軍が餓死に追いやった数十万の一般人民」は入っていない。
なぜなら丸腰の人民の命を奪ったのが「人民の味方」であるはずの中国人民解放軍だからである。
それは1989年6月4日、天安門で民主を叫び中国人民解放軍の銃弾により命を落とした若者たち同様に、語ってはならない犠牲者なのだ。
語ることさえ犯罪なのである。
自分の肉親を殺されながら、私たちは殺された事実を語ってはならない。まるで犯罪者が自分の過去を語るように、ヒソヒソと周りに知られないように語らなければならないのである。
私はもう72歳になる。生きている間にこの史実を何としてもこの世に残し広めたいと思い、昨年末に『卡子--中国建国の残火(ざんか)』(朝日新聞出版)を出した。新政権の「チャイナ・セブン」が早々にこのような言論弾圧をするのであれば、私が生きている間にこの中国語版が中国で出版されるかどうか、はなはだ疑問だ。おそらく無理だろうと思う。
そこで、その史実の概略をここに紹介させて頂きたい。
私は1941年に中国吉林省の長春で生まれた。
1945年8月15日、日本が終戦を迎えたとき中国は「中華民国」という国号で、国民党の蒋介石によって統治されていた。しかし中国共産党による国を創ろうとしていた毛沢東は、「革命」を起こすために国民党に戦いを挑み、「国共内戦」を展開していた(国民党と共産党の間で戦われた戦いなので「国共内戦」と称する)。
日本が敗戦で苦しんでいたころ、長春にはソ連兵が侵攻してきて、私の家の向かいにはゲーペーウーという、ソ連の軍警察の拠点が設置された。ソ連軍が支配する中、共産党と敵対するはずの国民党が長春入りした。この軍隊は旧満州国の鉄石部隊と、改編した現地即製の小部隊ではあるものの、「中央軍」と呼ばれて、それなりに国民党政府による軍隊らしく構成されていた。
1946年になると、北に向って移動するソ連軍の巨大な軍用トラックが目立つようになった。長春およびその近郊にある工場の部品等、重機を根こそぎ奪って、ソ連軍は長春から引き揚げていったのである。「ロスケ」と呼ばれたこの時のソ連軍は、シベリヤ流刑囚を中心として編成されていたためか、凶暴で貪欲。市民から奪えるものは全て奪っていったと言っていい。
次に何が起きるのだろうかと、市民は息を潜めたが、その不気味な静けさを破ったのは銃声であった。毛沢東が率いる中国共産党軍が攻撃してきたのだ。当時は共産党軍のことを八路軍と呼んでいた。
市街戦が続いている間、私たちは地下室に避難していたが、銃声が少なくなってきたので、私は家の2階に上がった。
そして大好きだった夕陽を見ようと窓を開けた瞬間、私は右腕に弾を受け、気絶していた。国民党の兵隊が私の家の屋根伝いに逃げようとし、それを狙った八路軍の流れ弾に当たってしまったのである。46年4月16日のことだ。
気がついた時には、長春市は八路軍によって支配されていた。
八路軍が支配していた期間は短く、5月22日になると突如姿を消した。毛沢東の指示で瀋陽に行ったと、後に聞く。
入れ替わりに進軍してきたのが、蒋介石直系の国民党正規軍だ。最新鋭のアメリカ式装備で固めた、ビルマ歴戦の精鋭部隊である。
高圧的な軍隊だったが、しかしアメリカのマーシャル特使の指示もあって、ようやく治安が暫時保たれるようになり、日本人の大量帰国である「百万人遣送(遣送は送還、退去の意味)」が、その年の夏に始まる。しかし私の父は技術者だったので、政府に「留用」され、帰国を許されなかった。
翌47年夏にもまた、日本人の遣送があり、国民党政府にとってどうしても必要な最低限の日本人技術者を残して、他は帰国させるという方針が実行された。父はこの時もまた帰国を許されなかった。
この遣送における最後の日本人一行を送り出した10月、長春の街から突然、電気が消えた。水道もガスも出ない。
長春市が丸ごと八路軍に包囲されたのである。食糧封鎖だ。
食料を近郊に頼り、都市化していた長春は、たちまち飢えにさらされる。
最初のうちは物々交換により、いくばくかの食料を手に入れることも出来た。しかし食糧そのものが底をつき、餓死者が増え始める。特にその当時の長春の冬は零下38度を記録したこともあり、10月ともなれば零下にいきなり突入する。暖を取る薪も石炭もなく、多くの日本人が引き揚げていって荒屋となった家屋を壊して燃料とする者が多くみられた。さもなければ凍死するしかない。
私たちはできるだけ体力を消耗しないように、昼間も横になって飢えを凌いだ。
飲み水は同じ庭にあった唯一の井戸を用いた。
やがて腹違いの兄の子供が餓死し、次に兄が餓死した。
私の右腕の傷は化膿して腫れ上がり、両腕の関節が次から次へと化膿しては潰れていった。私の父は、ソ連軍の攻撃から逃れて長春に辿りついた開拓団の人たちを数多く養ってあげていたが、その中の一人のお姉さんが結核性の筋炎を患っていた。私は彼女の包帯交換などをしていたために、弾が当たった右肘の傷に結核菌が感染して、それが全身に回っていたのである。
やがて、春がやってきた。
5月になると長春の草花は一斉に芽吹く。
摘みさえすれば食料が入るのだ。
もう何カ月間も歩いたことのない体に鞭打ち、幽霊のような足取りで、表に出て雑草を摘んだ。どのような政治勢力が働いていようとも、この天地の力をも奪うことはできまい。大地に降り注ぐ陽光までを遮ることは何人(なんぴと)にもできないのだ。
アカザは茹でるとほうれん草のような匂いがした。オオバコには苦みがあり、楡の葉は粘っこく口の中を這いまわる。それでも、何カ月ぶりかで口にする野菜により、化膿した傷口から出てくる濃の量がいくらか減るのを見て、生命の循環に圧倒される。
しかし、新芽は芽吹く先から摘まれていくので、あっという間になくなってしまった。
このとき、中国共産党軍は長春に対して「久困長囲」(長く包囲して困らせる)という決定をしている。そして「長春を死城たらしめよ」という指示を出しているのである。
長春の街はまさしく死の街と化していた。
餓死体が取り除かれることもなく街路樹の根元に放置され、親に先立たれたのか、その周りで2、3歳の子供が泣き喚いている。幼子の周りをうろついている犬。犬は野生化して、餓死体だけでなく、親に先立たれた幼子を食べるようになっていた。
旧城内という、中国人だけの居住区では、人肉市場が立ったという噂が流れていた。
国民党軍は瀋陽から飛んでくる飛行機が無人落下傘で落とす食糧により肥えていた。その落下物に市民が近寄れば銃殺される。しかし飛行機自身も低空飛行をすれば八路軍に撃ち落とされるので、上空から落とすようになり、そのうち飛来してくる回数も少なくなっていた。
この状況下、国民党政府は軍の籠城を保たせるために、市民に長春から出ていってほしかったのである。そこで国民党軍は市民を一人でも多く長春から追い出す方針を採った。
長春を包囲する包囲網を「卡子(チャーズ)」と称するが、その卡子には「卡口(チャーコウ)」と呼ばれる出入り口があり、そこからなら脱出して良いということになっていた。
ところが、私たち一家は国民党政府に「留用」されていたので移動の自由がない。しかしこれ以上長春にい続ければ餓死者が続出して一家全滅となる。
そこで父は長春市長に会い、国民党政府に「留用の解除」を求めた。市長はあまりに変わり果てた父の姿を見て、すぐに「解除証書」を発行してくれた。
9月20日、私たちはいよいよ長春脱出を決行することになった。その前夜、末の弟が餓死した。
「卡口」には国民党の兵隊が立ち、一人ひとりの身分を確認しながら「ひとたびこの門をくぐったならば、二度と再び長春市内に戻ることは許されない」と言い渡していた。
戻るはずがない。餓死体が街路に転がり、人肉市場まで立ったという所には二度と戻りたくない。この門をくぐりさえすれば、「解放区」がある。「解放区」とは八路軍(中国人民解放軍)によって解放された地域のことだ。
しかし、その門は「出口」ではなかった。
真の地獄への「入口」だったのである。
鉄条網は二重に施されていた。内側が長春市内に直接接し国民党が見張っている包囲網。
外側の包囲網は解放区に接し、八路軍が見張っている。その中間に国共両軍の真空地帯があり、こここそが、まさに卡子(挟まれたゾーン)だったのである(卡子には(軍の)「関所、検問所」の意味と、「挟むもの」という二つの意味がある)。
足の踏み場もないほどに地面に横たわる餓死体。
四肢は棒のように骨だけとなっているが、腹部だけは腸(はらわた)があり、それが腐乱して風船のように膨れ上がっている。それが爆発して中から腸が流れ出している餓死体もある。そこに群がる大きな銀蠅。近くを難民が通ると「ブン!」と羽音が唸る。
外側の包囲網である鉄条網が見えた辺りから、八路軍の姿が多くなり、導かれるままに腰を下ろす。死体の少なそうな地面に、持ってきた布団を敷き、野宿。陽は既に沈んでいた。
翌朝目を覚まして驚いた。布団の下が嫌にゴロゴロすると思っていたら、ふとんの下から餓死体の足がニョッキリ出ている。
新たな難民が入ってくると、それまで死んだように横になっていた難民たちが一斉に起きあがり、ウワァーッと新入りの難民を取り囲んで食料を奪う。八路の兵隊は、それを特に止めるでもなく、黙って見ている。そしてその八路軍が守る解放区側に接する包囲網の門は、閉ざされたままだった。
私たちは、この真空地帯に閉じ込められたということになる。
ここで死ねというのか――。
赤旗の下で戦っている八路軍は、苦しむ人民の味方ではなかったのか――。
夜になると、前の夜には聞こえなかった地鳴りのようなうめき声が暗闇を震わせた。父が「ちょっと行ってくる」と立ち上がった。父にしがみつくことによって何とか恐怖に耐えていた私は、そのまましがみついて父のあとを追った。
そこには死体の山があった。うめき声はここから出ていた。
「死に切れぬ御霊(みたま)の声じゃ・・・」
父はそういうなり地面にひれ伏して、御霊を弔う神道の祈りの詞を唱え始めた。
するとどうだろう。死んだはずの死体の手が動いたのだ――。
鉄条網の向こう側の電柱についている裸電球に照らされて、青白い手が動いた――!
その瞬間、私の精神をギリギリまで支えていた糸が、プツリと切れてしまった。
死体の前で祈っている父の姿が、どんどん小さくなっていく。
うめき声は消えたが、私は正常な精神を、この瞬間失っていた。記憶を喪失してしまったのである。
四日目の朝、父に卡子出門の許可が出た。アヘン中毒患者を治癒する薬の特許証を持っていたからだ。解放区は新中国建設のために技術者を必要としていた。しかし、いざ門を出ようとすると、敗戦後父を頼って私たちの家に居候をしていた元満州国政府の技術者の遺族が出門を禁止された。技術者の遺族は技術者ではないので、解放区に入ることは許さないというのだ。
このとき私には二人の姉と妹および弟がいたが、弟は既に脳症を起こして人事不省だ。
私は全身結核菌に侵されて化膿した複数の傷口から膿が噴出し、しかも恐怖のあまり記憶を喪失している。このまま、あと二日も卡子内に留まれば、死は確実だろう。長春を脱出する前夜に息子を一人失っている母としては、申し訳ないが、我が子の命を助けたいと思うのが人情というものだろう。このまま技術者たちのご遺族とともに卡子に留まるという父を母は捨て身で説得し、私たち一家は卡子をあとにした。
「共産党にとって有用な者だけを放出せよ」という指令が毛沢東から出ていた。私たちはまさにその方針により出門できたのである。1948年9月24日のことだった。
だからいま私はここに生き残っている。
卡子の門を出るとすぐにお粥が配られた。
解放区で飢え死にする者は一人もいないようにしろ、というのが、毛沢東の指示であった。毛沢東は「誰が民を食わせるかを民に知らせるのだ。そうすれば民は自分たちを食わせてくれる側につく」という戦略に基づく指令だった。すなわち、民は毛沢東率いる共産党を選ぶか、それとも蒋介石率いる国民党を選ぶかと、という意味だ。
この論理は現在の中国においてもなお、変わっていない。
だから、私は命を賭して経験に根差した中国分析を試みるのである。
中国共産党は「中国を経済的に豊かにしているのは中国共産党だ」として、統治の正当性を主張している。
たしかに中国は豊かになった。
しかしその分だけ貧富の差が開いている。
そして人は腹が満ちればそれでいいという生き物ではない。
尊厳を求めている。
経済的に豊かになれば権利意識も芽生える。
これからの5年間、まず第一期目の習近平政権の覚悟のほどが問われている。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130107/241896/?P=1
また長春在住の市民の間ではよく知られていることで、私の知り合いも親たちから聞いた話をしてくれたことがある。
ちなみに国民党軍の司令部は旧満州中央銀行本店-現中国人民銀行長春支店-の地下室におかれていたという。一度見学したことがあるが頑丈な施設だった。
以下では遠藤氏が改めて体験を整理して語っておられる。
「中国に言論の自由はいつ来るのか?
遠藤 誉 【プロフィール】 バックナンバー2013年1月9日(水)1/5ページ
リベラルな論調で知られる広東省の新聞「南方周末」は今年の新年特集として「中国の夢、憲政の夢」というタイトルの記事を出そうとしていた。「憲法に基づいて自由と民主を実現しよう」という内容だ。胡錦濤元総書記が2012年11月8日の第18回党大会で繰り返し主張した「政治体制改革」を習近平政権が実現するか否か、その決意のほどが試される記事であったといっていい。
ところがこの記事は中国共産党広東省委員会宣伝部によって掲載を禁止され、「こんにちの中国は民族復興の偉大な夢に最も近づいた」という中国共産党礼賛記事に置き換えられたのである。正月明けに初めてそのことを知った同紙の記者は、2013年1月3日の中国のツイッターに相当する微博(ウェイブォー、中国内で禁止された「ツイッター」に相当するサービス)で経緯を暴露。言論弾圧だという怒りをぶつけた。
すると、中国のネット空間はいきなり炎上。多くの網民(ネットユーザー、ネット市民)が「南方周末」を支持した。
1月4日にはリベラル派の長老たちが主宰する雑誌「炎黄春秋」のウェブサイトが閉鎖されたばかりだ。
1月7日、言論の自由を求めるメディア関係者は南方周末新聞社の付近に集まり、抗議集会を呼びかけた。応援は中国全土の知識人からも届いている。
前回の記事で私は昨年の11月15日に選ばれた中共中央のトップ7名である「チャイナ・セブン」の布陣が、あまりに保守的であることを述べ、「これで政治改革ができるのか」と危惧したが、こんな形で早くも現実になってしまった。
私が中国の「言論の自由」にこだわるのは、私自身が経験した革命戦争における惨事を、65年経った今も中国政府が認めようとしないからだ。
1947年晩秋、中国共産党軍(のちの中国人民解放軍)は私が住んでいた吉林省長春の街を都市ごと鉄条網で包囲して食糧封鎖し、数十万の市民を餓死に追い込んだ。私は長春を脱出するために「卡子(チャーズ)」という中間地帯に閉じ込められ、餓死体の上で野宿した。恐怖のあまり記憶喪失にまでなったこの経験を1984年に『卡子――出口なき大地』(読売出版社)として出版。中国語に翻訳し中国で出版しようとしたが、こんにちに至るも、出版許可は出ていない。
しかし中国建国の父であり革命の父でもある毛沢東は、「自由と民主」を掲げて中国人民を革命に駆り立てていったのである。それを信じて、どれだけ多くの人民が命を失っていったことだろう。
革命の犠牲者は、天安門広場にある「人民英雄紀念碑」に祀られている。これは革命戦争や日中戦争(中国側から見れば「抗日戦争」)で犠牲になった者を慰霊するために建立された記念碑だ。慰霊塔の正面には「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永遠に不滅だ)という毛沢東の揮毫(きごう)がある。その裏面には周恩来による顕彰(けんしょう)文が彫ってあり、その中の一節に「三年以来在人民解放战争和人民革命中牺牲的人民英雄們永垂不朽」(ここ3年来の人民解放戦争と人民革命の中で犠牲になった人民の英雄たちは永遠に不滅だ)という文言がある。
しかし、この犠牲者の中には「長春で中国共産党軍が餓死に追いやった数十万の一般人民」は入っていない。
なぜなら丸腰の人民の命を奪ったのが「人民の味方」であるはずの中国人民解放軍だからである。
それは1989年6月4日、天安門で民主を叫び中国人民解放軍の銃弾により命を落とした若者たち同様に、語ってはならない犠牲者なのだ。
語ることさえ犯罪なのである。
自分の肉親を殺されながら、私たちは殺された事実を語ってはならない。まるで犯罪者が自分の過去を語るように、ヒソヒソと周りに知られないように語らなければならないのである。
私はもう72歳になる。生きている間にこの史実を何としてもこの世に残し広めたいと思い、昨年末に『卡子--中国建国の残火(ざんか)』(朝日新聞出版)を出した。新政権の「チャイナ・セブン」が早々にこのような言論弾圧をするのであれば、私が生きている間にこの中国語版が中国で出版されるかどうか、はなはだ疑問だ。おそらく無理だろうと思う。
そこで、その史実の概略をここに紹介させて頂きたい。
私は1941年に中国吉林省の長春で生まれた。
1945年8月15日、日本が終戦を迎えたとき中国は「中華民国」という国号で、国民党の蒋介石によって統治されていた。しかし中国共産党による国を創ろうとしていた毛沢東は、「革命」を起こすために国民党に戦いを挑み、「国共内戦」を展開していた(国民党と共産党の間で戦われた戦いなので「国共内戦」と称する)。
日本が敗戦で苦しんでいたころ、長春にはソ連兵が侵攻してきて、私の家の向かいにはゲーペーウーという、ソ連の軍警察の拠点が設置された。ソ連軍が支配する中、共産党と敵対するはずの国民党が長春入りした。この軍隊は旧満州国の鉄石部隊と、改編した現地即製の小部隊ではあるものの、「中央軍」と呼ばれて、それなりに国民党政府による軍隊らしく構成されていた。
1946年になると、北に向って移動するソ連軍の巨大な軍用トラックが目立つようになった。長春およびその近郊にある工場の部品等、重機を根こそぎ奪って、ソ連軍は長春から引き揚げていったのである。「ロスケ」と呼ばれたこの時のソ連軍は、シベリヤ流刑囚を中心として編成されていたためか、凶暴で貪欲。市民から奪えるものは全て奪っていったと言っていい。
次に何が起きるのだろうかと、市民は息を潜めたが、その不気味な静けさを破ったのは銃声であった。毛沢東が率いる中国共産党軍が攻撃してきたのだ。当時は共産党軍のことを八路軍と呼んでいた。
市街戦が続いている間、私たちは地下室に避難していたが、銃声が少なくなってきたので、私は家の2階に上がった。
そして大好きだった夕陽を見ようと窓を開けた瞬間、私は右腕に弾を受け、気絶していた。国民党の兵隊が私の家の屋根伝いに逃げようとし、それを狙った八路軍の流れ弾に当たってしまったのである。46年4月16日のことだ。
気がついた時には、長春市は八路軍によって支配されていた。
八路軍が支配していた期間は短く、5月22日になると突如姿を消した。毛沢東の指示で瀋陽に行ったと、後に聞く。
入れ替わりに進軍してきたのが、蒋介石直系の国民党正規軍だ。最新鋭のアメリカ式装備で固めた、ビルマ歴戦の精鋭部隊である。
高圧的な軍隊だったが、しかしアメリカのマーシャル特使の指示もあって、ようやく治安が暫時保たれるようになり、日本人の大量帰国である「百万人遣送(遣送は送還、退去の意味)」が、その年の夏に始まる。しかし私の父は技術者だったので、政府に「留用」され、帰国を許されなかった。
翌47年夏にもまた、日本人の遣送があり、国民党政府にとってどうしても必要な最低限の日本人技術者を残して、他は帰国させるという方針が実行された。父はこの時もまた帰国を許されなかった。
この遣送における最後の日本人一行を送り出した10月、長春の街から突然、電気が消えた。水道もガスも出ない。
長春市が丸ごと八路軍に包囲されたのである。食糧封鎖だ。
食料を近郊に頼り、都市化していた長春は、たちまち飢えにさらされる。
最初のうちは物々交換により、いくばくかの食料を手に入れることも出来た。しかし食糧そのものが底をつき、餓死者が増え始める。特にその当時の長春の冬は零下38度を記録したこともあり、10月ともなれば零下にいきなり突入する。暖を取る薪も石炭もなく、多くの日本人が引き揚げていって荒屋となった家屋を壊して燃料とする者が多くみられた。さもなければ凍死するしかない。
私たちはできるだけ体力を消耗しないように、昼間も横になって飢えを凌いだ。
飲み水は同じ庭にあった唯一の井戸を用いた。
やがて腹違いの兄の子供が餓死し、次に兄が餓死した。
私の右腕の傷は化膿して腫れ上がり、両腕の関節が次から次へと化膿しては潰れていった。私の父は、ソ連軍の攻撃から逃れて長春に辿りついた開拓団の人たちを数多く養ってあげていたが、その中の一人のお姉さんが結核性の筋炎を患っていた。私は彼女の包帯交換などをしていたために、弾が当たった右肘の傷に結核菌が感染して、それが全身に回っていたのである。
やがて、春がやってきた。
5月になると長春の草花は一斉に芽吹く。
摘みさえすれば食料が入るのだ。
もう何カ月間も歩いたことのない体に鞭打ち、幽霊のような足取りで、表に出て雑草を摘んだ。どのような政治勢力が働いていようとも、この天地の力をも奪うことはできまい。大地に降り注ぐ陽光までを遮ることは何人(なんぴと)にもできないのだ。
アカザは茹でるとほうれん草のような匂いがした。オオバコには苦みがあり、楡の葉は粘っこく口の中を這いまわる。それでも、何カ月ぶりかで口にする野菜により、化膿した傷口から出てくる濃の量がいくらか減るのを見て、生命の循環に圧倒される。
しかし、新芽は芽吹く先から摘まれていくので、あっという間になくなってしまった。
このとき、中国共産党軍は長春に対して「久困長囲」(長く包囲して困らせる)という決定をしている。そして「長春を死城たらしめよ」という指示を出しているのである。
長春の街はまさしく死の街と化していた。
餓死体が取り除かれることもなく街路樹の根元に放置され、親に先立たれたのか、その周りで2、3歳の子供が泣き喚いている。幼子の周りをうろついている犬。犬は野生化して、餓死体だけでなく、親に先立たれた幼子を食べるようになっていた。
旧城内という、中国人だけの居住区では、人肉市場が立ったという噂が流れていた。
国民党軍は瀋陽から飛んでくる飛行機が無人落下傘で落とす食糧により肥えていた。その落下物に市民が近寄れば銃殺される。しかし飛行機自身も低空飛行をすれば八路軍に撃ち落とされるので、上空から落とすようになり、そのうち飛来してくる回数も少なくなっていた。
この状況下、国民党政府は軍の籠城を保たせるために、市民に長春から出ていってほしかったのである。そこで国民党軍は市民を一人でも多く長春から追い出す方針を採った。
長春を包囲する包囲網を「卡子(チャーズ)」と称するが、その卡子には「卡口(チャーコウ)」と呼ばれる出入り口があり、そこからなら脱出して良いということになっていた。
ところが、私たち一家は国民党政府に「留用」されていたので移動の自由がない。しかしこれ以上長春にい続ければ餓死者が続出して一家全滅となる。
そこで父は長春市長に会い、国民党政府に「留用の解除」を求めた。市長はあまりに変わり果てた父の姿を見て、すぐに「解除証書」を発行してくれた。
9月20日、私たちはいよいよ長春脱出を決行することになった。その前夜、末の弟が餓死した。
「卡口」には国民党の兵隊が立ち、一人ひとりの身分を確認しながら「ひとたびこの門をくぐったならば、二度と再び長春市内に戻ることは許されない」と言い渡していた。
戻るはずがない。餓死体が街路に転がり、人肉市場まで立ったという所には二度と戻りたくない。この門をくぐりさえすれば、「解放区」がある。「解放区」とは八路軍(中国人民解放軍)によって解放された地域のことだ。
しかし、その門は「出口」ではなかった。
真の地獄への「入口」だったのである。
鉄条網は二重に施されていた。内側が長春市内に直接接し国民党が見張っている包囲網。
外側の包囲網は解放区に接し、八路軍が見張っている。その中間に国共両軍の真空地帯があり、こここそが、まさに卡子(挟まれたゾーン)だったのである(卡子には(軍の)「関所、検問所」の意味と、「挟むもの」という二つの意味がある)。
足の踏み場もないほどに地面に横たわる餓死体。
四肢は棒のように骨だけとなっているが、腹部だけは腸(はらわた)があり、それが腐乱して風船のように膨れ上がっている。それが爆発して中から腸が流れ出している餓死体もある。そこに群がる大きな銀蠅。近くを難民が通ると「ブン!」と羽音が唸る。
外側の包囲網である鉄条網が見えた辺りから、八路軍の姿が多くなり、導かれるままに腰を下ろす。死体の少なそうな地面に、持ってきた布団を敷き、野宿。陽は既に沈んでいた。
翌朝目を覚まして驚いた。布団の下が嫌にゴロゴロすると思っていたら、ふとんの下から餓死体の足がニョッキリ出ている。
新たな難民が入ってくると、それまで死んだように横になっていた難民たちが一斉に起きあがり、ウワァーッと新入りの難民を取り囲んで食料を奪う。八路の兵隊は、それを特に止めるでもなく、黙って見ている。そしてその八路軍が守る解放区側に接する包囲網の門は、閉ざされたままだった。
私たちは、この真空地帯に閉じ込められたということになる。
ここで死ねというのか――。
赤旗の下で戦っている八路軍は、苦しむ人民の味方ではなかったのか――。
夜になると、前の夜には聞こえなかった地鳴りのようなうめき声が暗闇を震わせた。父が「ちょっと行ってくる」と立ち上がった。父にしがみつくことによって何とか恐怖に耐えていた私は、そのまましがみついて父のあとを追った。
そこには死体の山があった。うめき声はここから出ていた。
「死に切れぬ御霊(みたま)の声じゃ・・・」
父はそういうなり地面にひれ伏して、御霊を弔う神道の祈りの詞を唱え始めた。
するとどうだろう。死んだはずの死体の手が動いたのだ――。
鉄条網の向こう側の電柱についている裸電球に照らされて、青白い手が動いた――!
その瞬間、私の精神をギリギリまで支えていた糸が、プツリと切れてしまった。
死体の前で祈っている父の姿が、どんどん小さくなっていく。
うめき声は消えたが、私は正常な精神を、この瞬間失っていた。記憶を喪失してしまったのである。
四日目の朝、父に卡子出門の許可が出た。アヘン中毒患者を治癒する薬の特許証を持っていたからだ。解放区は新中国建設のために技術者を必要としていた。しかし、いざ門を出ようとすると、敗戦後父を頼って私たちの家に居候をしていた元満州国政府の技術者の遺族が出門を禁止された。技術者の遺族は技術者ではないので、解放区に入ることは許さないというのだ。
このとき私には二人の姉と妹および弟がいたが、弟は既に脳症を起こして人事不省だ。
私は全身結核菌に侵されて化膿した複数の傷口から膿が噴出し、しかも恐怖のあまり記憶を喪失している。このまま、あと二日も卡子内に留まれば、死は確実だろう。長春を脱出する前夜に息子を一人失っている母としては、申し訳ないが、我が子の命を助けたいと思うのが人情というものだろう。このまま技術者たちのご遺族とともに卡子に留まるという父を母は捨て身で説得し、私たち一家は卡子をあとにした。
「共産党にとって有用な者だけを放出せよ」という指令が毛沢東から出ていた。私たちはまさにその方針により出門できたのである。1948年9月24日のことだった。
だからいま私はここに生き残っている。
卡子の門を出るとすぐにお粥が配られた。
解放区で飢え死にする者は一人もいないようにしろ、というのが、毛沢東の指示であった。毛沢東は「誰が民を食わせるかを民に知らせるのだ。そうすれば民は自分たちを食わせてくれる側につく」という戦略に基づく指令だった。すなわち、民は毛沢東率いる共産党を選ぶか、それとも蒋介石率いる国民党を選ぶかと、という意味だ。
この論理は現在の中国においてもなお、変わっていない。
だから、私は命を賭して経験に根差した中国分析を試みるのである。
中国共産党は「中国を経済的に豊かにしているのは中国共産党だ」として、統治の正当性を主張している。
たしかに中国は豊かになった。
しかしその分だけ貧富の差が開いている。
そして人は腹が満ちればそれでいいという生き物ではない。
尊厳を求めている。
経済的に豊かになれば権利意識も芽生える。
これからの5年間、まず第一期目の習近平政権の覚悟のほどが問われている。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130107/241896/?P=1